嬉しかった起きると毛布にくるまっていた。柔らかな毛並みに鼻を擦り付けると知らない匂いがした。おかしい。いつもならオレンジっぽい洗剤の匂いがするのに、今日はなんだか煙っぽい匂いがする。違和感で急に目が覚めた。辺りを見回すと知らない和室だった。焦って毛布を再び嗅ぐと、やっぱり少し煙っぽい匂いがした。でも、どこか知っている匂いにも似ている気がする。なんだろう?なんかこう、あたかかいもののイメージだ。
「電ボ、どうだ?」
そうか。真夜さんのうちなんだ。夕方、一緒に練習していた先輩の声を聞いて、ぼんやりと理解した。オレ、途中でダウンした……ような気がする。
「起きたか?」
返事を、しなくては。先輩と練習していたのに迷惑をかけ、先輩の家に連れてきてもらい、先輩の家の布団に寝かせてもらったうえに、先輩に様子を聞いてもらっているんだから、光速で立ち上がって敬礼してから大声で返事しないといけない。もしくは土下座だ。どちらにしても、とにかく早く起きないと。
そう自分に言い聞かせているのに、体は一ミリも動かず、石のように固まって、唇は強く閉じられていた。早く答えたい、と念じると、声の代わりに涙が出てきて、目尻を滲ませた。くっそ、なんなんだよオレ。
「寝てんのか?」
吐息のような小さな声が耳元に吹きかけられ、反射でオレは身震いした。耳から首をとおって背中に走り抜けたくすぐったい何かを捕まえたかったのに、それはあっという間にどこかに行ってしまった。あたたかい風のような、夏の雷のような何かを、もっと味わっていたかった。
「……あの…………すみません」
「起きてるな。どこか痛いところはないか?」
まだうずくまっている自分の頭を、真夜さんはカサカサと撫でた。ミサイルを撫でる時よりはずっと優しい力だったけど、普通は触らないだろうなじのあたりをゴシゴシと摩られたから、中途半端なもどかしい気持ちになった。どうせなら、つむじのあたりを撫でてほしい。でも、撫で方の曖昧さとは違い、後輩のオレを心配してくれている気持ちは、ストレートに伝わってきた。
オレ、いま、真夜さんに心配されているんだ。
そう思うと、中途半端にもどかしいうなじも、熱く汗ばんでくる気がした。やばい。冷えろ、冷えろ、オレの首。
「真夜さん、すみません」
「それはいいから。本当に大丈夫か?」
真夜さんがこちらを覗きこもうと顔を近づけてきたから、慌ててオレは顔を上げた。いやだって、これ以上は恥ずかしすぎる。
「大丈夫です。痛いところはない……です……」
熱いところならあるな、と首すじの汗を感じながら、ゆっくり答えた。冷静に見せたいけど、ちゃんとできているだろうか。本当は息を吐くだけで、なんか変なことを口走りそうだ。
「大丈夫なら、早く家に電話しろよ。うちからは連絡してないからな」
「はい、でも、ほんとうに……」
「なんだ?」
首筋が熱くて、頭がぼーっとする。よく分からなくなってきたけど、まずはここまで運んできてもらったことを謝らないといけない。じゃないと、次から一緒に走れなくなるかもしれない。それは嫌だ。絶対に嫌。
「真夜さん、すみません。ちゃんと自分で帰ればよかったんですけど……」
俺が謝っているのを真夜さんはじっと眺めていた。こういう時の真夜さんは、何を考えているのか全く分からない。怒っているのか、呆れているのか、笑いそうになっているのか、何も感じていないのか。怒っているのは嫌だけど、何も感じていないのも嫌だ。それくらいなら、怒られて怒鳴られた方がマシかもしれない。試合の時、悔しそうにすることはあっても怒らない真夜さんに怒鳴られるのなら、それはそれで大事な思い出だ。
真夜さんが何も言わないので、ようやくオレはこの人を落ち着いて見ることができた。シャワーを浴びたのか、髪が少し濡れていた。こんな状況なのに、ちょっといい匂いがすることばかりが気になった。
俺の隣にしゃがんだ真夜さんはしばらくオレを眺めていた。どのくらい時間がたったのか分からなかった。オレはこの人から石鹸の匂いがすることと、着古したTシャツの柔らかい感じと、そこから覗く首ばかり気になっていて、時間は止まったように感じていた。止まった時間を再開するように真夜さんは何回かまばたきをして、それからゆっくりと口を開いた。
「お前が言ったんだ。帰りたくないって」
そうだ。思い出した。ランニングで限界を超えたちょうどその時に、先を行っていたはずのこの人が来てくれて、その時の気持ちそのままが口から出ていたんだ。だって気をつかう余裕なんて一ミリもなかったし、夕陽を背負って駆けつけてくれた人のことが本当に好きだと思って、その場で泣きたくなったから。
そうだ。思い出した。いったん口に出したら止まらなくなったんだ。
恥ずかしさを思い出すと、またうなじの後ろが熱くなってきた。もう泣きたい。泣きたいけど、ここで泣いたら真夜さんがきっと困ってしまう。もうすでに散々困っているだろうけど、これ以上は駄目だと思い直した。
「怒ってないですか?」
こんな質問で良かったのか分からなかったが、とにかく何か言わないと。
