ちょはん 隠れ家宅飲み編「趙の……いえ先代の総帥はどのような方だったんですか?」
冷たい声とは裏腹に、ハンくんの表情は穏やかである。これはやってしまったな、というのがひとつ。もうひとつは、もしかしたら自分の話を聞いて欲しいという前振りかもしれないという期待だ。
ハン・ジュンギは、あまり自分自身のルーツに繋がることを話さない。それは、”ハン・ジュンギ”として生きる決意の表れかもしれないし、俺に話す必要がないと線引きされているのかもしれない。
ハンくんもなかなか家族関係が複雑そうである。マフィアに身を落としている時点で、複雑も何もないのだが。ソンヒ曰く、彼は元々はジングォン派の構成員では無かったという。じゃあ整形させたのは誰なのだというところで、お互いに気まずい空気が流れた覚えがある。
家族の話となると、春日くんも大概だがハンくんもなかなかのものなのだ。渡世の親・荒川真澄のために、大阪へ行くと意気込む春日くんをあっさり見送ろうとしたのは彼だけだ。春日くんが荒川へ向ける熱量は相当だと思ったが、そこに全くの無関心を通り越して嫌悪感に近い感情を抱く彼も中々に鬱屈している。彼が後で、さっちゃんにしこたま怒られていた姿はかなり面白かった。
そういえば荒川真澄が殺された日から、ハンくんの春日くんへの態度は明らかに変わっている。なんというか、春日一番が荒川真澄に向ける尊敬の念を羨ましそうに見ている気がするのだ。育ての親の話はほとんどせずに、極道の親父の話ばかりする春日一番のことを「ちょっと変わってるよね」とそう呟いたのが琴線に触れたのかもしれない。
「俺の親父?俺の親父は、まさしく絵に描いたような中華マフィアだよ。親子同士でも会話は絶対に敬語。目上の者を敬え。ゲームは1日1時間。帝王学と拳法は子供の頃からみっちり仕込まれたよ。そんで、俺に代替わりして病気で普通に死んだ」
親父が死んだ時、どうしても普通に死んだことが腑に落ちなかった。なぜだか悲劇的にドラマチックに死んでほしかった。マフィアの総帥が、カタギの人間の様に死ぬなんて納得がいかなかった。受け入れるまで時間は少しかかったと思う。
「思ってたより普通、ですね。春日さんみたいに尊敬する事はなかったんですか?」
彼の予想をうまく裏切ることができたおかげで、刃は下げられた。そう、俺の親父は超普通。息子の俺から見て、マフィアであること以外はいたって普通の人間だった。もちろんそれは、俺が血を分けた息子だったからであったからだし、親父なりの愛情はあったのだと思う。
「じゃあ、ハンくんの親父ってどんな奴だったの?」
笑って彼の顔を見ると、目はなんの感情もないままに口元だけで微笑んでいる。
「趙さん、申し訳ないのですがビールを取っていただけますか?」
彼が手のひらを広げて、テーブルの上のビールを催促した。なるほど、話を聞きたければ酒を渡せということだ。気のせいかもしれないが、総帥を辞めてからたまに俺に対して尊大な態度をとることが増えた気がする。
こんなことで腹を立てても仕方がないので、笑ってビールを取った。
「飲みな飲みな〜。だいたい親父の話ってシラフで語るの無理だよ。やっぱりそれなりに恨んでいる事だってあるからね」
彼が欲しそうな言葉をいくつか混ぜて、ビールを渡す。ニック尾形が差し入れてくれたビールを見た足立さんが、発泡酒じゃなくてビールだぞ!と喜んでいたのを思い出す。そういえばもし親父が生きていれば、足立さんくらいの年かもしれない。
「ありがとうございます」
彼は受け取ってすぐプルタブを上げて口をつけると、豪快に傾げた。数度喉を鳴らして、大きく息を吐く姿は普段の彼らしくは無いが、かなり様になっていた。
俺も付き合って缶を口付け傾ける。缶を片手に少し遠くを見る彼の横顔には迷いが見えた。
