おまじない 何処をどう歩いたのかもう分からない。戻れているのか、もっと奥へ入り込んでしまっているのかも分からない。長い廊下、暗い天井、どれも同じに見える重い扉。
冷たい床に、黙々と動かす裸足の爪先が痺れる。
背後を振り返り、前に向き直る。この選択は正しいだろうか。
もう何日もこうしているような気もするし、たった数分の出来事のようにも感じる。平常心を失っているのだろうか。心臓音がやたら大きく聞こえる。
こういう時どうすればいいと教えられた?
あの人は何と言っていた?
かじかんだ拳でトントンと胸を叩く。
この胸の詰まりは何だろう。
痛みはない。苦しいが呼吸器は正常だ。心拍数が上昇している。発汗量が増加し、四肢末端の体温が下降している。
胸をぎゅっと握る。
高い天井を見上げる。
✡✡✡
目の前に翻る唐草模様のマントに、一郎はまたかと呟いた。
また助けられた。何度目だ。
「伯父さん!」
ぱっと顔を輝かせてその背中を見るメフィスト三世に、一郎はちらりと目線を投げた。
「大丈夫かい?」
振り返った先代の顔にホッとする自分がいて、その自分に苛立つ自分がいる。
悪魔が魔法陣に呑み込まれ、空間が完全に正常に戻るのを確認すると、先代は駆け寄るメフィストに穏やかに笑いかけた。
「今回の悪魔は手強かったね、三世くんよく耐えてくれたよ、ありがとう。」
褒められて嬉しそうに頰を上気させたメフィストが一郎を振り返った。先代はメフィストに向けたのと同じ笑顔を一郎にも向けてくる。
「一郎、怪我は無いかい?」
「問題ない。」
ふらりと立ち上がると、見上げていた先代を見下ろす。先代が間に合ってよかったと、心底ホッとした様に息を吐くのを見て、一郎の苛立ちは更に増して抑えきれなくなる。
「助けなど要らなかった。」
「実際に助かっただろうが、何言ってんだお前。ちゃんとお礼くらい言えよ。」
「いいんだ三世くん、無事ならそれでいいんだよ。」
怒るメフィストを宥め、先代は見えない学校への路を開いた。
「大丈夫だよ一郎、焦らなくていい。一歩ずつだよ。」
またね、と門の中へ消えたその背中に、一郎は行き場のない苛立ちを吐き出す。
「クソ親父」
メフィスト三世はその怒りを思う存分一郎にぶつけると、お前とはもうこれまでだと云ういつもの捨て台詞と共に、研究所から出て行った。
急に静かになった室内には、ソファに寝そべり本をめくる音だけが残った。窓から差し込む陽光を受け、空気中の塵がキラキラと反射する。
メフィストは先代を大いに尊敬しているようだ。だから一郎の態度が気に食わないらしい。
確かに先代は強い。そして必ず危機を察知し駆け付けて来る。それを恩に着せることも、二人の未熟を嘆くこともない。
だがそれが癪に障る。
(僕にとって不利益な事ではない筈だ。いつもの事なのに慣れもしない。)
あの細い両肩に背負っているものは自分の比ではなく、そしてそれに応えるだけの実力と精神力を持っている。メフィストが言うように尊敬に値する人物なのは間違いない。
怒るメフィストを宥める義父。
(ああ、そうか、あの顔だ。)
メフィストに注がれる優しい眼差し。思い出すと皮膚の表面がざわつく。
堂々としていればいいのに、あの人は気を遣うのだ。たまにある叱責も一言で終わり、すぐに穏やかな態度に戻る。養い子の言葉をひとつひとつを丁寧に受け止めようとする。まるで自分に非があるかのように、それが義務であるかのように。
困り顔で微笑む義父の顔。慈しみに満ちた瞳。
ベタベタと思考に張り付いて剥がせない。本に集中できず、さっきから同じ箇所を何度も繰り返してなぞっている。
一郎は、ふっと息を吐いて本を閉じると腹の上に置き、天井を眺める。
(僕はあの目の何が気に入らない?慣れもしない。)
一郎は目を閉じた。
✡✡✡
暗い場所には慣れている。これまでずっと赤くて暗い世界にいたからだ。真っ赤な翼を持つ天使と二人きりでそこにいた。
時間の流れも曖昧な、停滞した場所。ストロファイアの言葉だけを聞き、教えられるままを覚え、寝ても覚めても変わらない世界。
あの人に連れてこられたこの場所も、停滞した場所だ。閉じた世界だ。色があり形があるだけで何も変わらない。
(なのになんでこんなにも違う?)