真夜さんはずっと黙っていたが、オレが質問をすると、唇をワヤワヤと震わせ、小さな声で呟いた。
「正直、ちょっと」
口が細かく震えている以外は、相変わらず表情が薄く、真夜さんが本当に怒っているのかは判断できなかった。いやでもそうだよな。怒るよな。なんなら、このまま怒鳴りつけて、踏みつけてもらってもいいんだけど。
人を踏む真夜さんは、妄想の中でも形を結ばず、無理に想像するとなんだか冗談みたいになってしまって、怒られているというのに笑いそうになってしまった。いや、分かってる。これは現実逃避だ。
「あ、いや、そういうことじゃなくて、だいぶ」
「え?」
ぼんやりと固まっているオレに気づき、真夜さんは焦ったように言葉を続けた。シャワー後のサラサラとしたおでこに、汗が浮かんだ気がする。
「だいぶ……その……ちょっとじゃなくて、だいぶ」
しどろもどろで言葉を探す真夜さんはどう見ても怒っているようには見えず、むしろ、恥ずかしさを隠すように俯いた。やっぱりおでこには汗をかいていて、桃色になった生え際と、いつもよりも色濃くなった目元が可愛らしかった。やばい、どうしよう、この人がかわいい。
「それで、その、ちょっとじゃなくて、だいぶ、だいぶ嬉しかったけど……」
嬉しかった、の単語がオレの耳から頭に入り込み、脳みそを掻き回して、ぐしゃぐしゃにした。どうしよう。オレが嬉しくて爆発しそうだ。ゲームだったら画面いっぱいにキラキラの花吹雪と花とお菓子と火花が飛び交っているはず。
「嬉しかった」
口を開くと脳内の花吹雪が飛び出して叫びそうになるからと、黙って硬直していたオレに向かい、真夜さんはゆっくりはっきり繰り返した。前向きで、それでいて自分にとって嘘じゃない言葉を選んで話す時の、大好きな人の言い方だった。神様仏様塚原真夜様。オレも自分とあなたに正直でいたいと、今この瞬間、強く思いました。
「真夜さん」
「ん?」
真夜さんはオレに応えながら俯いた。恥ずかしさが遅れて来たらしい。
「オレ、さっき」
「さっきって?」
「えーっと、さっきって、夕方です。道で倒れて、迎えに来てもらった時は、ぼんやりしていたから、あんまりちゃんと覚えてなくて」
「さっき、思い出したって言っただろ」
「ぼんやりと思い出したんです」
うん、と頷いた真夜さんが足を組み直して、あぐらになった。動いていないと、恥ずかしいんだと思ってもいいですよね。ここまできたら。
「正直あんまりよく覚えてなくてもったいないから、今、やり直してもいいですか?」
聞いた真夜さんは、まばたきを何回も繰り返した。つられてオレも何回もまばたきを繰り返す。二人ともしばらく黙って高速まばたきを繰り返していたけれど、おもむろに真夜さんが足を組み直して正座になった。良し、ってことなんだろうけど、正座で待ち構えられるのはばつが悪かった。でも、頑張らないと。
「いきます」
格好よく宣言したかったのに、声がかすれていた。顔を近づけると、石鹸の香りと汗の香りが同時に迫ってきて、思わず目を閉じた。するとよけいに良い匂いがした。馬鹿だな。塞ぐなら鼻じゃん。
頭がくらくらとする。それが、香りのせいなのか、緊張のせいなのか、全部なのかよく分からない。でも、止まっていたらもったいないと、顔を真夜さんに近づけた。目を閉じているから、本当はどこがなんなのかよく分からない。分からないまま闇雲に頬を寄せると、ぽよんとかわいい頬に触れた。頬と頬と擦りながら、少しずつ少しずつ口を寄せ、目的の地に辿り着く。そして、丁寧に唇と唇を合わせた。輪郭と輪郭が揃うようにそっと、ゆっくりと、優しく。
思っていたよりも柔らかくはなかったけど、思っていたよりもあたたかかった。そういえば夕方、最初にキスした時も、同じことを感じた気がする。でも、今はもっと細かいところも、分かる。輪郭を合わせようとしても、同じ形じゃないこと。真ん中がカサついてあるのは同じなところ。鼻があるから避けないといけないこと。顔は支えた方がいいということ……。
「んっ」
唇にぬるりとした感触があり、驚きで鼻から変な声が出た。
同時に唇が軽くなる。真夜さんが離れたから。
「ごめん」
困って俯く真夜さんの肩を慌てて掴んだ。
「だ、だ、だ、だいじょうぶです。うれしかったです」
「そうか?」
「だいじょうぶです。次は自分もちゃんとします」
「ちゃんとってなんだよ」
聞いた真夜さんは小さく笑った。
「俺が悪かった。ゆっくりやろう」
真夜さんは肩にあった俺の手を外した。逆に真夜さんが俺の肩に片手を置き、逆の手で俺のうなじの辺りを撫で始めた。気持ちいいのか、もどかしいのか、よく分からないけど、なんだかすごく安心した。真夜さんはオレを撫でながら「俺が先輩なんだし」と呟いた。続けて「次は俺からするから」と小さな声で言っていたけど、次もオレからしようと心に誓った。
ふだん、オレがこの人からもらっているものの多さに比べれば、こんな形で好きを返すだけじゃ全然足りないんだから。
あ、鞄の中で電話なってる!
〆