みんなは慕情機長のことを誤解している。
扶揺は常々そう思っていた。
玄真航空の社員たちの間での彼の評判といえば、操縦の腕はなかなかだが、という枕詞のあとに大抵、人づきあいは悪いし冷たいし自分のことしか考えていない――と、そう続く。
確かに最初の二つについては、まあ完全に否定はできないかもしれない――扶揺も似たようなところがあるし嫌いではなかったが。
だが最後の一つについては、大いに同意しかねるところだった。
「おはよう、扶揺。久しぶりだな」
フライト前のブリーフィングのために情報を調べていた扶揺は、コンピュータの画面から顔を上げた。
やってきた慕情機長は、いつも通りぴしりと完璧にアイロンで折り目をつけたシャツに身を包み、喜怒哀楽のない表情で扶揺の横に立った。そんな慕情機長のあまりの隙のなさには、やたら緊張してしまうから嫌だとぼやく副操縦士仲間は多いが、扶揺は好きだった。冬の朝のきりりとした空気を吸った時のように身が引き締まる。フライト前にはありがたい。
調べておいた情報を端的に伝えたあと、扶揺は画面の天気図を指さした。
「今日はやっぱりこの辺が嫌な感じですね。まあ、機長なら突っ切れると思いますが」
慕情機長の操縦の腕は見事だ。彼の人間的な部分にぶつぶつ言う者たちも、それについては異論はあるまい。多少空気が不安定なところでも、慕情機長なら難なく飛ばせるだろう。
だが機長は短く「いや、迂回しよう」と言った。
「え?」思わず扶揺は聞き返す。
「今日の乗客の顔ぶれは確認したか?」
「はい、しました」
特に注意を要するような情報はなかった気がするが、と内心で首を傾げる。
「今日の便は子供や乳幼児が多い」
休暇シーズンが始まったばかりとあって、確かに子連れの乗客は多い。
「小学生の団体もあっただろう」
そう言われて、ああそういえばと思い出す。
「飛行機に慣れていない子供もいる可能性が高い。そんな子供や赤ん坊が揺れで泣いたり騒いだり、酔って吐いたりするかもしれない」
「まあ確かに……」
「想像してみろ。そんなこんなで阿鼻叫喚の騒ぎになったりしたら、周りの乗客たちの機嫌も悪くなり、そしてその結果、被害を被った客室乗務員にあとから白い目で見られるのは私だ。そんなのは御免こうむる。迂回で燃料が余計にかかるだの、そんな会社の不満など知ったことか」
冷たい目をしたまま、淡々とかつ流れるように慕情機長はそう言ってのけた。
扶揺は、では迂回する進路でと頷きながら思った。
みんな影で言っている――慕情、アイツは結局いつだって自分のことしか考えてない、と。
だがそうだろうか。
自分に火の粉がかからないように立ちまわっているように見せかけて、本当のところは結構人情深いのだ。乗客、特に子供に対しては殊更に。
だがそれを悟られないように、冷たい仮面を被っている。
他の人たちはその仮面の下の優しさになど気づかないのだろう。彼にそんな一面などないと決めてかかっているからかもしれない。
でもだからといって、扶揺は皆のイメージを変えるべく奔走しようとは別に思わなかった。自分だけが慕情機長のそんなところを知っている――そう思うと、扶揺の心の敏感なところがくすぐられるような感じがするからだ。
だが、彼がいかに乗客思いといえど、飛行機が揺れる悪天候を嫌がるというわけではない。――むしろ逆だ。
「やっぱりかなり厳しいですね……」
フライトも終盤、着陸態勢に入ろうかというところで、到着地の気象データを見ながら扶揺がつぶやく。
二人の飛行機の行先へ近づいていた嵐は、予想よりも速度を早めたらしい。ぎりぎり滑り込みで着陸できるか否か。もし着陸不能な気象状態になれば、戻るか他の空港へ行くかだ。それだけは避けたいが、しかし安全には変えられない。
だが機長席の慕情機長は顔色を変えずじっとウェザーレーダーを睨んでいる。その目は険しいが、大抵の場合、フライト中の慕情機長の目は常に「険しい」寄りなので感情は読めない。
高度を下げていくとやはり強い揺れに襲われる。だが、この気象条件なら普通はもっと揺れるはずだ。ちらりと横をうかがうと、慕情機長は操縦桿やスイッチを忙しく操作しながら、その目は、まさに目にもとまらぬ速さで操縦席に並んだ計器やパネルを素早く行き来していた。
その動きの鋭さはまるで、切れ味の良いナイフで鮮やかに肉を切りさばいているかのようだった。
かっこいい。
脳が一瞬、カッと熱くなったような気がした。
