『ローンシャークの隣で女が死んでる話(2)』 例えば。
切符を買おうとして、券売機の前で手が止まったとき。
そうして考える。──『今、俺はどの券を買おうとしていたんだ?』
東へ行くのか? それとも北? リニアに乗りたかったのか、それともメトロ? 疑問はやがてより根本的なものになっていく。つまるところ──ここはどこだ?──俺はどこから来た?──俺は誰だ?──そういう風に。
振り返っても何もなく、前を見ても行く先は見えない。雑踏の中で立ち止まって泣き喚いたところで意味はないので、ただメモを開く。考えがあってのものではない。ただ手にした銃の銃口を自分に向けることのないように、空腹の満たし方を忘れないように、体に染みついたルーティンに従うだけ。
メモの中には、今までのセーブデータがある。それをロードし、新しいセーブデータを残していく。その繰り返しで、ローンシャーク──あるいはシャイロック・キーン──少なくともそう名乗る誰か──は出来ている。
そのセーブデータが壊れたらどうなる?
誰かに改造されてしまったら?
あるいは、そのメモの開き方すら、忘れてしまったときは?
その時が来た時、今の俺は死ぬだろう。
きっと、今までだってそうだった。
■
夢から覚めた心地だった。
揺れる身体。不快な湿気。硬い座席。聞こえてくるのは日本語のアナウンス。
漂白された意識の中で、体がルーティンを刻む。メモを開く。正常に作動した。
現在時刻は16:42。現在地は日本・東京。環状線に乗り込み、目黒へと移動中。始まりの記憶を探る──つまり、失われるまでの間の、最後に残っていた──アンブロシア・ダイナー、月を背にして吠える巨大な狼、名前は確か……。
「ライカンスロープ」
メモに記録がある。遡る。
アンブロシア・ダイナー前で、傭兵ライカンスロープとの交戦に発展。対象の目的はこちらの身柄の確保と思われる。保護目的なのか連行目的なのかは不明、依頼者も同じく不明。戦闘は30分間に渡って続き、双方の攻撃によって下水管に開いた大穴に退避し追跡を撒く。なるほど。犬科に悪臭は覿面だろう。
思わず自分の匂いを嗅いだ。幸い、もう下水の臭いはしなかった。
目黒への到着を告げるアナウンスが響いた。
■
「帰ってくれ」
「いくら欲しい?」
「帰ってくれぇー」
セーフハウスの一つを訪問すれば、開口一番容赦のない拒絶の言葉が放たれる。だがこの男に歓迎されたことはないらしいので、気にしない。
一般的な感性を引き合いに出してモノを言うのであれば、奇妙な部屋だった。外観は何の変哲もないアパートの一室、戸を開けて中を覗いても一般的な中年男性の居室、けれど屋内に三歩足を踏み入れれば空間が様変わりする。魔術書の隣に自力でカスタムしたと思しきスパコンが並び、液体に沈められた魔法陣の走り書きが黒イモリと一緒に遠心分離機の中で回転している。魔術と科学が奇妙な次元で同居した、雑多な物に溢れた部屋だ。
往生際悪くどうにかして俺を止めようとしていた男は、俺が座り場所を得る為に汚らしい本の山を崩そうとしたところで方針を変えたらしかった。「わかった、わかったからじっとしてろ、いま座る場所を作るから! 何にも触るな!」
赤と青の派手な原色スーツに身を包んだ、部屋の主の名はスターゲイザー。自称ミスティック。実際のところどうなのかは当然覚えちゃいないが、まともなミスティックを相手にしているのであれば、メモに「自称」の二文字は残るまい。
足の踏み場もない部屋の中に、かろうじて腰を下せそうなスペースが生み出されるに至り、俺はようやく本題を切り出すことができた。
「で、メールの件だが」
「ああ、くそ、何で俺なんだ。探せば他にいくらでも適任がいるんじゃないのか!? ミスティックなんて、八割の好奇心と二割の正義感で面白がってなんにでも首を突っ込んで引っ掻き回す、こんな時に笑ってやがるぞコイツって感じの胡乱な奴らばっかりだろうが!」
「だからお前にしたんだよ。自称ミスティックの中じゃ一番まともに話が成立するからな」
「は? ミスティックだが?」
「そうケチケチするな、一緒に目黒を救った仲だろう」
「そんな事実はない、捏造はやめろ」
「そうか。実力的に不可能だというなら仕方ない、他を当たろう」
分かりやすい挑発を向ければ、フードの奥から、あからさまにむっとした気配が漂ってくる。睨みつけられる気配を感じたので他所行きの笑顔を返せば、しばしの睨み合いの後、先に観念したのは向こうだった。俺の勝ちだ。
