レインVSウサ吉 前編マッシュの秘密とウサ吉とレイン
間に合うかどうかかなり怪しかった授業には、なんとかギリギリで間に合った。
指定のあった教室は四階まで駆け上がる必要があり、「なんでよりにもよって⋯」とそれぞれ愚痴を溢しながらも必死に走った成果である。
特にフィンは目的の教室に着いた段階で体力の限界だったのか、ゼェハァと荒い呼吸を繰り返して膝から崩れ落ちてしまうほどだった。「もう、膝に、力が、入らない⋯⋯」と震えていたので、階段ダッシュがなかなかに応えたとみえる。
教室に入ると、当番で教師の手伝いに駆り出され先に着いていたレモンが、マッシュを見つけて嬉しそうに手を振ってい他ので、マッシュはそれに軽く手を振り返した。
それから、まだ息の整わないフィンに手を貸して共に席に着き、一割も理解できない授業を聞いたーーそれが本日最後の授業だった。
授業が終わると、レモンは授業の片付けの手伝いで教師と共に早々に出ていってしまうが、最後まで名残惜しそうにしながら、「後で必ず、寮でお会いしましょう!マッシュくん!」と姿が見えなくなる直前まで叫んでいた。
ランスとフィンは図書室に用事があるからと別行動。
では、ドットと寮まで戻ろうかと一緒に歩いていたのだが、歩いてる途中でポケットをパタパタと叩き、「どこだ?」と言いながら立ち止まった彼に釣られマッシュも立ち止まる。
「どうかしたの?」
「あー⋯⋯悪い⋯⋯さっきの教室に忘れ物したみたいだから、ちょっと戻って見てくるわ」
「一緒に探す?」
「いや、一人で大丈夫だ。お前は先に戻ってていいぞ」
「そっか、じゃあ、先に戻って待ってるね」
「おう!俺も、すぐ追い付くようにするからよ」
そう言ってドットは元来た道を引き返してしまった。
そうして、マッシュは現在一人で寮へと続く廊下を歩きながら空を見上げる。
授業前のバケツをひっくり返したような土砂降りが嘘のように晴れ渡っている空に、改めて野生の動物の勘というか潜在する本能は凄いなと感慨深く思う。
あの雨は一過性の通り雨のようなもので、降る事を予見できた人は殆どいなかったことだろう。
マッシュも、鳥たちが騒いでいなければ気づけなかった。
『⋯⋯⋯さむい⋯こわい⋯⋯ごしゅじん、どこ⋯⋯』
空にばかり気を取られていたら、今回は下から微かに聞こえてきた声にピタリと足を止める。
とても小さくて恐怖と不安をない混ぜにしたような、そんな消え入りそうな人とは違う声。
たまたま人通りが無かったから聞こえたが、少しでも人通りがあればその雑踏に掻き消されてしまったかもしれない。
ごく近くで聞こえた気がした声の主を探し、その場でキョロキョロと辺りを見渡してみたがそれらしい姿は見えない。
絶えず続く声は、途切れ途切れにだが、「さむい」、「こわい」、「たすけて」と繰り返している。
上から見渡して見つからないなら、もっと下かと屈み植木の根元辺りを覗き込むように重点的に探してみれば、そこに居た。
木の根元、葉に隠れるように身を潜ませ、小さな体を丸めて震える一羽のウサギが。
自分は動物に嫌われやすいから、もしかしたら逃げられてしまうかもと思いつつ、なるべく怖がらせないようにそっと手を伸ばす。
手が近づいても逃げ出す様子もなく、これなら抱っこしても大丈夫かと安堵したのも束の間、そっと触れて、これはまずいのでは?と焦りが沸いた。
さっきの土砂降りに長らく打たれたのか、身体はぐっしょりと水が滴るほどに濡れ、ブルブルと震える身体は想像以上に冷たい。
小動物は基本的に人間よりも体温が高いものだ。それが、触れて冷たいと感じるほどには体温が低下している。
急いで自分のローブを脱ぐと、ローブの端を使いできる限りの水気を拭い、ローブの濡れていない部分でウサギを包んだ。
寒さに震える小さな身体を胸に抱いて、途方に暮れそうになったが、ウサギを見て咄嗟に頭に浮かんだ一人の人間の名前を無意識にぽそりと呟く。
「レインくんなら⋯」
多数のウサギと暮らし、並々ならぬ愛情を込めて大事に育てている彼なら、きっとどうすれば良いか知っているはず、と⋯。
