ローンシャークの隣で女が死んでる話(3) 時刻は昼下がりを迎えていた。
老女、シスター・フローレンスの日常は、日々静かで穏やかなものだ。神に仕える者として、神の家の雑務をこなし、行き場を失った幼児たちの世話をし、祈りと共に眠る。
もちろん、本当はそんな単純なものではないのだろう。世界は幾度も崩壊の危機に晒されているし、今日もどこかで悲劇が起きている。そうでなくとも、セカンド・カラミティの被害を色濃く受けた地域の一角に建つ教会は、未だに過日の姿を完全に取り戻せてはいない。
花壇への水やりを終え、裏手に建つ墓地へと向かう。供物の取り替えや、雑草の処理、墓石の手入れ。やるべきことはたくさんあった。
墓は真新しく、多かった。惨劇で喪われた多数の命が、この土地に眠っている。けれどそれは惨劇の中のほんの一部でしかないのだ。この場所に立つたびに、フローレンスは胸が締め付けられるような思いに襲われる。この中には、彼女よりも若い知り合いも眠っている。
失われたものは多く、二度と取り戻せないものも多い。それでも、老女は日々を穏やかなものとして受け止めるようにしていた。失われたものを悼み続けても、壊れなかった世界は止まることなく、時を刻み続けるのだ。それならばせめて、失われはしたが、取り戻すことのできるもののために、その身を捧げていたかった。
それに──失われたものばかりでもない。新たに生まれたものもある。
それは例えば、この教会に現れた、新しい支援者だとか。
夕方のニュースで彼の顔が流れてきたのを目にしてから一週間が経っていた。音沙汰はない。もともと、そんなことを話し合うような仲ではなかったと言われれば、その通りなのだけれど。
多分、まっとうな人間ではなかった。それは初めて出会った時から察していたし、詳細を語ることこそ無かったが、向こうも隠す気は無かったのだろう。この教会の修道女に世話になった、と語った彼は、神ではなく彼女の墓に祈りを捧げ、花を供え、フローレンスに見たことがないほどの大金が詰まったアタッシュケースを差し出した。
受け取れない、と幾度も断った。
清貧を美徳とする宗教観もあったし、犯罪行為に巻き込まれるのではという不信と恐怖もあった。その金が何らかの犯罪行為によって生まれたものであるのであれば、神の家がそれを受け取るわけにもいかないとも思った。
そのことを真っ向から告げた。
それでも男は諦めなかった。
置き逃げのように残されていたこともあった。こちらに強引に押し付けて逃げるように姿を消すこともあった。困惑し、G6や警察に相談し、その金銭がどういったものなのか、調べられる範囲で調べもした。少なくとも、偽金や、犯罪行為によって作られた金では無さそうだ、という曖昧な気休めに至ることは出来た。
そうしている間に、男のことを少しずつ知っていった。シャイロック・キーンという名前。セカンド・カラミティの際に墓地で眠る彼女に命を救われたらしいこと。そのことに恩を──彼はそういった表現はしなかったが──感じているらしいこと。予想していた通り、別の顔があったこと。そして、彼の記憶のこと。
いずれ、自分はこの返済の意味を忘れるだろう、と彼は言った。だからそれを覚えていられる間だけでも、これは続けなければならないのだ、と。
フローレンスには何故彼がそこまでするのか、本質的に共感することは出来なかったけれど、理由を察することは出来た。それはしなければならないという義務感で隠した、ただそうしたいという願いであった。
名前も知らない、声も知らない、会ったことすら無いと言っていい死者の墓の前で、懺悔のように告げられた言葉を、フローレンスは一言一句違わず覚えている。その声音の真摯さを、墓石の文字を刻みつけようとするその眼差しの熱を──そして察した。
彼は恋をしているのだ。
自らを救った彼女に。彼女が命を賭して示したものに。金銭では決して手に入らない、人の内にこそ宿る、きらきらと輝く美しいものに。見惚れ、焦がれ、いじらしく、それをずっと見ていたいと、それを手に入れたいと、望み続けているのだ。
そしてきっと、それがいずれ手放され、消えていくのだということを誰よりも理解して──それに抗っているのだ。それが嫌だと、忘れたくないと、失いたくないと、声もなく叫んでいるのだ。
そのことに気づき、フローレンスは泣きそうになった。二度と帰ってこない、失われたものが、けれど残していったものがそこには確かにあったと感じた。
その日以来、シスター・フローレンスには、こっそりと応援するヒーローが出来た。