「で、いくらだ?」
「……まずは詳細を聞かせろ。それから査定する」
「データを送る」
「ああくそ、これだからテクノマンサーは」
雑多な物の山を押しのけて──その中には俺がさっき座ろうとしていた汚らしい本の山もあったわけだが──どうにかスペースを作り出し、紙魚やら埃やらがが舞い散るフローリングが見えるようになるまでに1時間半。代金を出すなら掃除をしてやろうかと持ち掛ければ、振り返らずに「お前に稀覯本の価値は分からん」と一蹴された。失礼なやつだ。
そうしてようやく現れたフローリングに、咳き込みながら奴がチョークのようなもので子供の落書きを始めたのが二十分前。三連続のくしゃみが響いたあたりで、無言で窓をカラカラと開けた。サービスだ、つけておいてやる。
子供の落書きはそれから五分ほどかけてようやく完成した。満足げにそれを見下ろしたスターゲイザーが思い出したように顔を上げる。
「そういえば結局、そのミランダ某は何者なんだ?」
「聞きたいか?」
「……いや、やめと……頼……いや……うーん……」
「どっちだ」
「……聞く!」
結局、こいつだってそういう男なのだ。比率が八割と二割ではないというだけで、ミスティックにせよ、そうでないにせよ、魔術だ魔法だなどという答えのないものに傾倒しているという点では変わるまい。
それでいながら浮世から完全に離れるでもなく、メールのやりとりだってするしダークウェブのハッキングだってする。半端者ととるか、応用力と取るかは見方次第だが、こと俺に限って言うのであれば、金という取引が成立する丁度いい男、という回答になる。魔術師というやつは、その力量が上がれば上がるほど、浮世に興味を失くし、貨幣経済の枠組みから外れる。そういう手合いを頼る気にはなれなかった。
記憶という縁、蓄積された価値観という判断材料を持たない俺にとって、世界を測る物差しは無いに等しい。本能に身を委ねて生きていくには世界は煩雑すぎ、白痴のように全てを諦めて生きるには俺は賢すぎた。そうして俺が辿り着いた物差しは、金だった。いつからそうだったのかは、もちろん覚えていない。
金とは目に見える信用の物差しだ。貨幣経済の基本は信用で成り立っている。望んだものを相手が持っているとは限らない、与えたいものを相手が求めているとは限らない。物々交換の時代は終わり、より広く、より多くの存在と同一の価値観を共有する為に培われ、連綿と紡がれてきたもの、それが経済であり、金だ。
金に執着のない者は信用できない。金の意味を理解していない者は信用できない。それは他人と物差しを共有する気の無い、他人の物差しを軽んじる者のことだ。時に無から有を生み出し、石くれを黄金に変える術を持つ魔術師というものは、俺にとっては得体のしれない気色悪いもの、極力お近づきになりたくない者でもある。しかもそうした気風のある者の方が、多くの場合、実力は確かなのだ。それが余計に厄介だった。
そういう意味で、このスターゲイザーという自称ミスティックは、丁度いい男だった。いささか胡散臭い面はあるが、適度に好奇心があり、適度に金に関心を持ち、適度に善良で、適度に話が通じ、そして実力がある。
無論、教える気はない。臍を曲げられても困るし、好意的に受け取られても面倒臭い。そういう意味でも、金の繋がりというものは、便利だった。
示されるまま、子供の落書き──より正確には、簡略化された複数の魔法陣が組み合わされたものの中に、数式と化学式が融合されたもの──の中に立つ。ラップトップを抱えてベッドの上であぐらをかいたスターゲイザーが何事かを打ち込めば、連動するように足元の落書きが目に悪そうな青い光を放ち始める。短い快哉の後、手を止めたスターゲイザーが顔を上げた。もう話してもいいということらしい。仰せのままに。
メモに残されていた、道中で調べたらしき情報を読み上げる。
「本名ミランダ・バンシー。本籍はニューヨーク。職業は、」
「ストップ。待った。一時停止。何? なんて?」
「どの辺りから巻き戻しがいる?」
「本名」
「ミランダ・バンシー」
おそらくは世界一有名な姓を聞き、浮世慣れした自称ミスティックはフードの下で顔を顰めたらしかった。こういうところが、この男の便利なところだ。
