あなたがすべて ああこれはやってしまった。
そんなことを考えるようになった事にまずびっくりだが、今の自分には諸々今までのように自由にならない事情もある。そう考えるのは仕方が無い。
ジェイドは目の前に転がる物体を眺めて考える。この時期であればそうそう分解も進まない。一度家に持って帰ってゆっくり解体して捨てるのもアリだろう。
こんな衝動的な行為をしてしまったのは子どもの時以来だ。
大きく息をついて、鉄さびと土の匂いが鼻につき、肺を満たす。軽々とそれを持ち上げると弛緩した特有の重たさが腕にくる。思い出してきた感覚に、ジェイドは歩きながら林の中を抜けて家の側まで来る。
夜中になるとあまり人の通らない閑静な住宅街だ。少し仕事場からは遠いがそれが利点だった。
ここ最近、そういえば少し不便だと感じていたのに気付いてわずかに苦笑する。そう思うほど、仕事にのめり込まないようにしていたというのに、彼はそんなジェイドの事など気にしないでどんどん仕事をお願いするのだ。
不快では無い。
脳裏に浮かんだ人物の、涼やかな目元と儚げとすら感じるような顔立ちを思い出す。実態は儚いという物からはほど遠いのだが。
作業場に荷物を放り込んで鍵を掛け、裏口から家の中に入る。掛けられている鏡を見ると顔に付いた返り血に気付いて、おや、と思わず立ち止まる。指先もどうやら血が付いていて、シャツにじわりと色が付く。
「ああ」
あたらしい物を用意しないと。
ジェイドはため息をついた。やはり衝動は良くない。
部屋に入ってそのまま浴室に入ると、汚れを落とすようにシャワーを浴び始めた。
シャワーを浴び、外に出たジェイドは食事を用意しようとキッチンに立った。
何を作るか。ある物であればそこそこ出来るだろう。と考えていると、思考を断ち切るように電話が鳴る。
この時間であれば兄弟くらいしか電話はしてこない。そう思って電話を取ると、思いがけない声が聞こえてくる。
「ジェイド、今大丈夫ですか」
「ええ、ああ。アズール。どうしました?」
柄にもなく心臓がドキドキしている気がする。うわずった声になった自覚はあったが、電話の向こうには流石にそれは分からなかったらしい。
「いえ、申し訳ないとは思いますが、明日顔合わせする案件の資料、ちょっと見直したいのですがどこに置いてますか」
「……ああ、それでしたらプロジェクト管理の打ち合わせの中に。日付は明日の名前で」
「……打ち合わせのフォルダが見当たらないですね」
「それは変ですね」
「まあ良いです。名前は覚えていますか」
「はい、日付にプロジェクト名です」
「……っと、ああ、ありました。誰かがフォルダを移動させたようですね……。全く」
夜分にすみませんでしたね、と彼は言って電話を切ろうとガタガタと音をさせた。
「あ、アズール。資料に問題は無いですか?」
「見たところ、問題は無いですね。これだけの物をあの短時間でよく作れますね。ジェイド。今まであまり名前が挙がらなかったのが不思議です」
ジェイドは、思わず電話に向かって微笑んでいた。
「偶々ですよ」
「そういうことにしておきましょう」
笑う声が電話の向こうから聞こえて、ジェイドはぐっと胸が詰まってため息をつく。
「そういえば、ここの所なんだかそわそわしていたようですが、どこか調子でも悪いとかはないですか」
アズールの言葉に、思わずジェイドの息が一瞬止まる。
「……そわそわ、ですか? 別にいつも通りだったと思っていましたが」
「なんだかここ数日、時折心ここにあらず、という感じだったようだったので。まあ、気のせいなら良いのですが」
「ええ、ただそうですね。ここの所運動をしていなくて。ちょっとさっき走ってきたんです」
「ああ、なるほど。まあこの件が終わればまた少し落ち着くはずですから」
「ええ、ご心配おかけして申し訳ありません」
ジェイドの謝罪に、アズールはあまり気にしていないのか
「何事も無いなら別に気にしません。では明日また会いましょう」
「ええ」
ぶつ、と通話が切れて、ジェイドは再びキッチンに向かって、ぼんやりと慣れた手つきで食事を準備しながら考える。
電話を掛けてきた相手は、同じプロジェクトで働く男である。
アズール・アーシェングロットは半年前にジェイドの部署に来た転職組だった。仕事、というよりはよりその向こうに何かを見いだしているのか、よく働き動き回る男で、口は回るし見た目に反してバイタリティの固まりだった。振り回された同僚達はとんでもない騒ぎになっていたが、ジェイドはそれを横目に見ているだけだった。何しろ目立たないように過ごしていたので。