世間的にはあまり知名度もなく、知っている人の評判も然程良くはない、神に仕える者が応援するには相応しくない物騒な、ヒーローと呼んでいいのかも怪しいヒーローではあったけれど。
テレビで名前が呼ばれればボリュームを上げたし、新聞に名前が載っていれば、切り抜いてアルバムに残しておいた。
だから、夕方のニュースを見てすぐに、彼だと分かった。
何かに巻き込まれたのだろうか、それとも彼自身の意志なのだろうか。あるいは──全て、忘れてしまったのだろうか。
思索にふけりながら、墓地に備えられていた萎びた花を回収する。出来ることなどないと、とうに分かってはいた。
「…………あら?」
礼拝堂の方から、来訪者を告げるベルが鳴る。
いつもならば人の訪れが少ない時間帯ではあるが、神の声を求める者はいつ現れてもおかしくはない。
シスター・フローレンスは慌てて立ち上がり、礼拝堂へと戻った。
礼拝堂では、一人の女が長椅子に腰を下ろしていた。顔をベールで覆い隠した女は、黒色のドレスを身に纏い、さながら喪服のように見える。
「いかがされましたか」
声をかければ、女は顔をあげ、フローレンスを見たらしかった。
若いようにも、老いたようにも聞こえる声が、彼女へ問うた。
「お尋ねしたいことがあって参りましたの」
■
夢から覚めた心地だった。
不愉快な湿気。肌寒い冷気。赤提灯の周りを飛び回る小蝿。暗い空。硬い椅子。賑々しい繁華街の騒音。空腹と鼻を刺激する蒸気と料理の匂い。この匂いは──。
箸の上にあった小籠包が破れ、中から溢れた肉汁が膝にかかった。
「あっづ!」
「なにやってんだよ」
呆れたような声がする。顔を上げれば、目の前では、眼鏡をかけた長髪の男が、呆れ顔で焼豚をつまんでいた。
ライカンスロープ。
とりあえず、肉汁の抜けた小籠包を齧った。
「お前も食ってみれば分かる。美味いぞ」
「あァ? ンだよ。さっきまで俺の金で買ったんだとか言ってたじゃねえか」
「この美味を誰かと共有したい欲が勝った。ほら食え」
差し出された小籠を、獣人の訝しげな目が見つめる。肩をすくめて受け止める。しばし睨み合いが続き、先に折れたのは奴だった。元は獣の癖に、器用な手つきで箸を伸ばす。掴む。口に運ぶ。小籠包が破れる。
「あっづ!!!!」
「ざまあみろ」
日常会話の延長のような戯れ合いの言葉。
常に嘘の中で生きてきた。おかげで口が上手くなった。知らない人間が相手でも、最後の記憶の中では敵だった存在が相手でも、状況に合わせて振る舞うことが出来る。全てを忘れていることを悟られないよう常に仮面をつけて過ごす。
自然な仕草でメモを開く。何千、何万と繰り返してきた、体に馴染んだ所作。
ここは中国の上海。繁華街の露店。隣の男は傭兵・ライカンスロープ。
ミランダ殺しに関する顛末。
全ての経緯がそこに記されていた。
■
ミランダ・バンシーは魔術結社メイヘムの会員だった。
彼女が何を思って悪名高いヴィラン組織に入れ込んだのかは定かではないが、確かな血筋とそれに伴う社会的立場を持つ彼女は、メイヘムからしてみれば扱いやすい人材だったのだろう。
メイヘムは二ヶ月前、とある秘密計画をヒーロー達に阻止されていた。それは、インターネット上のプログラムを介して異世界の邪神を招来せんとする試みであった。科学と魔術の融和、その行き着く先。異世界の神を召喚する為に必要な高度な知識や、多くの霊力、魔法陣の構築、生贄の準備、そういった莫大な手間を省略し、誰でも簡単に、容易に、莫大な力を持つ神を喚び出し、その恩恵に預かることを赦すもの。
その計画は、複数のヒーロー達によってプログラムの起動前に阻止され、世界から消えた。プログラムは破壊され、作成に関わった者たちは捕らえられてロックウェイブ島の地下深くへと搬送されたり、自ら命を絶ったりした。高度な技術を持つ複数人のプログラマー兼魔術師によって、長い年月を掛けて作成されていた複雑かつ大規模なそれは、二度と世に現れることはない。
かくして世界は死の瀬戸際で救われたのだ。いつもの通りに。
だが──その阻止計画に協力したヒーローの中に、ローンシャークが居たことを、メイヘムは知った。それは彼らの一縷の望みとなった。
一度目にしたものを完璧に覚えてしまうという彼の能力は、本人の意志に関わらず常に発動している。それは高度に発達したテクノマンサーとしての脳か、あるいは先天的にミューテイトしたサイオンのそれか。いずれであってもメイヘムにとってはどうでも良いことだ。ヒーロー達は計画の阻止に当たり、誰が欠けても良いように、皆がプログラムの詳細を認識しているはずだ。ならばローンシャークの脳の中にも、一言一句違わずに、そのプログラムが記憶されている筈だった。