「もうちょっとだけ頑張ってね。きっと大丈夫だから」とウサギに励ますように伝え、そっと抱え直すと、レインの部屋まで急いだ。
(1106号室、レインくんの部屋は確かここ⋯えっと、とりあえずノックして居るか確認を⋯)
すっと、手をあげ扉をノックしようとした時、中から慌てた足音と共にレインが飛び出してきた。
開いた扉の先に、突然現れたマッシュにレインは驚きに目を見開き動きを止める。
マッシュもノックしようとした扉が突然開いたのだから当然驚いていた。でも、それ以上にレインの姿にホッとした気持ちにもなっていた。
走りながら一瞬考えてしまった「居なかったらどうしよう⋯⋯」の最悪なパターンが消えたから。
「っ!?マッシュ?何のよう⋯いや、すまないが今急いでる。後にしてくれ⋯」
マッシュを押し退けて行こうとするレインの袖を引き、足を止めさせる。
眉間に皺を寄せて振り返るレインに、多少の申し訳ない気持ちはあるが、こちらも込み入った事情があるのだと真剣な眼差しを向ける。
「こっちも一大事なんで⋯一つだけ教えて下さい。この子は、どう介抱したらいいですか?」
レインは、この子とマッシュが大事そうに胸に抱える布の塊へと視線を落とす。
「この子なんですが⋯」と布の上部をずらせば、その中に居たのはレインが良く知る一羽のウサギ。
部屋の中に姿が見えず、すぐにでも探しに行かなくてはと思っていたウサギがマッシュの腕に抱かれていた。
「っ!ウサ吉!!どこで見つけた!?」
ガシッと肩を掴まれ、急に詰められた距離にマッシュはたじろいでしまう。
「えっと、中庭で⋯雨に打たれてしまったみたいで、震えてて⋯」
「そうか⋯⋯」
「レインくんのウサギさんだったんですね、この子。えっと⋯それなら、後の事はお任せしても⋯⋯?」
ローブに包んだままウサギを差し出すと、レインんは「あぁ」と頷いてマッシュからウサギを引き受けた。
大切そうに抱えられたウサギを見て、きっともう大丈夫だと一安心する。
様子は後から聞けるだろうし、ローブは⋯まあまた今度取りに来ればいいかと思い、「じゃあ」とマッシュが立ち去ろうとするよりも先にレインから声がかかった。
「世話をかけた。お前も寄っていってくれ。礼に茶の一つくらいは出したい」
(おや?部屋にお呼ばれしてしまった。あれ?でも、僕はもうお役御免なのでは?というか⋯)
「あの、レインくんは急ぎの用事があったのでは?」
「それは、こいつの⋯ウサ吉の姿が見当たらなくてな。外に探しに行こうとしていた」
それであんなに慌てていたのかと納得する。
大切な愛兎が見つからなければ、それは焦ってしまうだろう。
「そうでしたか。無事に見つけられて良かった」
「あぁ、感謝する」
来い、と言う声に促されるままにレインに続いて部屋へと入るが、現在はレインに抱えられているウサギが気になってしょうがない。
さっきは後から聞けばいいとは思ったが、今聞けるなら聞いておきたいと思う心理には逆らえなかった。
「その子⋯」
「ウサ吉だ」
やんわりと訂正してくるレインに倣ってマッシュも言い直す。
「ウサ吉、くんは、大丈夫なんですか?」
「この状態でもう暫く放置されていたら危なかったかもしれない。だが、雨に濡れたのも比較的短時間で済んだようだし、乾かしてしばらく温めてやれば大丈夫だろう。数日は食欲が落ちてたりしないか、体調を崩していないかの観察は必要になるが⋯⋯ウサギは周りの人間がイメージするほど弱くないからな、風邪でも引かない限りは結構タフだぞ」
「それなら一安心ですな」
説明をしながらもレインは手際よく動いていた。
ローブから出したウサ吉を魔法で乾かし、怪我などしていないかを念入りにチェックをしつつ、手足に着いた汚れも拭き取っていた。「耳がいつもより冷たいから、やはり寒いようだな」と言ってふわふわの膝掛けくらいの大きさの毛布をどこからか取り出して包む。そんな流れるような一連の動作に、「おぉ⋯」と感嘆の声がつい漏れてしまった。
お世話をし慣れてる感じがすごい。
