風信と南風「待て、南風」
報告を済ませて部屋を出て行こうとしていた南風の背が、風信の声にぎくりと固まる。
「腕をどうした」
「いえ、何も……たいしたことじゃありません」
南風は振り返りながら腕にさっと手をやった。
南風の左側の二の腕、ちょうど中衣の短い袖に隠れるあたりだったが、机の前に座っていた風信の位置からはそこの衣が裂け血が滲んでいるのが見えた。
「座りなさい」
風信が言うと南風は眉間に皺を寄せ、小さく首を振った。
「大丈夫です。医官にでもみてもらいますので」
「たいしたことないんじゃなかったのか?」
風信が小さく笑うと、南風は眉間の皺をさらに深くしながらも、のろのろと戻ってきて座った。
「あの、本当に大丈夫ですから」
なおも腕に手を当てたまま、困惑の混じったような顔で南風はちらりと風信を見る。その顔には、自分に診せるのは不安だとかいてある。風信は思わず心の中で小さく笑う。自分もよく言われたものだ――なんでもかんでも顔に出すな、と。
風信が無言で見つめ返すと、南風は小さく溜息をついて、観念したように手を離した。
薄くはない衣の生地が切り裂かれ、その下から鮮やかな血が滴る傷口が覗いている。風信は棚から膏薬を持ってきて、南風の横に座った。指に膏をとり、南風の衣の破れた所を持ち上げる。だが衣の裂け目からどう傷口に塗ろうかと逡巡する風信の手元を見て南風が言った。
「あの、脱ぎます」「え?」
そこまでしなくても、と言おうとする風信をよそに、南風は上の衣をするりと脱ぎ捨て、その下の衣から器用に左腕を抜いた。
南風の腕と上半身が現れる。しっかりと筋肉はついているが、まだ厚みの劣る体を思わず風信は見つめた。どこか柔さが残る肌には、自分ほどではないが、不思議と自分と似たような場所に傷跡がある。
風信は小さく咳払いして、腕の傷に目を戻した。やはりかなり深い。そっと南風の腕をとり、薬をとった指先を傷口にあてる。南風の腕が僅かに跳ねた。
「痛いか?」「いえ…!」
とんでもないというように南風がきっぱりと言う。
「それならそんなに緊張するな」
風信が言うと南風は小さく息を吐き、ぽつりと言った。
「なんで、目ざとく見つけるんですか? あなたも……扶揺も」
「扶揺も気づいたのか?」
「ええ、ここへ来る前に鉢合わせしたんですが、すぐに気づいて、鬼の首でもとったようにせせら笑ってきました」
南風が憮然とした顔で言う。任務で負傷したなどという恰好の悪いところを見られたのが癪だったに違いない。
自分の傷や不調に気づいてくれる者がいる有難さはまだわからないのだろう──そう言うと南風はやはり不可解そうな顔をした。
「将軍、よくわからないのですが」南風が言う。
「あいつは、なんでいつも隙あれば俺を見下そうとするんです?」
思わず風信は苦笑する。そっくりそのまま同じ問いを、この数百年、何度問うたことだろう。
「さあな。俺にもわからん」
膏が染み込んだ傷口が少しずつ癒えていくのを見ながら風信は言った。
「自分には届かないのではないかと認めるのが嫌で、見下そうとしているのかもしれないな」
南風は膝に目を落としたままだが、その顔はまだ納得できないと言っている。だが、今はそれでいいのだろう。
傷口はふさがったが、その傷からはまだ強い邪気が漂っている。風信の方に顔を向けた南風も、風信が傷口を険しい顔で見つめているのに気づき、腕に視線を落とす。そもそも、南風の力なら、そうそう負傷するようなこともないはずだ。
「油断したのか?」
風信が言うと、南風の顔が強張る。
「いいえ!」
その鋭い否定に、叱責のように聞こえてしまったかと風信は心の中で舌打ちする。どうも、部下との意思疎通というのは苦手だ。いや、部下に限らないが。