だが同時に、メイヘムはローンシャークの脳のデメリットもまた理解した。瞬間的かつ永続的な、当人にも制御不能な短期エピソード記憶の喪失。
時間は無かった。
ミランダ・バンシーはその為に送り込まれた。
彼女はただメイヘムに金銭と社会的立場を捧げていたわけではない。彼女は謎めいた秘密結社から魔術を学び、叡智を授けられ、力を得ていた。彼女はミスティックであった。得意とする魔術は、暗示と催眠。
二ヶ月の間、ミランダはローンシャークの周囲に暗示をばら撒いた。彼が阻止したメイヘムの秘密計画のことが意識の表層へと上らぬように、けれど決して忘れることのないように──仕込みが終わり、事は起こされた。それは最後の仕上げだった。
魔術とはいつも生と死と密接に結びつくものである。何故ならば神や悪魔が生贄を好み、そこに価値を見出しているからだ。絶対的に価値観の異なる領域に生きる彼らは人の世の仕組みに興味はない。金銭も、宝石も、美食も、人のそれは彼らにとっては意味がない。だから彼らが残酷な生贄を、代替品を求めるのは、即物的な価値が故ではない──それはテストなのだ。彼らは人の忠誠心を、望みに賭ける覚悟を試し、楽しんでいる。何をどこまで対価として捧げられるのか、人にとって最も手放し難く、価値あるものとは何なのか。
鶏が先か、卵が先か。彼らがそうした理を世界へと持ち込み書き換えたのか、あるいは彼らもまたその理の中に在るものか。どちらが先であったのか。──どちらでも良い。重要なことは、そのようにして、魔術とは生と死とに密接に結びついているということ。
ミランダ・バンシーは自殺だった。彼女は自らの死を以て、ローンシャークに最後の呪いをかけた。
彼の記憶に『鍵』をかけた。
人は脳で世界を認識する。目の前にある色が赤色であると認識できるのは、脳がそのように見せているだけだ。裏を返せば、目の前にあるのに、記憶の中にあるのに、それを認識できなくさせるのもまた脳だ。生命を賭した術式は強固に残り、それを解除できるのはより高位の魔術師──例えばザ・イミテイター、例えばマダム・ヘル、そういった──だけとなる。
あとはローンシャークの脳を、彼女達に引き渡すだけ。だがメイヘムは慎重だった。彼らは一度しくじっていた。だから慎重に、慎重に、ことを成す必要があった。そのためにはヒーローの介入を許さず、誰にも気取られることのないよう、ことを進める必要があった。ローンシャーク自身にすら悟らせてはならないと彼らは考えた。
そのために、ミランダ・バンシーがローンシャークへと接触するまでの二ヶ月の間に、メイヘムは既に手を回していた。アンブロシア・ダイナー、トミー・メルセデス。かつて傭兵ローンシャークと取引をし、その後も幾度か、彼に力を貸しているB級テクノマンサー。
金に困っていた彼はメイヘムとの取引に応じ、ローンシャークのデータを売ることに同意した。かつての借金をもとに自らの元に現れたローンシャークの身から、検査と偽ってデータを抜き取り、科学的に再現された彼の記憶領域をメイヘムへと譲り渡す。
人の脳の記憶容量は、ただでさえ膨大だ。ましてそれが超人種の、テクノマンサーの頭脳ともなれば尚のこと。それは普段のトミー・メルセデスであれば、技術、装備、倫理、あらゆる観点の上で、とてもではないが成し遂げられない試みであった。ミランダ・バンシーが残した『鍵』と、理外の領域に生きる魔術師たちの介入がなければ、不可能なものだった。
けれど、成し遂げられてしまった。
アンブロシア・ダイナーでローンシャークが渡されたデータは偽物だ。トミー・メルセデスはあの時点で、既に必要なデータの抜き出しを完了していた。あとはローンシャークをアンブロシア・ダイナーから追い払い、メイヘムへデータを引き渡すだけでよかった。それでローンシャークへと向けられていた追跡の手も終わり、ミランダの死の犯人は別のスケープゴートが名乗り出ることで、彼の関心も消える。そういうプランだったのだ。
だが、そこに想定外の乱入者があった。
傭兵ライカンスロープの乱入。それにより、アンブロシア・ダイナーは破壊され、トミーが確保していたデータも失われ、ローンシャークはアメリカを離れた。