「あとは、もう少し温めてやりたいんだが⋯毛布だけじゃ足りないか?簡易的な保温機でも作るか⋯?」
ぶつぶつと呟きながら悩むレインに、あの⋯と提案してみる。
「僕、人よりも体温が高いんですけど⋯僕が抱っこして温めるのでも大丈夫だったりしますか?」
「⋯頼めるか?」
「もちろんです」
レインは一瞬だけ迷った様だが、好意的な返答をするマッシュに毛布に包まったウサ吉を預ける。
腕に抱く小さな身体から、先ほどよりも落ち着いた呼吸音が聞こえてきて、「よかった」と不安が消えきっていなかった心が少し和らぐ。
そこに座ってろとソファーを勧められたので、抱えたウサギをあまり揺らさないようにと意識しながら腰掛けた。
「俺は茶の準備をしてくるから、少しの間だけウサ吉を頼む。⋯⋯茶請けはシュークリームで良いか?」
「レインくんも、常備するほどシュークリームが好きなんですか?」
「いや、後でお前に届けようと思って買ったものだったんだが⋯渡す手間が省けたな」
それだけを言って、お茶出しの準備へと行ってしまったレインを呆けたようにただ見送った。
レインが隣室へと消えると、途端にそわそわと落ち着かない感情に襲われる。
(この、むず痒いような照れくさいような気持ちを、僕はどうしたらいいんだろう⋯⋯?)
マッシュの好物だと知ってから、レインから度々届けられるシュークリーム。
調子はどうだと聞くついで、フィン達と食べろと手渡されるそれはいつも違うお店のものだった。
フィンくんが「兄さまは、甘いものあんまり得意じゃ無いんだけど⋯」、と言っていた言葉から「僕のためなのかもしれない⋯」そう思ってしまってからは、会うのが少しだけ気恥ずかしくなっていたりする。
自身があまり好んでいない甘いものを、わざわざ、毎回違うお店のものを買ってきてくれる⋯⋯それにどんな意味があるのだろうか?
何かしら、レインくんにとっての特別になれているのかも?そう思うと何とも面映い気持ちになる。
「キミのご主人さまは、ずるいね」
腕の中の小さな存在につい溢してしまった言葉は囁き声にしか聞こえないほど弱々しくなった。
だって、こんなにも心が乱れるこの感情の名前を僕は知らないから。
知ってしまうのも少しこわい。
それでも、いつかは⋯⋯正解を知りたい、ような気がする。
レインの事を考えるほどに自分の意思と反して熱くなっているように感じる顔と身体に動揺しつつ、「まあ、今はこの子を温めるにはこれくらいで丁度いいのかもしれない」と思い直すが、吐き出しどころのない気持ちだけはどうする事もできなかった。
それを誤魔化すように、毛布の隙間に指を差し入れて、ウサ吉の首の下辺りを優しく撫でる。
マッシュの指にピクリと反応を示すと、『あったかい⋯』と言いながらウサ吉がマッシュの指に自分から擦り寄ってきた。
指だけでは足りなかったのか、閉じていた目をパチっと開いてマッシュを見上げ、毛布をゲシゲシと蹴落としてマッシュの体に擦り寄ってくる。
少しの隙間だって嫌だと言うようにグイグイ密着してくる様子に、マッシュは「どうしたら⋯」と内心でかなり慌てていた。
突然の事にオロオロとしながらも、冷たい空気に触れる面積はできるだけ少ない方が良いだろうと考え抱き直す。
果たしてこの抱き方で合っているのか?と疑問に思っていたら、ウサ吉くんの『ぽかぽかだぁ』と安心しきった声を聞いて、マッシュの気も抜けた。
苦しそうでもないし、見つけた時のような弱々しさが感じられない声に、もう大丈夫そうで良かったと胸をなでおろすことができた。
ふわふわの背中を撫でれば、だんだん身体の力が抜けていくのがなんとも可愛らしい。
これは確かに見てるだけでも癒やされるなと、レインくんが彼らを可愛がる理由がわかった気がして和んでいた。
撫で続けてウサ吉の身体から完全に力が抜け、ふにゃっとなった頃にレインは戻ってきた。
用意したお茶と皿に盛られたシュークリームをテーブルに置くと、マッシュとウサ吉を物珍しげに見つめてくる。
「⋯ウサ吉が直に抱かせるなんて珍しいな?マックスでも機嫌が良いとき以外は蹴られるのに」