「……マジの方か?」
「再従兄妹だそうだ、兄の方の」
「聞くんじゃなかった」
「だから言ったのに」
そのまま淡々と所属会社と役職を告げれば、うんざりとした声で奴の知る情報が補足される。かくして裏どりは成された。
ブルネットの髪と小麦色の肌を持った、エキゾチックな美女。シアトルで出会った行きずりの女。俺の隣で頭をぶち抜かれて死んでいた女。ミランダ・バンシーは紛れもなく、バンシー・エンタープライズ系列会社の上役だった。
■
アルコールと吐瀉物の臭い、幾日も風呂に入っていない人間の体臭、僅かに混ざる性交の残滓。静まり返った暗い空間に耳を澄ませれば、囁くような睦言や、様子のおかしい独り言、サーバーの稼働音。その先に微かに都市の音がする。ロシア・モスクワの繁華街、その中に建つ安価なネットカフェの26:40なんてものは、そんなものだ。
モニターの中に映し出されていた、スターゲイザーから受け取った解析結果を消す。奴は良い仕事をした。欠伸を一つ噛み殺し、エナジードリンクを煽る。指先に触れる髭の感触に辟易とした。色男が台無しだ。
ミランダ・バンシーの死から四日が経っている。シアトルで死んだ女は、世間的には依然として『身元不明の誰か』であり、その間に受けたライカンスロープからの襲撃は、メモに残されているだけでも五度に渡る。
バンシー・エンタープライズからの発表はない。少なくとも表向きには。DLPDが情報を掴んだという話もない。少なくとも表向きには。
その間に、自分の中にあった仮説と懸念、もしかしたらの可能性は、明確な事実へと形を変えつつあった。
遠からず決着はつくだろう、どちらかの形で。
仮眠を取るかを悩む。
目を伏せ──けれど開き。身を起こし、キーボードを叩いた。
いくらかの法に触れる操作の後、モニターの中に、青空の下に建つ再建中の教会が映し出された。モスクワは深夜だが、向こうは朝を迎えた所らしい。孤児院が併設されたそこの門から、年端もいかない子供たちが溢れ出てくる。学校へと向かうのだろう。
子供たちを見送る老いた修道女の姿を見る。老修道女はそのまま、此方の視線には気付かず──当然だ。近隣ビルの監視カメラをハッキングしての盗撮など、警戒するような世界の住人ではない──教会の中へと戻っていく。
リアルタイムであるはずの映像が止まる。小さなノイズの後、停止した画面に、ロゴが浮かび上がる。鳥を模した抽象的な画像、その中に刻まれた象形化された文字列。
「おまえなら気付くかもとは思ったよ」
『あなたがこんな無用心なことをするとは意外だったが』
モニターから機械加工された声がする。記憶にはない、だがメモの通りだ。明かしたことはないが、恐らくは、相手はとうにそれを知っている。
エンドオーダー。経済力と情報力を以って戦場を抑制せんとするテクノマンサー。手足として数多のドローンを世界のどこにでも送り込み、ヴィランの早期発見&早期掃討の為に現地で対応可能な人物に情報と作戦を送りつける、正体不明の電子の隣人。
より良い世界を求める為に、常に『手段を選び続けること』を望んだ“ヒーロー”。
『ローンシャーク、何を知っている?』
「おいおい、まるで俺のせいとでもいいたげじゃないか」
『あなたが今も生きてるのがその証だろう』
感情を感じさせない淡々とした声音は、ともすれば詰られているようにも感じる。だが十を説明するまでもなく、一を告げるだけで全てが成立する会話は、同じ目線でものを見る者にとっては気楽だ。
『これは脅迫だ』
──その通りだ。
超人種という存在がいる以上、事件に於いて『どうやって』を考えるのはナンセンスだ。詰めるべきは『なぜそうなったのか』。この件に関して言えば、『なぜ』は二つある。『なぜ、ミランダ・バンシーは死んだのか?』そして『なぜ、ローンシャークは生きているのか?』。
ミランダ・バンシーが死んだ日、ローンシャークはその傍らで、文字通り一糸纏わぬ姿で無防備に眠っていた。犯人はやろうと思えばローンシャークを容易く殺せたはずだ。だがそうはならなかった。
仮に──都合のいい無理のある仮定ではある。証拠隠滅の観点から言えば、ローンシャークごと殺してしまうのが早い──ミランダ・バンシーだけが目的であったとするのなら、その後ローンシャークがライカンスロープに狙われ続けていることの理由が説明できない。ミランダ殺しの濡れ衣を着せようとしているのだとしても同様だ。