転機は数ヶ月前。彼が何を思ったかジェイドを自分の仕事に引き入れた。曰く、使えそうだったから、との事だった。
目立たず程々に、趣味の時間を確保するために生きてきたというのに、彼はそんなことはお構いなしだった。
まあ良い。さっさと仕事を終わらせるか、別の手を使えば良い。
そう考えてジェイドはアズールの仕事に付き合い、彼の事を観察する事にした。予想通り、彼は他人には自信たっぷり、まるで暴君のように振る舞い仕事を割り当てキリキリ働かせていた。
下手をすれば文句が出たり具合を悪くしたりするメンバーが出てもおかしくないのに、不思議と彼の元で働く人間はどうにか持ちこたえていた。不平不満は勿論散々言っているが、それを咎めることも無く、裏で罵る分にはつげ口もされていようが、どうやら彼は無視を決め込んでいるらしい。
決定的だったのは、若手の一人がかなり痛いミスをして、客先に報告に行かなければならない、という話になったときだった。誰もがアズールが若手を怒鳴りつけて酷く罵るだろうと身構えたが、彼は泣きそうな若手の話を聞いて、少し考えてから
「それで、あなたは先方に説明する資料は作ってますか」
「は、はい。もう一時間ほどで」
「見直しを含めて三十分で作りなさい。終わったら僕に一度見せなさい。どうお客様に言うのが良いか、それを見て考えましょう」
と、だけ言ってジェイドへ目を向けた。
「ジェイド、あなたも来なさい。あなたは割とそういうのが得意のようですし。彼をサポートしなさい」
「は……。承知しました」
「僕はこの後三十分会議があるので、終わったらすぐに打ち合わせスペースに来なさい」
それだけ言ってアズールは会議に出るために部屋から出て行き、部屋は意外な展開に一瞬静まりかえり、どっと突然しゃべり出した。
「な、何だ今のあれ!?」
「あいつあんな事言うタイプ? 嘘でしょ?」
「てっきりこいつ怒鳴りつけると思った……」
「と、取り敢えず良かったなぁ」
ガタガタと必死に資料を作る若手の肩を叩いて、彼らはそれぞれアドバイスをして仕事に戻っていった。ジェイドは、彼の側に近づいて、作っている資料を見つめた。
「……あ、ジェイドさん」
「大まかには良いですが、文言は僕の方で少しだけ言い回しを変えたりした方が良い部分を見ますね」
大体できていますね、と言ってやると彼はほうっと息をついた。どうやらアズールから何を言われるかと思っていたのか、ぐずっと泣きそうな顔を誤魔化して、
「ありがとうございます。すみません……」
「ミスは誰にでもある物です。もっと大事になる可能性もあったのですから」
「え、ええ。時々アズールさん様子を見に来てくれていたから、多分それで気付いたのかもしれないです……」
今思うと、と彼は呟いて、腕を捲って一気に資料を作ってジェイドへデータを送った。
手早く、あと十分程度で中身を見なくてはならない。ジェイドは一気に資料に目を通して修正をして、そのままアズールに見せるために立ち上がった。
「なんとか間に合いそうですね」
「ええ、はあ……お客さん、結構怖いんですよねあそこ……」
改めて胃の辺りを押さえながら、彼はジェイドと共にアズールが待つ打ち合わせスペースにとぼとぼと移動した。
数時間後、アズールとジェイドは若手の青年と共に客先から戻ってきた。
アズールの顔は平然とした物だったが、若手の彼は完全に憔悴していた。
「今日はもう定時で上がりなさい。その状態ではまたミスをしかねません」
「は、は……い」
相当な追求と嫌味と諸々を浴び続けた筈だが、アズールは顔色一つ変えずに言って、席に着いた。
「しかし、お客様の言っていた物を期日まで用意するのは……かなり難しいですよね。それこそ今日からかなり頑張らないと」
ジェイドの指摘に、アズールは頷いて
「今日は僕がある程度進めます。後は明日からあなたがやりなさい。挽回のチャンスは与えます」
アズールは少し黙り、肩をすくめてモニターに目を向けた。
「わ、分かりました」
顔青をざめさせ、それでもどうにか頷いた若手を、ジェイドはちらりと見つめてから自分の仕事に戻った。
定時になると、アズールは蹴り出すようにと言った方が良い見事な動きで若手の青年を部屋からたたき出した。
「良いんですか、アズール。彼にやらせた方が」
「今の状態で何をしても悪循環ですよ。こういうときはバッサリ一旦手を離す方が考えるようになる」
「……彼がミスする原因に何か心当たりでもあるような言い方ですね」