「毛布越しより、こっちの方があったかかったみたいで⋯⋯気づいたらこの形で落ち着いてしまいました」
レインはマッシュの隣へと座ると、ウサ吉の耳をそっと撫でた。
さっきは嫌がったりしなかったそれに、今はプルプルと頭を振って嫌がっているように見える。
「さっきも耳を触ってたけど、何か意味があるんですか?」
「ウサギは耳で体温調節するからな。暑ければ耳へ巡る血液量を増やして血液を冷そうとするし、寒い時は普段より耳が冷たくなるから、それを暖房が必要かの目安にする場合もある。ウサギは本来、耳への接触を好まない個体が多い。ウサ吉もそうだ。さっきは弱っていたからされるがままになっていただけで⋯⋯嫌がるだけの意思表示ができるなら、ある程度は安定したんだろう。触った感じも普段とほぼ同じまで戻っているしな」
「じゃあ、もう大丈夫?」
「あぁ、おそらくな」
「それなら、よかった。とりあえずは一安心ですね」
「そうだな。もう大丈夫だから、お前は用意した茶でも飲むといい」
抱いたままじゃ何もできないだろうと、マッシュからウサ吉を引き取ろうと手を伸ばしたレインの手は、ウサ吉によってペシッと叩かれてしまった。
どう見ても拒否されているようにしか感じられない行動に、レインも驚いていたようだが、マッシュもそれ以上に驚いていた。
レインとウサ吉を交互に見ていたが、なにやらレインは「そうだよな⋯」と一人納得したように呟き、酷く落ち込んでいくではないか。
「俺の管理ミスのせいで、怖い思いをさせたんだからな⋯嫌われて当然だ。命を預かってる身として、絶対にあっちゃならねぇ事をやっちまったんだから⋯」
すまなかった、と詫びるレインに反応したのはウサ吉だった。
『ちがう、ご主人のせいじゃない。ボクがかってにケージから出てご主人の後を追いかけたの⋯』
マッシュの腕から顔を出し、鼻をひくつかせて焦って一生懸命に訴えるウサ吉の声はレインに届いていない。
暖かい腕の中があまりに居心地良くて、伸ばされた手を『もう少しだけそっとしておいて欲しい』とつい叩いてしまったが、こんな誤解をさせてしまうなんてとウサ吉は慌てていた。
いつも、こちらの本当に伝えたい事は伝わらない、それを知っているからこそ余計に。
どうしたらいい?悲しい顔をさせたいわけでは無いのに⋯そんな想いでいっぱいだった。
だが、その一方通行の想いも今日で終わるのかもしれない。
なぜなら、代弁できてしまう者が現れてしまった。
その声は普段の会話となんら変わらぬ調子で、さらりとウサ吉の訴えたかった事をレインへと告げる。
「あの、レインくんのせいじゃ無いって、ウサ吉くんが言ってますよ?」
「は?」
『えっ?』
レインは眉間に皺をこれでもかと寄せてマッシュを凝視し、ウサ吉も抱かれたの腕の中から目をまん丸にしてマッシュを見上げた。
「お前、何言って⋯」
「ウサ吉くん、ケージを抜け出してレインくんを追いかけてしまったんだそうですよ」
だよね?とウサ吉へと同意を求めるマッシュの姿はレインにとって違和感しかない。
なのに、マッシュの言葉に、コクコクと頷くウサ吉の姿を目にして頭が痛くなってくる。
二、三度、目頭を揉んでは、いや、まさか⋯と問答を己の中で繰り返したが、答えなど出るはずもない。
疑念を振り払う為にレインは質問を投げかける。
「ケージは⋯中からは開けられない仕組みになっている⋯」
『鍵が壊れかけてるから、端の方に体重をかけると開くよ?』
「鍵が壊れかけてるそうです。どちらかの端の方に中から力を入れると開くって言ってますね」
「⋯確認してくる⋯」
スクっと立ち上がり、早足で隣の部屋へ消えたかと思うと、すぐさま競歩の勢いで戻ってきた。
ソファーへ座り直し、重い重いため息を溢すと、これまた重苦しい声で言った。
「⋯本当だった⋯⋯⋯」
「なら、次は防げますね」
「ソウダナ⋯⋯」
その言葉を最後に、レインは考える人のように固まって動かなくなってしまった。
レインからの反応がなくなったので、マッシュの意識はレインが用意してくれたシュークリームの方へと向いた。