最初は捨て置くつもりだったのが、こちらが調査を始めたのを察して排除しようとしているのかとも考えた。だがそれもやはり、ライカンスロープ出現のタイミングが合わない。あの獣がローンシャークのもとに現れたのは、ローンシャークが手を引くべきか、深追いするべきかを、未だ決めあぐねていた頃合いのことなのだ。
ならば一番ありえる理由は──。
犯人はローンシャークを殺さなかったのではない。
殺せなかったのだ。
それでいてライカンスロープという獣を放ったのは、どこかへ誘導せんとする意志がある為か。犯人はどこかで、今も、ローンシャークの動向に目を光らせている。
答えは自分の内側にある。問題は、それが何なのか、自分自身にすらさっぱり分からないことだったが。
「案外、俺が撃ち殺した後で、すっかり忘れて寝こけてただけかもだ」
『あなたはそんな下手は打たない』
「この体でか? どうして断言できる?」
『できる。少なくともあなたはその体で今まで生きてきた、それは十分な証明になるはずだ。それが傍目にはどれほど無軌道で破滅的に見えようとも、あなたはそのバランスを保ち続けたからこそ今まであなたとして存在し続けてきた。そのバランスが、なんの理由もなく崩れるとは思えない』
エンドオーダーの言葉は、感情を感じさせない淡々としたものだ。知らぬものからすれば、まるでAIでも相手にしているように感じるだろう。だが実際はそうでないのだということをローンシャークは知っている。正確には、過去に知り、メモに断片を残し、今は忘れた。
メモにあるエンドオーダーを示す言葉は曖昧だ。若い。有能だが融通が利かない。神経質。ロマンチスト。金には釣られない。悪事を働いていなければ信頼出来る。悪事を働いている場合は絶対に関わるな。──あれはヒーローだ。
おそらく、ローンシャークは過去に、エンドオーダーの正体を知っていた。けれどそれをメモに残さなかった。残すべきではないと判断した。忘れたならば忘れたままにしておくべきだとし、敢えてそれを察せるだけの空白を残して情報を記した。その意味は。
『──手伝えることは?』
問いかける機械音声は、AIと勘繰るほどに冷たい。だがこちらを評価する声音には、奇妙な自信と断言があった。
こうして直接言葉を交わしたことで、推察は確信へと変わった。なるほど、この男は、確かにヒーローだ。
だから、返す言葉は一つになった。
「何も」
『ローンシャーク、手段を選べ』
「いやだね。おまえはおまえのやりたいようにやればいい。だが俺もやりたいようにやる。これは明らかに、俺に売られた喧嘩だ」
『そんなことを言っている場合か?』
「おまえが関わる必要は無いと言ってる」
『あなたが危険だと言っている』
モニターの電源を落とす。停止していた教会の映像と、その上に浮かんだエンドオーダーのロゴが消える。暗転した画面に無精髭を生やした自分の顔が映り込む──そしてすぐに、ひとりでに画面が灯る。エンドオーダーのロゴが映り込んだままで。
ヒーローというやつはどいつもこいつも往生際が悪くて困るが、中でも金と権力と技術力が備わってる奴は特に厄介だ。
関わるべきではないし、関わらせるべきでもない。
『話は終わっていない』
「いいや、終わりだ。切るぞ」
『ならば何故、私に気づかせた?』
「おまえは金じゃ動かんだろう」
『ローンシャーク』
「だが知ってしまえば動かずにはいられない、そういう輩だ。だから、そうだな」
手の内で液体金属が銃身を形作る。モスクワの繁華街、その中に建つ安価なネットカフェ、静まり返った空間に響く囁くような睦言や、様子のおかしい独り言、サーバーの稼働音。
その中に複数のドローンの風切り音が混ざるのを感じる。
銃口をモニターに向ける。
「三ヶ月経って音沙汰がなければ、老い先短い俺のファンに『返済が遅れる』とでも伝えておいてくれ」
銃声。
画面は今度こそ暗転し、二度と点らなかった。
〈to be continued.〉
【拝借】
スターゲイザー/ブラッドさん
エンドオーダー/如月涼さん
ローンシャーク:http://character-sheets.appspot.com/dlh/edit.htmlkey=ahVzfmNoYXJhY3Rlci1zaGVldHMtbXByFgsSDUNoYXJhY3RlckRhdGEY0KOAZgw