守護者 1
パンと破裂音が室内に響き、真吾はハッとして魔術書から顔を上げた。
高い天井に余韻が残る。
見えない学校を包んで張っている結界が侵入者を弾いたのだ。
真吾はじっと宙を見詰め、意識を集中させて状況を探った。暫くそのまま外の様子を窺っていたが無事に排除できたようで、再び結界が作動する気配は無かった。
ふっと短く息を吐き、魔術書に目を戻す。
東嶽大帝を退けて以降、各界は比較的安定し、ここ悪魔界でも、見えない学校と、学校を拠点とする悪魔くんや十二使徒を害しようとする悪魔はほとんどいなくなった。
たまに興味本位なのか見えない学校に侵入しようとする魔物が現れるが、結界に阻まれると素直に退散する。
だが。
警戒を解き再び思考の海に沈んで間もなく、また衝撃が真吾を呼んだ。ビリビリと書斎机の上のフラスコが震える。
真吾は魔術書に栞を挟むと、椅子から立ち上がり杖を手に取った。
真吾は校内に異変がないか目を配りながら、誰もいない廊下を早足で通り抜けた。その間にも頭上で立て続けに破裂音が鳴った。恐らく魔物は一体ではない。そして力の弱い魔物だ。
百目とコウモリ猫はどこにいるだろう、きっと不安に違いない。
門を抜け結界の外に出ると、真吾は息を呑んだ。
蝙蝠に似た羽を持つ魔物が十数体地面に落ちて震えていた。
空を見上げると、更に数体の魔物が学校を目掛けて突進しようとしていた。
「止めろ、止めるんだ君達!」
真吾はぐったりしている魔物達に駆け寄り、その内一体を掌に拾い上げた。うっすらと目を開いた魔物はピィピィとか細い声で鳴いた。
「どうしたんだ、何かあったんだね?」
真吾に気付いて空から降りてきた魔物達は真吾の頭や肩にとまり、口々にピィピィと鳴いて訴えてくる。どうやって事情を聞き出そうかと考えていると、魔物は突然真吾の意識に侵入してきた。
真吾がうっと呻いて目を瞑ると、その瞼の裏に複数の映像が一気に押し寄せてきた。魔物達が見てきた光景を真吾に伝えようとしているのだ。
真吾は抵抗せず見せられるがままに受け入れた。
大きな地の裂け目の底だ。暗く湿り気の強い谷は深く、底から見上げるとまるで岩山の渓谷のようだ。奥深くに魔物の館だろうか、地形を利用して固い岩壁を掘るように建てられた館があるが、酷く破壊されていた。館を背に奇妙な形をした魔獣が暴れ、地の壁に阻まれ逃げられない魔物達を巻き添えにしていた。
魔獣はヤモリのような形で、サイのような硬く分厚い表皮を持ち、長い胴体に生えた、左右合わせて六本の脚は、人間の手の形をしていた。這いつくばるように走り、長い尾で周囲の岩を払い飛ばした。背には翼があるから、飛ぶこともできるのかもしれない。
よく見るとその首や足首に裂傷があり血が滲んでいた。
制止しようとした中級以上と思われる悪魔が前足に掴まれ、大きく裂けた口に呑み込まれた。
魔獣の足元には掌の中の魔物と同じ影が無数に散らばり、踏み潰されていた。
真吾はゆっくり目を開いた。
「分かったよ。すぐに行こう。怪我をした子は学校で治療をしようね。」
必死な思いでここまで救いを求めて来たのだろう。どの魔物も羽の付け根が裂けている。真吾は口を引き結び、小さな魔物をそっと撫でた。
ピクシーを召喚し、コウモリ猫に傷付き動けなくなった魔物達を託すと、どうしても行くと言って譲らない百目と共に再び学校の外に出た。
杖を振り、魔物達に見せてもらった記憶を頼りに魔門を開いた。
「メフィスト二世を呼ばないんだモン?」
心配そうに見上げる百目に、真吾は微笑んだ。
「メフィスト二世は仕事中だよ。呼ぶわけにはいかない。僕達で何とかするんだ。」
魔物達の先導で魔門を通り抜けると、途端に凄まじい咆哮が耳をつんざいた。ビリビリと空気が震える。百目は思わず真吾の脚にしがみついた。
真吾は魔獣を見て小さく呻く。
何が起こったのか、魔物達が見せてくれた姿よりも魔獣の体が大きくなっていた。
魔獣は錯乱しているのか、手当たり次第に目に入ったもの、体に触れたものに対して攻撃をしている。きっと破壊された館は彼の仕業だろう。しかしその目的は何だろうか。