凄い――凄すぎる。
玄真航空の機長たちはみな操縦技術が高いが、それでも、こんなのは初めてだった。
だが、その時扶揺の頭に浮かんだのは、憧れに呆けた感情ではなかった。
自分も早く、あんなふうになってやる。
揺れに踏ん張る足先から背骨へ、電流が流れるような感じがした。一つも見逃すまいと計器に目を走らせながら、管制との通信に集中する。
空港が近づいて来たが、やはり着陸はかなり困難になっているらしい。管制と他機とのやり取りが忙しく入る。
「南陽航空も諦めましたね」
滑走路まで高度を下げたものの、地上付近の風にやられて断念する機、何度も着陸を試みたものの諦めて他の空港へ向かう機――もはや空港は着陸チャレンジ状態と化している。
「どうしますか? 燃料は余裕があるので、一度いってみて駄目だったらやっぱり――」
「いや、いける」
その時慕情機長が低い声で言った。横を見ると、正面の空を睨んだまま、その口はニヤリと不敵な笑みを浮かべていた。
やってやろうじゃないか。
ボイスレコーダーも拾えないほどの低く小さな声が聞こえた気がした。
そう、普段は無風の湖面のごとく感情の起伏など見せない慕情機長が感情を露わにするときが二つある。
一つは、南陽航空が絡むとき。
会社としてもライバル会社ではあるのだが、どうやら向こうに、昔から張り合っている腐れ縁のライバルパイロットがいるらしい。よっぽどでないと慕情機長は歯牙にもかけないから、向こうも優秀なのだろう。扶揺のほうも、同じように心あたりのある顔が向こうにいるので、気持ちはよくわかる。
そしてもう一つは、悪天候のときだ。
良好な気象の中飛べるのが一番ではあるのだが、しかし悪天候の時こそ腕の見せ所と気持ちが燃え上がるのを、慕情機長は隠そうとはしない。不遜な奴だと眉をひそめる年配の機長もいるらしいが、乗り切れるという確たる自信と手腕に裏打ちされている以上、面と向かって批判できる者などいなかった。
慕情機長が口を開いた。
「これは私の勘だが、おそらく、一瞬、風の流れが落ち着く瞬間が来る。その時を狙う」
「わかりました」扶揺は答えた。
確かにありえる。だが、それは本当に一瞬、一分にも満たないかもしれない。
だがそれでも、いける気がした。
慕情機長なら。
例えば、前方にやっかいな雲があった時、進路を変える前に不思議と雲のほうが進路から逃げていくのだ。稲妻が近づいてきても、絶対に機に落雷することはない。
忌々しいほどにアイツは「持っている」よな――そんな風に囁かれるほどに。慕情機長には空の神か何かがついているようだった。
滑走路がはっきりと見えて来た時、それまでが嘘のように風が和らいだ。
まるで、慕情と扶揺の乗った機体に畏れをなしたかのように。
村人をいたぶっていた鬼が退散していくかのように。
それでもまだ扶揺では到底手に負えないような暴風ではあったが、強い意思を示すかのように強めに着陸した機体は、衝撃こそあったものの、勝ちを確信した王者のように滑走路へ降り立ったのだった。ゲートを指示する管制官の声にも心なしか驚きが混じっているように聞こえて、操縦していない扶揺まで誇らしく感じた。
「お見事でした、キャプテン」
駐機後、畏敬の念をこめて扶揺が言うと、慕情機長は小さく肩を竦めた。
「別にこれくらい大したことじゃない。ま、久々にやりがいのあるフライトだったな」
扶揺のフライトブックにサインをし、「ん」とこちらを見もしないでつき返す。
その様子に、扶揺は心のなかでニマニマと笑ってしまう。こうやって絶対に視線を合わそうとしないでつっけんどんな態度を取るときは、照れくさい時なのだ。
「何か聞きたいことでもあれば、中に戻ってから聞くといい」
着陸の操縦中は質問などできないから、社に戻ってからゆっくり教えてやろうという、そんな優しさを愛想のない言い方で包んでいる。
聞きたい事――扶揺は頭をめぐらせた。着陸体勢の直前まではいろいろあったような気がするが、もう答えはすべて見せてもらった気がする。語らずとも、その隣にいるだけで、どれだけ教本を読んでも、どれだけシュミレーターに座っても学べないことを自分のこの身に注ぎ込んでくれる。
機体を降り、扶揺を待つでもなくスタスタと先を歩くその背中を見ながら扶揺は考えた。
有能さと優しさを冷たい鋼の機体で包んでいる慕情機長――誰がなんと言おうと、そんな機長と飛ぶのが、いや、そんな彼自身がたまらなく好きなのだ、と。