さっきからずっと気になっていたので、ウサ吉へと断りを入れてみる事にする。
「ウサ吉くん、抱っこじゃなくて膝の上でもいいかな?レインくんの用意してくれたシュークリーム食べたいなって⋯」
『うん、いいよ』
色良い返事がもらえたので、ウサ吉を膝の上にそっと下ろす。
ウサ吉は膝の上でもぞもぞと座りのいい場所を探して、ここ、と決めた場所で落ち着いたようでじっとしている。
それを確認してから、片手を用意してもらったシュークリームに伸ばし、空いた手でウサ吉の背中を先程と同様に撫でた。
変わらず相手をして貰えていると認識しているのか、ウサ吉は満足そうに高い声でプゥプゥ鳴いていて、その機嫌の良さそうな声につられてマッシュも嬉しくなる。
好物が目の前にあって、見てて癒される生き物が膝の上にいて⋯それから、世話を焼いてくれるからかもしれないけれど、なんとなく気になってしまう人が隣にいて⋯⋯心が温かくなっていくような空間をマッシュは満喫していた。
そんな気持ちのまま齧り付いたシュークリームはとても美味しい。
外側はサクッとした食感を残しているのに中はふわっと柔らかなシュー生地。
中へ注がれたカスタードクリームは丁寧に作られているから舌触りがとても滑らかだった。
惜しみなく混ぜられたであろう芳醇なバニラビーンズの香りが、鼻腔を抜けて味覚だけではなく嗅覚からも甘さを引き立てている。
カスタードクリームだけではクドくなってしまいそうな甘さを、あえて甘さを抑えてさっぱりした生クリームと層にすることで調和をとっている辺り作り手の拘りが伺えた。
「これ、きっとお高いやつだな⋯」と一口目でわかってしまった。
でも、せっかく用意してくれたのだしと、続けて遠慮なく二、三個と頬張る。
ちょっとした糖分補給が終わったので、気になっていた事を膝の上で寛いでいるウサ吉に尋ねてみた。
「ウサ吉くんは、なんで植木の下に隠れていたの?濡れない廊下でも隠れる場所はあったと思うんだけど」
『えっとね⋯⋯』
「うん」
『あのね⋯⋯』
「ゆっくりでいいよ。ちゃんと話そうとしなくて大丈夫だから、言ってみて?」
どう話そうか迷っている様子のウサ吉に、焦らせないようにゆっくりでいいから話してみてと優しく促した。
すりっと甘えてくる身体を落ち着かせるように一度撫でると、ウサ吉は一生懸命思い出しながらポツポツと話しはじめる。
『ご主人を追いかけてたら⋯人がいっぱい来ちゃって。こわくて隠れたら、ご主人が見当たらなくなっててね⋯落ち着く場所を探して草のある所まで移動したんだ』
「うん」と相槌を打ちながら、中庭に居た理由に納得した。
人間も不安になった時には、より精神が落ち着く拠り所を求めて人や場所を探したりする。それが、今回ウサ吉くんの場合は植物の生い茂る中庭だった。
きっと、安心できる香りを求めて、草木の香りがより濃い方へと身体が動いてしまったのだ。
『それでね、人がいなくなったから、匂いを辿って帰ろうとしたんだけど⋯雨が降ってきてね、びっくりして動けなくなっちゃった。雨で匂いも消えちゃったし、帰れなくて⋯お屋根のある所は、また人がいっぱいくるかもしれないしで⋯』
悲しそうな声を聞いていて、マッシュまで引きづられるように悲しい気分になってしまう。
帰ろうとしたのに雨で来た道の匂いは消え去り、この子からすれば巨人の群れがいつ来るかわからない屋根のある場所は恐怖の対象だったらしい。
心細い気持ちを抱え、動けない状態であの雨に打たれたのかと思うと、こちらの心も痛くなってくる。
それと同時に、本当に無事で良かったと思った。
「すごく、大変だったんだね⋯⋯でも、危ないからもうしちゃダメだよ?」
『うん、もうしない』
「そうして。すごく心配する人もいるし、一人で外に行くのは危ないから⋯⋯」
落ち込みながら返事をしたウサ吉を慰めるように撫でていると、横からの視線が突き刺さってきた。
(視線が痛いし、圧が⋯⋯強いな⋯)
視線の主の方をチラッと覗き見れば、とてもとても恐いお顔でこちらを凝視するレインの姿に、思わず「ヒェッ」と内心で叫び震え上がっていた。