ローンシャークはライカンスロープに追われるまま、世界各地を巡り、隠れ潜みながら、ミランダの死の謎を追い始めた。結果的にそれはメイヘムの追走を避ける形となった。不意撃ってのものならば兎も角、何かから逃げようと、身を隠そうと、警戒の体制に入っている零等星級超人種を追跡するのは非常に困難だ。メイヘムの捜索もまた、同時に難航した。
メイヘムは焦っていた。ローンシャークがミランダ殺しの死について調べ始めたのであれば、真相が露呈するのはそう遠いことではない。『鍵』はまだ彼の頭の中にだけ眠っている、どうにかしてそれを、彼らが気付く前に手に入れなければならない。
そんな折、ローンシャークがボロを出した。彼はとある教会へ連絡を入れ、安否を確認した。メイヘムは焦っていた。致し方なく、彼らはその教会関係者を人質に取り、ことを急ぐことにした。だが──。
彼らが何かを成す前に、その場に姿を現したヒーローがいた。
ヒーロー達の名は、エンドオーダー、スターゲイザー、そしてライカンスロープ。
近隣を監視していたエンドオーダーは迅速にかつ完璧な仕事をした。小さな教会の内にて、三人のヒーローは潜伏していたメイヘムの魔術師との交戦に発展、瞬く間にそれを制圧した。あらゆる犠牲を許さぬ完璧主義者の電子の隣人は、建物の損傷も、関係者の負傷も、何一つ許しはしなかった。かくして事件は珍しく、瀬戸際になるよりも前に、はるかに早い段階で収束した。
その裏で、スターゲイザーもまたいい仕事をした。彼はローンシャークの体内に残されていた魔術的暗示に気付き、ローンシャークが自身では認識できなかった『鍵』の存在に辿り着かせた。その裏にあったメイヘムの計画に。
そして、トミー・メルセデスの裏切りにも。
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エンドオーダーのドローンが教会の周囲を包囲し、防御壁を展開していた頃。スターゲイザーがメイヘムの魔術師の術式を解析し、それを無力化していた頃。ライカンスロープが巨大な獣に姿を変え、咆哮をあげながらちっぽけな人間を蹂躙していた頃。シスター・フローレンスが慌てて、マリア像の後ろで頭を抱えていた頃。
ローンシャークはミシシッピ郊外の道路沿いに建つ、人のいない夜のダイナーの中にいた。ダイナー「アンブロシア」は破壊され、再建には時間がかかるだろうことを伺わせた。完全に壊れたジュークボックスからは、もう「英雄と悪漢」は流れてこない。
廃墟じみた建物の中で、ローンシャークの手の中で、液体金属が形を変える。その液体金属は、元をただせば、かつてキューバにあった小さな製造会社が作り出したマイナーな兵器だ。あらゆるものに形を変える究極兵器、という謳い文句で作り出されたそれは、実際のところ頭に「ただし使用者が使いたい武器の設計図を理解していれば」というとんでもない枕詞がつくことになる、上級者向けと言えば聞こえのいい、ただのイロモノ産業廃棄物である。
性能は確か。謳い文句にも嘘はない。ただ、常人には使いこなせず、それよりも遥かに便利なものが、世界にはいくらでも溢れていたというだけ。
設計者の名前はトミー・メルセデス。
彼の作り出した兵器は銃へと形を変え、ローンシャークの──彼の作り出したそれを、一眼見ただけで完璧に使いこなした男──手の中に収められながら、設計者本人へと銃口を向けていた。
トミー・メルセデスは泣いていた。
彼は全ての真相を、自らの口でローンシャークへと打ち明けたところだった。
きっと自分は長くない、と、トミーは分かっていた。体の中で、感じたこともない熱がとぐろを巻いているのを感じる。ローンシャークに撃ち殺されるのが先か、メイヘムにかけられていた口封じの魔術が自分の頭を爆発させるのが先か。分かっていたことだった、悪党に手を貸すというのは、つまりそういうことなのだ。
それでも、トミーは手を貸した。貸してしまった。
その理由は。
「……お金が欲しかったのもあるし、脅されてたのもあるよ。だけど、だけどね、シャイロック」
ローンシャークは覚えていない。けれどトミー・メルセデスは覚えている。自分がキューバから逃げ出すために彼の手を借りたとき、口の悪い傭兵がどれだけ頼もしかったことか。誰しもに馬鹿にされた自分の作り出した武器を、理想通り完璧に使いこなす彼が、どれだけ誇らしく見えたことか。
「もしかしたら、君の記憶の問題が、解決できるんじゃないかって思っちゃったんだよ」
ローンシャークは覚えていない。けれどトミー・メルセデスは覚えている。キューバでぽつりと傭兵が零した、過去を懐かしむ者を羨む言葉を。