周囲は魔獣を抑えようとする魔物と逃げ惑う魔物が入り乱れていた。まずは彼らをどうにかして安全に退去させなくてはならない。
真吾は杖を握り直し目の前に構えた。魔力の風で、真吾の足元まで覆う大きな緑のマントがフワリと翻り、唐草模様が浮かび上がった。淡い光が真吾を包み、真吾は地霊を呼び起こす詠唱を始めた。
神秘的な光に数人の魔物が真吾を振り返る。
魔獣の足元に巨大な魔法陣が浮かび上がり、黄金の強い光を放った。魔力を含んだ風が渦を巻いて吹き上がるのと同時に、地面から七本の強固な鎖が飛び出し魔獣の体に絡み付いた。
ズンと地面が揺れ、魔獣の固い体が地面に引き倒された。縛り付けられた魔獣は抵抗し激しく身を捩るが、抗えば抗うほど鎖は更に深く肉に食い込んだ。
魔獣は怒りの咆哮を上げた。
衝撃波で数体の小さな魔物が後方に吹き飛ばされた。真吾はマントの内に百目を庇いながら何とか持ち堪える。
蝙蝠の魔物達の記憶にこんな場面はなかった。体の成長と共に力も増しているようだ。
「君達はこの場を離れるんだ!」
魔物達に向け真吾は声を張り上げた。魔獣に立ち向かおうとする魔物達が足を止め一斉に振り返った。
「僕に任せて君達はどうか身を守って!」
さざ波のように「悪魔くんだ」「悪魔くんが来てくれたぞ」「思ってたより小さい」と魔物達が呟く声が広がっていった。この悪魔界で大禍を鎮定させた悪魔くんの名を知らない者はいない。
うっすらと希望のようなものが魔物達の表情に灯っていく。
真吾は「もう違うんだけどな」と小さく呟いた。
悪魔くんに注目する魔物達の間を抜けて、三メートルはあると思われる大きな体躯の魔物が真吾の前に立った。豊かな赤毛のたてがみが揺れる。幾つも傷を負い、打撲痕で斑になった体中に血が滲んでいる。牛と獅子を合わせたような容貌で、真吾を見下ろすと低く響く声で話しかけた。
「戦える者は戦う。いくらあなたが悪魔くんだとしてもひとりで太刀打ちはできない。あれの力は無尽蔵だ。」
周りで様子を見ていた魔物達もうんうんと頷く。
真吾は回復魔法を発動した。魔物達の傷口ひとつひとつに綿毛のような淡い光が触れると、傷がスッと消えていく。魔物たちは互いに回復した場所を見せ合いはしゃいだ。
「どういう事だい?経緯を知っているのなら教えてくれないか。」
「ここに至る経緯は知らない。私も後から駆けつけたのだ。ただ、どういう道理なのかは分からないが、あれはどれだけ暴れても疲労しないし、ダメージを受けてもすぐに回復する。」
獅子の魔物は傷口が回復した跡を撫でると、ありがとうと礼を言った。
「あの魔獣はあの壊れた館の主であった上級悪魔の従魔という話だ。普通の魔獣ではなさそうだがな。」
「悪魔くん…」
百目が青ざめた顔で真吾を見上げる。
真吾は鎖にもがく魔獣を注視しながら、しばし口を閉じた。
やがて百目を見下ろすと、安心させるようににっこり笑った。
「まずは相手を知らないとね。そこから始めよう。」
「もうもたないぞ。」
一旦弱ったように見えた魔獣の体の周りに白く濁った気体が漂い、筋肉がわずかに膨張した。縛り付けている鎖がギリギリと軋んでいる。魔獣が唸りながら体を揺する度に鎖にヒビが入った。
「その為には魔獣の動きや反応を実際に確かめるしかないみたいだ。話は出来そうにないからね。彼の主人だという上級悪魔や館も気になる。」
百目にこの場を離れるように言うと真吾は魔獣を見据えた。魔物達も身構え、壊れていく鎖を見守っている。
百目は言われた通り安全な場所に身を隠すと、体中の目玉を開放した。
真吾はどう仕掛けていくか策を練りながら杖をぎゅっと握りしめた。
「本格的な戦闘は久しぶりだ…ちゃんと動けるかな。」
ひと回りまた成長した筋肉に圧迫され、鎖が弾け飛んだ。
身を起こした魔獣が怒りの咆哮を上げる。だいぶ慣れてきたとはいえやはり圧倒される。
真吾はふらつく体を腹に力を込めてぐっと支え、杖で足元をトンと突き、詠唱を始めた。
真吾の目の前に魔法陣が現れる。真吾の魔力を魔法陣の中心の一点に凝縮し、一つの光の矢に変形させていく。成熟すると真吾は魔獣目掛けて矢を放った。