声に出さなかったというよりは恐怖のあまり出なかった。
だってこわかったんだもの。
けれど身体は正直で、脳が感じた恐怖そのままにブルブルと震えていた。
マッシュは目を合わせないまま、なんとか声を絞り出す。
「あ、あの⋯⋯なにか?」
「なんて言ってた?」
レインが何を言いたいのかさっぱりわからないマッシュは困惑していた。
突然振られたのにも驚きだが、言葉が少なすぎる。
「えっと⋯?」
「ウサ吉は、なんて言っていた?」
再度繰り返された言葉に主語が足され、やっと理解ができた。
(あっ!さっきの僕とウサ吉くんのやり取りの事か⋯⋯石像みたいに固まってたから、てっきり聞こえてないものだとばかり⋯。もしや、今のこの強面は怒ってるのではなくて、心配の方だったりします?だとしたら、なんて分かりづらいんだろう⋯⋯)
マッシュは自分も同類だとは微塵も感じていないので、それが全力のブーメランであることに気づかない。
レインに何と説明するべきかを迷い「えっとですね⋯」となんとか話を纏める努力をしてみる。
「レインくんを追いかけてたら大勢の人と遭遇してしまって、咄嗟に中庭に隠れたらレインくんを見失ってしまったらしいです。帰ろうとしたけどあの土砂降りの雨が降ってきて⋯帰ろうにも雨で匂いも消えて帰れなくなったって。濡れずに済む廊下は、いつ人が通るかわからないから怖くて行けなくて、木の下で動けなくなった⋯みたいな感じですかね?」
うまく説明できたとも思えないが、だいたいはこんな感じだったと思う。
マッシュの説明したあらましにレインは重たい溜息を長く吐き出し、ウサ吉へと「もうするなよ」と言いながら撫で、
その手は止めないまま、マッシュの目をじっと見てきた。
レインの探るような視線が訴えるものを理解できなくて、居心地の悪さに困り顔でいると、これは言ってもいいのかと迷うように問いが投げかけられる。
「⋯⋯お前は⋯動物と話せるのか?」
(あぁ、レインくんが言い淀んだ理由はこれか⋯⋯)
さっきの探るような視線も、迷った末のものだったのだろう。
授業前にこの事をフィンくん達に話した時も、何か言いずらそうにしてたり驚いてたりしたし⋯そもそも、一般的な事ではなかったのだと今更ながらに思い出す。
ただ、これだけ彼の愛兎とコミュニケーションをとった後に否定もできないし、そもそも隠すつもりもマッシュにはなかった。
「みんなと話せるわけじゃありません。話せる動物もいる、が正しいですね。僕は基本的に動物の言葉がわかるだけで、会話となると動物側も人間の言葉をある程度理解できていないと難しいです。ただ、最近は⋯特にこのイーストンでは、お話できる動物さんが多くて、僕も時々勘違いしそうになりますけど」
マッシュの返答に、レインは当たってほしくない事が当たってしまったと気が遠くなる思いでいた。
「その事は俺以外に誰か知っているのか?」
「フィンくん達にはさっき話しました」
「フィン達と俺だけなんだな?」
念を押す確認に、思わず首を捻る。
そんなに何度も聞く必要のある事なんだろうか?と、レインを見れば、真剣な顔で見つめ返されてしまう。
「なら、それ以上は教えるな。できるだけ隠せ、いいな?」
「やっぱり、問題あるんですかね?これって⋯」
「問題になるかもしれないって話だ。お前が思う以上に利用価値は計り知れないし、悪用される可能性もある。厄介事に巻き込まれたくは無いだろ?」
レインの想定する厄介事がどんなものかはわからないが、自分がやりたい事が出来なくなったり制限されるかもしれないのを想像してみて複雑な気分になる。
「面倒なのは⋯イヤだな」
こぼれ出たのは心からの本心だった。
「なら、フィン達や俺の前以外では隠せ」
「レインくんたちの前では良いんですか?」
「側にいる時なら、いくらでもフォローしてやれる。俺も⋯おそらくはフィン達もそうするだろう」
今までだって特に隠さずとも大丈夫だったのだから、そんなに心配する事もないだろうとは思う。なのだが、あまりにも真剣に話されてしまっては頷くしかなかった。