「そもそも、記憶っていうものは、完全に消えることなんてないんだよ。ただ思い出せなくなるだけで、脳のどこかに保存され続けてる。だから、君の記憶も、どこかには残ってるんだ。それは確かなんだ。だから、君自身には無理でも、誰かの手を借りれば、科学の力では無理でも、魔法の力があれば、もしかしたら、って、そう、思って、」
息が苦しい。胸の辺りから湧き上がった熱は、今や喉まで込み上げていた。見下ろせば不気味な光を放つ不可思議な模様が皮膚に浮かび上がっていた。これが頭に至ったらきっと終わりなのだろうと、本能的に感じた。
せめて、自分が死ぬ前に、全てを伝えなければならない。彼を裏切った自分にはその責任があるはずだ。トミーはもつれる舌を震わせながら、込み上げる恐怖と嗚咽を必死に飲み込んで言葉を続けた。泣いてる余裕なんてないんだ、本当は。それでも涙は止まらなかった。
「……でも、でもね、」
言わない方がいいのかもしれない、とも思った。この秘密はこのままあの世まで持って行った方が、もしかしたら彼にとっては幸せなのかもしれない。けれど──ただでさえ夢の中のような現実を生きている彼に、そんな残酷なことを遺す勇気は、トミーにはなかった。
「……だめだった。僕には出来なかった。無理だったんだ。……君の頭の中の『鍵』は、あの時にはもう、失われていた。あのままメイヘムにデータを送っててもきっと、復元することは不可能だった」
涙で滲む視界の中、傭兵姿のローンシャークの顔は鈍い光を放つホログラムに覆われ、表情を伺わせない。体内の熱は喉を超え、目元まで上がってきている。目が熱いのが涙のせいなのか、魔術のせいなのか、トミーにはもう分からない。
思い出させてやりたかった。思い出せるかもしれないという可能性を彼に残してやりたかった。
結局、全部、だめにしてしまったのだけど。
「……他に言い残すことは?」
久々に聴いたローンシャークの声は冷たかった。自分が死んだら、あるいは自分を殺したら、そのあとローンシャークのメモに自分の名前は残るのだろうかとトミーは思った。この期に及んでそんな女々しいことを考える自分に、反吐が出た。
最期に。
何か。
ああ、そうだ。
「ごめんね、こんなこと今更言われたって、困るよね」
これだけは。
「──ぜんぶ、忘れて」
発砲音。
静寂。
引かれた引き金。
目を閉じる男。
「俺は三万ドル振り込んだかどうかを訊いてるんだ、間抜け」
耳に慣れた、ふてぶてしい呆れ声。
トミー・メルセデスは目を開いた。痛みはなかった。それどころか、込み上げ、脳の中で爆ぜるはずだった熱が、全て消えていた。
驚き、体を見下ろす。不気味な光を放っていた魔術紋様が消えていた。その代わり、トミーの胸に、青い銃痕のようなものが残っていた。それは見ているうちに、トミーの中に溶けるように消えていく。
困惑し、言葉も出せないトミーの頬を衝撃が襲った。殴られたのだと分かったのは、豚のような声をあげて地面とキスをしたあとだった。首根っこが掴まれ、そのまま引きずられる。腹の贅肉が瓦礫に擦れて引き攣れて痛かった。
「い、痛い! 痛いよシャイロック!」
「そうか、よかったな」
「何!? なんで!? なんでぼく生きてるの!? 何かした!?」
「した」
「何を!?」
喚くトミーには一瞥もくれず、首根っこを掴んで引きずりながら、ローンシャークが溜息を吐いた。落ち着き始めたトミーは、彼の顔を覆うホログラムが何かを演算し続けていることに気づいた。手の中で形を変えた液体金属が模しているものが、見たこともない銃だということにも気付けた。
「知り合いに物好きなテクノマンサーが居てな。完全な魔術は無理だが、あれなら俺でも再現できる。……ほら、さっさと歩け! 重いんだよ、ダイエットしろデブ!」
■
──良いか、理屈はこうだ。大気中に存在する微量なマナを取り込み、凝縮することで擬似魔力に変換して、弾丸にこめられた術式を……魔法陣っていうのは要するにプログラムのことだから、基本的にはエネルギー供給さえ出来れば成立……とはいえ本来はそこに莫大な知識とエネルギーが必要で……とはいえこれなら誰でも簡単に……いやでもプロテクトがかかってることもあるか? それだと一概には……対象にかかった魔術を消滅させるとなると、同じ属性かつ反対の指向性を持った……ちょっと待ってろ、確かあの辺に資料が。
──長い。理屈はいいから設計図だけ見せろ。
──ふざけるな! 理屈なしで魔術が使えるか!