「いや、その、無理をさせたかと」
相手は凶の鬼ではあったが、風信の予想より強力だったらしい。自分も行くべきだったかと後悔がよぎる。
「いえ、そんな!」
ふたたび南風の声がきっぱりと否定する。
「自分の力が及ばなかっただけです」
恥じるように南風が俯く。その横顔にはらりと黒い髪が揺れる。
「手に負えない時は、無理をせず他の者を頼れ」
風信が言うと、南風は膝に置いた拳を握り、さっと顔を上げた。
「自分も、早く将軍みたいになりたいんです。どんな任務でも易々とこなせるように」
目と鼻の先でそんな真っすぐなことを言われるとなにやら気恥ずかしくなり、風信は「そ、そうか……」と呟きながら膏薬の蓋を閉じた。だが、南風はそんな風信の様子には気づかないかのように続けた。
「あのくらい、なんてことありません。それに俺……私は、将軍の命令とあればどんな任務にだって喜んで行きます!」
風信が顔を上げると、南風の黒い瞳が、まっすぐに風信を見つめていた。その意思の強そうな眉と、見開いた目の間には、微塵の迷いもなかった。
なにものも恐れないかのようなその若い視線から逃げるように、風信は視線を傷口に戻した。手をかざしてゆっくりと法力を注ぐ。
「では――」南風の視線を感じながら風信は静かに言った。
「もし私が崖から飛び降りろと言ったら――」
「もちろんそうします」南風が遮るように応える。
「では、扶揺と仲良くしろと言ったら?」
「…………善処します」
風信は思わず笑いを噛み殺す。どうやら、扶揺と仲良くやるのは崖から飛び降りるより難しいらしい――まあ、その気持ちはよくわかる。
地上にいた頃のことを思い出す。殿下に、身を投げろと命じられたら喜んで従っただろうが、慕情との喧嘩を諫められるとどうにも気持ちが収まらなかったものだ。
「主君に忠実なのは正しいことでしょう?」
南風の声が尋ねる。
不意に胸の奥が縮こまるような感じがした。
あの頃の自分は、ひたすら殿下に全てを捧げ、その命に従うことだけが全てだった。そしてそんなふうに滅私忠実であろうとする自分を誇らしく思っていた。
「ああ」風信は答える。
「だが、主君への忠誠だけでつき進んでいる時には、辿り着けない場所もある」
後ろは振り返らず、脇目も振らず、ただひたすら前だけを見て。主君だけを見つめて。
そして、その見つめる先がなくなった時、自分はいかに脆かったのか知った。
あの頃が無駄だったとは微塵も思わない。
若かったあの頃があって、その後の長い道のりがあって、そして今、自分はここにいる。若い神官の真っ直ぐすぎる尊敬の眼差しを受けて。
不意に熱いものが込み上げてきて、風信は横を向いて目を瞑った。南風の腕から手を離す。
「もう大丈夫だ……行っていいぞ」
だが、立ち上がる気配はない。
南風の声が聞こえた。
「将軍も、もう、たった一人で頑張らなくても良いのではないでしょうか」
この世に一人で放り出された時に悟ったのだ。
自分の道は自分で選びとって、自分で歩まなければならないと。長い髪と袖をなびかせながら一足先にそうしたあいつのように──。
だが、そうして辿り着いた先で、自分は孤独だっただろうか。
ゆっくり目を開けると、南風の姿はなかった。
風が頬を撫でる。窓の方に首を回すと、机の上に一向に片付かない書の束が風に揺れるのが見えた。
ゆっくり指をこめかみに当てる。
『なんだ、風信』
すぐに不機嫌そうな声が返ってくる。
「……慕情」
『……どうかしたのか?』
「え?」
『いや、いつもの馬鹿みたいな威勢がないから、どうしたのかと』
風信はふっと息を漏らして苦笑いしながら、手で顔を拭った。いつだってあいつは、煩わしいほどに目ざとくて耳ざといのだ。