「わかりました」
「それでいい。⋯それと⋯⋯」
「他にも何か?」
「⋯ウサ吉を、構ってやって貰えると、助かる⋯⋯」
「へっ⋯?」
レインのやや気まずそうに見つめる先を辿るようにして、自身の膝の方へと視線を落としてみる。
すると、いつからそうしていたのか、『ねぇ、ご主人とのお話もう終わる?終わった!?なら、こっちを見て!』と身を乗り出し、マッシュのお腹付近を前足を使い高速でタシタシ叩いているウサ吉がいた。
マッシュが視線を向けると、やっとこっちを見てくれたと瞳を輝かせるウサ吉と、何とも言えない表情をするレインとの対比が凄まじい事になっている。
やはり、自身の愛兎と仲良くされるのはあまり気持ちの良いものではないと言う事なのだろうか?
マッシュの疑念もレインの困惑もウサ吉には関係ないのか、一つの不安が消え去った今、とても楽しそうに自身の欲求を満たす事に貪欲になっている所がとても動物らしいとも言える。
『ねぇ、名前は?名前はなんて呼んだらいいの?』
「僕?マッシュでいいよ」
『マッシュ!ねぇ、もっとお話できる?もっとお話しよう?ご主人とはお話できないから、お話したい』
(僕のことは名前で呼びたいのに、レインくんがご主人呼びなのはどうしてだろう?)
「キミは⋯レインくんの事、ご主人呼びなんだね?」
『マックスが言ってた!君たちのご主人はって⋯だから、ご主人!』
「そっか、マックス先輩が⋯」
どうやら、呼び方は周りの影響だったらしい。
確かに、飼い主が毎回自分の名前を名乗りながら世話などしないし、そうなると周囲の人間の呼び方を真似るしかない。
マックス先輩は確かレインくんを呼び捨てにしてたと思うけど、ウサギさん達と接する時は「君たちのご主人」呼びをしていたから、彼らも自然とその呼び方が定着してしまったらしい。
マックス先輩に対しての呼び捨ては、レインくんがそう呼んでいるからで、こちらも身近な人の呼び方を真似ているだけのようだ。
ウサ吉にもっと話したいと言ってもらえるのは嬉しかった。
でも、寮に戻る途中でここに来たため、みんなに何も伝えないまま一人行動をとってしまっているのが気にかかる。「どこか行く時は、必ず誰かに言うかメモ書きの一つでも残せ。みんな心配するからな」と、事あるごとに⋯⋯それこそ、耳にタコができそうなくらいに言われていたことを今更だけど思い出したのだ。
「えっと、お話は⋯」
あとどれくらいできるかなと、確認の為にチラッと見た時計がもうすぐ17時を指そうとしているのが見えた。
授業が終わって皆と別行動をし始めたのは15時30分くらいだった筈なので、かなり長居をしてしまっている事になる。
もうこんな時間になっているなんて⋯。時間の感覚がなくなっていたと焦った。
寮に戻ったら一緒に課題を終わらせようと言ってくれていたし、みんなとの約束も破ってしまったと申し訳なく思う。
それに、分かれる時にドットくんには寮で先に待ってると言ってしまっていた。
勝手な一人行動のせいで、ドットくんが責められていたら流石に申し訳なさすぎるし、フィンくん達にも心配をかけてしまっているかもしれない。
そう気づいてしまったらもうこれ以上の長居はできそうになかった。
「ごめん、今日はもう帰らないと⋯みんなに何も言わずに来ちゃってるから⋯」
『行っちゃうの?また会える?』
しゅんと耳を垂らして落ち込むウサ吉を撫でる。
「ごめんね。レインくんが良いって言ってくれたら、また来るから」
そうは言ってみたが、多忙なレインの事だ、早々時間は空くことはないだろう。
残念だけど、しばらくは難しいだろうなと思っていたのだが、思いがけない返事が返ってきてしまった。
「いつでも来ていいぞ」
『ご主人が良いって言ってるよ!』
「え?待って、レインくんは何のことかわかって言ってます?」
「ウサ吉が会いたがってるんだろう?それなら、いつでも来ていいと言ってる」
『だって!』
「はぁ⋯?⋯えっ⋯⋯??」
合ってる、確かに合ってるんだけど、一方の会話からの汲み取り能力が高すぎません?