「ああ、それはそうですよ。彼は数日前に振られたらしいですから」
あっさりと言って、アズールは肩を回して自分の席に戻り、作業を始めた。
「……個人のプライベートを収集しているんですか」
思わず固い声になるジェイドに、アズールは視線をあげないまま
「彼が自分から言ってきたんですよ。婚約の約束もしていた相手と別れた。指輪とかの費用はどうすれば良いかと」
「……なるほど。しかし何故そんな話をあなたに」
「身内に弁護士がいると言ったからですよ」
「ああ」
ジェイドはそうなのか、と思わず呟いてアズールを見つめた。この男のそういう話は知らなかった。
「てっきり僕が地団駄踏んで怒鳴りつけると思ったんでしょうどうせ」
作業の手を止めず、時折来るメールの内容を確認しながらアズールはちら、とジェイドを見上げた。ふん、とまるで見透かしたような様子に、ジェイドはわずかに眉を寄せてから、正直に頷いた。
「ええ、まあ」
「別に構いませんが。とはいえ、それで報告を怠られても困るか……。また少し調整が必要だな……」
ブツブツと呟いて、アズールはぱっとジェイドを見上げた。
「あなたも普段は定時上がりでしょう」
「ええ、まあそうですが。少し気になったもので」
「ああ、僕が彼の尻拭いをしている事が?」
「……まあ、そうです」
「怒鳴りつけて何か変わるなら、別にやりますが? そういうタイプも居ますし。ただ今回の場合はそんなやり方をしても無意味だったと言うだけです。怒鳴って喚いてもお客様を怒らせた事実が消し飛ぶわけでも無い。時間の無駄です。ならさっさと彼をたきつけて嫌な事を終わらせて金になる方向に持っていくべきでしょう」
「金になる……」
「人間は面白い生き物でクレーム、つまりマイナスから引き上げた対応を受けるとより評価が高くなる傾向があります。問題が起きたことでクレーマーとして連絡してきた相手こそ稼ぎ時、と言う事ですね」
「ああ、聞いたことはあります」
「今回の客はまだ新規が増やせる可能性もある場所でした。本来ならまあ、何回か案件を重ねて言って受注を取りたかったですが……。この状況なら仕方が無いですし。どうせマイナスなのだから賭けても良いでしょう」
にや、と笑った顔は扇情的で、彼の本性を見誤っていたことをジェイドは思い知らされた。獲物の選別も、行動パターンの予測も、全て外したことなど無かったこの自分の観察で気付けないなど。
――ああ……
ジェイドは、目の前が明るくなったような気分でアズールを見つめた。
それまで見えていた彼の姿がまるで違って見えた。自分を見上げてくる挑発的な目、常に命令することに慣れたような口元。それに、今になって彼の口にほくろがある事に気付いた。
「……口元、ほくろがあるんですね」
「は? あ、ああまあ。そうですが。位置が位置なので無くそうかと」
「僕は好きですよ」
思わず告げた言葉に、ジェイドは思わずしまった、と口を押さえたが、アズールはぽかんと、また見たことの無い顔でジェイドを見上げた。
「……は? え……? そう、ですか?」
それはどうも……、とどこか照れたように、ふっと視線を逸らしてアズールはくせ毛なのだろう、一房だけ長く耳元を隠す髪をそわ、と弄って呟いた。
「と、とにかく。そういう事情ですから明日からしっかり働いて貰いますよ」
咳払いをしてどうにか元の状態に戻したアズールに、ジェイドは分かりました、と笑みを浮かべた。
じゅっと脂の焼ける音と共に香ばしい匂いが漂ってきて、ジェイドはいつもの癖で綺麗に皿を並べてから食べ始めた。
あの出来事から、ようやっと落ち着いてきたのも少し前で、実際にアズールがほぼ準備したデータで客は満足し、どうにか丸く収まってくれた。
気が抜けたのかもしれない。
忙しすぎて今まで自分がやってきていた事も、性質も忘れてしまっていたのだろうか。
ぐ、っと焼いた肉にナイフを通しながらジェイドは考える。
或いは。
ジェイドはアズールの事に思考を巡らせて食事を終えた。どうしたらもっと彼と関われるのだろうか。
ジェイドは、そう考えながら胸の高鳴りに思わずため息をついた。
それが何か、どういう物か、彼は薄ぼんやりと理解していた。問題は、彼はきっと自分をそういう対象とみなしてくれないだろうという事だった。
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そのうち続き書けたら良いな
多分ジェはずっと純愛。アズ視点だと多分サイコサスペンスになるやつ