──出来ないのか?
──出来るに決まってるだろう!
──じゃあやれ自称ミスティック、金なら払う。
──は!? ミスティックだが!?
スターゲイザーは本当に、いい仕事をしたものだ。
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トミー・メルセデスはそのまま病院に叩き込まれて緊急入院。教会を襲ったメイヘムの魔術師は全員逮捕され、ミランダ・バンシー殺しの真相もまた、一部の関係者内で共有され、ひっそりと事件は終息した。ことを大きくしたくないというのはバンシー・エンタープライズにとっても同じだった。ローンシャークと関係者のヒーローたちは口止め料を支払われ、めいめいに姿を消した。
そうして全てが終わったのが、ついさっきの出来事だ。
ローンシャークとライカンスロープは、バンシー・エンタープライズ社のビルから立ち去り、せっかくだからと立ち寄った露店で早めの夕食にありついている。
小籠包の肉汁で口内を火傷したらしい狼は、不機嫌そうな唸り声をあげながらローンシャークをぎろりと睨む。それを無視しながら、残る最後の疑問を頭の中で吟味し、メモを確認し──どこにも答えがないことを確認し、口に出した。
「それで、お前は結局誰に雇われて、俺を追い回してくれたんだ? さぞかし儲けたんだろう、羨ましいね」
本命の予想はバンシー・エンタープライズか。自社の血筋の汚名を隠そうと傭兵を放ったと考えれば辻褄は合う。自社洗浄に積極的な若社長か、超人種嫌いの副社長の計画が縺れたか。あるいはメイヘムの計画を別ルートから知っていたガーディアンズ・シックスの依頼を受けたのだろうか。だが常に後手に回ることに定評のあるG6が、ああも鮮やかな先手を打てるかは疑問が残る。あるいは裏切りに罪悪感を感じたトミー・メルセデス本人が、こっそりと雇っていた可能性もゼロではない。
しかしローンシャークの予想に反して、ライカンスロープは呆れたような、同時にどこか勝ち誇ったような表情を浮かべ、鼻を鳴らした。
「お前にも予想できる相手だと思うぜ」
「なに?」
「殺す気でこいって言われたから、その通りにしてやっただけだよ。金払いだけは良い野郎だったんで、所長は喜んでたぜ。俺はどうでもいいが」
「おい、それはどういう……まさか!」
彼とて、それが危険なものだという認識ぐらい、最初から持っていたのだ。時間は十分にあった。唯一の懸念点は、コトが起きた時に自分はそれを忘れているだろうこと、内容が内容なだけにメモに仔細を残すわけにもいかないこと。
だから彼はその役目を預けた。金で動き、依頼さえあれば殺す気で来れるだろう、馴染みの同業者に。
ライカンスロープは鼻を鳴らし、肉汁の抜けた小籠包を齧った。咀嚼しながら、人間のマナーに無頓着な獣は、箸を突きつけ答えを示した。
「お前」
「くそが!」
行き場のない悪態が上海の夜の雑踏に消えた。
きっとその夜のことは、メモには残らないだろう。
<Fin.>
【拝借】
スターゲイザー/ブラッドさん
エンドオーダー/如月涼さん
ライカンスロープ/さぬきさん
ローンシャーク:http://character-sheets.appspot.com/dlh/edit.htmlkey=ahVzfmNoYXJhY3Rlci1zaGVldHMtbXByFgsSDUNoYXJhY3RlckRhdGEY0KOAZgw