実はウサ吉くんと僕の会話は筒抜けだったって言われる方が納得できるんだけど。
それに、なんかこの二人息ぴったりだったな⋯話し方とかは似てないと思ってたのに、息の揃い具合とかがなんか似てる気がしてきた。
え?言葉は分からないんだよね?
「来たくなったら来い。俺が部屋にいる時ならいつでも入れてやる」
これは、話が早いと喜べばいいのだろうか?
いや、でもやっぱり謎が多いな。
レインくんの申し出は連絡もなしに部屋に押しかけても入れてくれると言ってるも同然で、僕たちはそんなに打ち解けた親しい間柄というわけでは無かったと思う。
レインくんはいつも親切にしてくれてはいるけど、あくまで先輩と後輩の関係のはずで⋯⋯本当にいいのだろうか?
迷いと混乱の方が大きいが、好意は受け取っておけってじいちゃんが言ってたなと一瞬、意識が遠のきかけた。
でも、ここでレインからの好条件の提案を断る理由もなかったし、多分、断る方が面倒なことになりそうだと直感が告げているのでマッシュは黙って頷いた。
「えっと⋯では、お言葉に甘えて?またお邪魔させて貰いますね」
「あぁ、ウサ吉と待ってる」
「うす⋯。それで⋯あの、僕のローブをですね⋯」
何故かずっとレインの側に置かれたままの自身のローブに視線を落とし、返して欲しいなと手を差し出してみたが静かに首を振られ拒否されてしまう。
「濡れたウサ吉を包むのに使って汚れてるだろ?だから、洗って明日の朝一で届ける」
「いや、そこまでしてもらわなくても⋯」
「自分のも洗うついでだ。大した手間じゃない」
「いえ、そういうことではなくてですね⋯⋯」
引いてくれないレインに、もう実力行使で取って帰ってしまえばよくないか?と考えていたら、今までマッシュの膝の上を我が物顔で占拠していたウサ吉が、レインの方へタタッと駆けて行くのが見えた。
真っ直ぐに走り、レインの膝を華麗に飛び越え、新たに落ち着いた先は折り畳まれているマッシュのローブの上。
そこで座り込んでしまい、さらには、ここからは退かないぞという強い意志すら感じる。
(あれ?これ返して貰えなさそう⋯なぜ?)
「俺の気がすまない」
レインの言葉に同意するかのように、どこか誇らし気にフンスとウサ吉も鼻を鳴らしている。
(もう、これ返してもらえないやつだ。⋯ヤダー、圧が似てるのおかしいと思う。絶対似るところ間違ってる)
マッシュを見る目つきと、引かないぞと訴える圧がそっくりな一人と一羽。
普段からレイン一人の圧にも折れてるのに、圧の二乗に勝てるはずもなく、こちらが折れるしかなかった。
「じゃあ、よろしくお願いします」
やってくれると言うんだから任せてしまおう、そんな若干の投げやりな感情になってしまったが、僕は悪くないと思う。
後編へ