五感がビリビリする。心臓が、肺が、腸が、今まで経験したことのない反応を示す。こんな感覚は知らない。
(これは何なんだ?)
ぎゅっと掴んだ布が汗を吸い湿っている。ひたすら動かしていた両足を止めた。
ゾワリ、と背筋を暗い影のようなものが這い上る。呼吸が増々荒くなる。
どうすればいいと説明された?
覚えたばかりのその人の顔を思い浮かべる。その人は頭を撫でながら微笑んだ。
ねぇ一郎。この見えない学校は守られていて何処に行っても安全だから、好きに探検してみるといい。僕は邪魔をしないから、君の行きたい所へ行って遊んでおいで。でもね、学校の中はとても広くて、複雑な構造をしている。だから迷ってしまうかも知れない。そんな時は僕を呼んでくれればいいからね。
すぐに迎えに行くからね。
✡✡✡
目を開く。
赤と黒の世界。
ああ、ここは知っている。どこにも行けない、閉じたあの世界だ。
天も地も無い。昨日も明日も無い。
生臭い匂いと、泥濘み乾いた足元。
歩いているのか立ち止まっているのかも曖昧。
何日もこうしているような気もするし、数分の出来事のようにも感じる。
一郎はぎゅっと両の拳を握り締める。胸に風が抜ける感覚がして思わず手をやると、ぽっかり穴が空いていて、そこにあるべきものが無かった。指に触れた血がカサカサと音を立て、粉になって落ちる。
ゾワリ、と背中を暗い影のようなものが這い上がる。呼吸が荒くなる。
一郎は歩調を早めるが、何処を目指したらいいのか分からない。戻っているのか、更に奥へと入り込んでしまっているのかも分からない。
(この感情を、もう僕は知っている。不安、だ。)
不安と恐怖と淋しさだ。
こういう時どうすればいいと教えられた?
あの人は何と言っていた?
一郎は立ち止まると、仄暗い虚空を見上げ、祈るように目を閉じる。震える唇を薄く開き、唱える。
あのおまじないを。
「父さん」
「一郎!一郎!」
視界に切れ目が入り、光が差し込む。自分が目を開けたのだと気付く。
視界に飛び込んできたのは、涙に濡れ必死に呼びかける父の顔だった。一郎が唇だけで呼ぶと、父は震える両手で息子の頭を抱き締め、動かなくなった。
薄い肩越しに、メフィスト三世とその父親の顔が見えた。二人とも蒼白でこちらを注視していた。二世の目が潤みはじめ、いつもの笑みが返ってくる。三世は頬にゆっくりと色が戻り、声も無く、大粒の涙をボタボタと落とし始める。
そっと胸に手を触れる。服についた血がぬるりと指先に触れる。穴は空いたままだが生きている。
無防備なその穴に父の感情が流れ込んできて、温かいものになり、一郎の頬を伝う。
小さな背中をそっと抱き返す。
(僕が欲しかったのはこれか。この人の、誤魔化しのない強い感情だったのか。)
この背中に守られるばかりで嫌だった。早く守れるようになりたかった。慈しまれるのではなく、頼りにされたかった。だから何に代えても、どうしても助けたかった。命さえ惜しくはなかった。
(また助けられたな。何度目だ。)
頰をくすぐる髪の匂いを深く吸い込むと、胸の空洞を代わりのものが埋めていき、爪先まで温かさが広がる。
もう寒くは無い。
✡✡✡
「よく呼んでくれたね、すぐに分かったよ。淋しくさせてごめんよ。」
その人はそう言うと、頰を両手で包み込み、嬉しそうに微笑み抱き締めた。温かい手が髪をゆっくりと撫でる。
緑色のマントの内側へ抱き寄せられると、さっきまで痺れていた爪先の痛みが消えた。
覚えたばかりのその人の匂いを深く吸い込むと、胸の苦しみが解けていく。
そっと体を離すと、悲しそうな目をして、呟くように労りながら両手を包んだ。
「ああ、手足がこんなに冷えて。不安だったよね、怖かったね。よく頑張ったね。」
抱き上げられながら、胸の内で言葉を繰り返してみる。
(淋しい。不安。怖い。)
「もう安心していいよ。部屋に帰ろうか。ココアを入れてあげようね。」
(安心。)
そうか、これは安心と言うのか。
父の腕の中で揺られながら目を閉じる。胸に手を当て、忘れないようにもう一度こっそり唱える。
安心のおまじない。
二〇二四年五月一四日 かがみのせなか