「ところでハンくんは、親父に打たれたことってある?俺は打たれるっていうより、稽古中に蹴り飛ばされたんだけどね」
これは本当。ガキの頃、調子に乗って親父に挑んだら、5mくらい蹴り飛ばされた。何が起こったのか分からなくて、声も涙も出なかった。
「総帥の御子息でも、そういった事があるのですね。もっとちやほや育っていたものかと」
「これでも一応武闘派マフィアの家なんだけど!?」
「ふふっ、言われてみればそうでしたね。何となくヤクザの息子みたいに、こう……甘やかされて育ったのかと思っていました」
そこは近からず遠からずだろう。欲しいと言ったものは全て買い与えられたし、我儘も無理に通してくれたことはある。なんやかんや親父はそこの匙加減は上手かった。
「いえね、私にはあまり分からなくて。春日さんが荒川組の組長として荒川真澄を尊敬しているのは理解できますし、失った痛みも分かります」
そう、彼も主を、いや家族を失っている。
「でも、その熱量といいますか……感情が少し違うのが……上手く言葉にはできません」
「沢城も嫌な事言ってたからね。胸糞悪いよあれは」
沢城の懺悔は、それはそれは本当に自分勝手でヤクザらしかった。どこまでも自分の都合ばかりで、周りの事なんて考えてもいない。そのくらい無神経だからヤクザに身を落としたとも言える。
「でも、あの話を聞いても春日さんは揺らぎませんでした。本当はそうであって欲しいと思っていたんでしょうか。もしそうなら、なおさら私にはよく分からないのです」
まぁ、そこは大丈夫。たぶん、全員分かっていないと思う。俺も春日くんの荒川真澄と青木遼に向ける感情は全く分からない。
「それは、俺も分からない。考えるだけ無駄化も。そんで?ハンくんの親父はどうしてるの?」
俺に酒を取らせて、喋らせたのだから嫌でも話してもらおう。妙な空気になれば、無理やりにでも修正すればいいだけだ。
「死にました。酒に溺れて」
そう言い捨てて、彼はビールの残りを一気に飲んだ。空の缶が、天板に当たってカツリと倒れた。
「ふーん。お前の親父にしては、しょうもない死に方じゃない?」
なるほど、父親との関係はかなり悪かったらしい。冷えたロング缶を彼の前に置くと、ハンくんは迷わす手に取って缶を開けた。
「それがそうでも無いんです」
ロング缶の3分の1ほどを飲んで、彼はうっすら笑っている。
「言葉通りですよ趙さん。酒に、溺れて、死んだんです。まぁ、毎日毎日飽きもせず酒ばっかり飲んでたしょうもない奴でしたから。好きな酒に溺れて死ねて、本望だったと思います」
ハンくんはそう早口で捲し立てると、俺を見てにっこりと笑った。
「なるほどね。お前もなかなか業が深いわ。そりゃあ春日くんの事は分からんでしょ」
まだ、詳しいことは聞かない方が良さそうだ。そして、俺たち以上に春日くんの親と子の熱量が本当の意味で理解できていないらしい。
「えぇ全く。最初の印象は最悪でしたよ。ヤクザの親子ごっこか……とも思いましたが、私も私で兄弟ごっこしてたなと我が身を振り返るいい機会になりました」
「それは今もじゃん。お前の姉貴はソンヒじゃないの?」
「……それは、否定できませんね。私にとってのソンヒは、ハン・ジュンギに代わる姉ですから」
ハン・ジュンギは兄で、ソンヒは姉。
「そっか。じゃあ俺は」
「………………趙ですね」
「おい、そこはさ仲間とか、元総帥で尊敬してるって言うとこじゃないの?」
「う〜ん……趙は…………趙ですね」
話の温度が変わったので、チェイサーを勧める。ウーロン茶を手に一旦仕切り直すこととしよう。テーブルに置きっぱなしで誰が使ったのか分からない、手近なグラスを二つとって並々と注いだ。
「よ~し!じゃあお前にとって特に何者でもない俺に乾杯!」
「それ、自分で言います?」
いいのいいの、とコップを近づけると軽い音が鳴った。