到達するまでの間に矢は百以上に分かれ、隙間なく魔獣の全身を攻撃した。魔獣の動きは鈍く回避が間に合わず全てまともに受けたが、魔獣の固い皮膚を通る矢は無く、全て地面に落ちていく。
すかさず真吾は二本目の矢を放った。結果は同じで、バラバラと矢は地面に落ちて消える。
最後に放った矢は変化をさせず、大きな矢を魔獣の腹目掛けて真っ直ぐに放った。
分厚い皮膚を貫く事は叶わなかったが、攻撃の重みで魔獣は後ろに飛ばされた。
固い。想定していたとはいえその強度に真吾は苦笑いをした。
土埃で視界が遮られるが、真吾は魔獣が態勢を整え姿を現す前に次の詠唱を始めた。
霞む視界に揺らぐ影を取り囲むように複数の魔法陣が浮かぶ。それぞれの陣が煌々と輝くと四方から魔獣に向けて炎を放射した。
叫び声を上げて尾を振り回し、魔獣は魔法陣を破壊しようとするが、尾は魔法陣をすり抜けた。
真吾目掛けて駆け出した魔獣に身構える。その目の前に大きな背中が立ちはだかった。
「下がれ。」
真吾は誰かに襟を掴まれ後方へ強く引っ張られた。突進してきた魔獣を獅子の魔物は全身で受け止めると、数メートル圧されながらもさらなる猛進を食い止めた。
「アンタあれを受けようなんて無謀すぎる!」
岩陰に真吾を放り込むと、大きな狼の姿をした青灰色の魔物が怒鳴った。揺らめく毛並みが青い炎のようだ。
「アンタには魔法があるのかもしれないが、そんなぽやっぽやで!ふっ飛ばされちまうよ!」
「ごめんよ、ありがとう。」
真吾はぽやっぽやとは何だろうと思ったが訊ける雰囲気ではなさそうだ。
レアルと名乗ったその魔物はぶつぶつと文句を言いながら真吾を庇うように立つ。その向こうで獅子の魔物が魔獣を引き倒した。地響きで頭上から岩のかけらが落ちてくる。周囲から歓声が上がった。
強い。
「彼の名前はなんていうんだい?」
「マルクだよ。筋肉バカだ。」
普段から親しい間柄のかもしれない。
引き倒された魔獣はその場にぐったり横たわった。皮膚が焼け焦げ赤黒く爛れている。
真吾は岩陰から出るとマルクに駆け寄った。
「ありがとう、助かったよ。君は強いね。」
魔獣の状態を確認する為に歩み寄ろうとするが、マルクが太い腕でそれを制する。目は魔獣から離さない。
「あなたは優しい姿をしているのに、流石悪魔くんだな、凄まじい威力だ。だがまだ終わりじゃない。よく見ていろ。」
真吾を追ってきたレアルが背後で身構える。
魔獣の様子が変わった。
体のあちこちから蒸気のようなものが噴き出すと、全身の筋肉が急速に膨張を始めた。ビクビクと全身が痙攣し、魔獣がうっすらと目を開く。恐らく鎖を砕いた時に漂っていた物と同じ気体だ。
「私達はもう何度もあれを見ている。」
「いつになったら疲れてくれるんだかね。飼い主の上級悪魔もあれに倒れた。」
「飼い主?従魔だと…」
レアルはチラっとマルクを見遣る。横を向くマルクに軽く舌打ちをすると「アレはペットだよ」
真吾は口の中でペット、と繰り返す。
「従魔にするほど賢くないんだとさ。館の奴等が言うには、ある日どっかから連れて来て館の奥に隠し、主ひとりで面倒見てたって話だ。」
「その上級悪魔は今ここに居るのか?」
「あれだよ。」
レアルが顎で示した石柱の陰をよく見ると、粘液で覆われた塊があり、複数の魔物達が介抱していた。砕かれた人型の魔物だ。
「モグモグしてペッだ。回復には時間がかかるだろうな。」
有翼の魔物達が見せてくれた光景の悪魔だった。あの後吐き出されていたのか。
真吾はじっとその姿を見詰めた。
魔獣はゆっくり立ち上がると口から蒸気を吐き出した。巨体を支える六本の脚がぐっと力を込めた。
「来るぞ」
再び真吾はレアルに襟首を咥えられた。慌てる真吾に構いもせず岩壁を伝い駆け上がっていく。強靭な後ろ脚で、軽々と突き出た岩を飛んでいくその足取りは、重力を感じさせない。
魔獣はひと回り大きく、更に固くなった巨体を遠慮なくマルクにぶつけた。地面を削りながらもマルクは血管の浮き出た腕で受け止め抑える。
魔獣は身を起こし、マルクを捕らえようと人間の手の形をした前足を振り下ろし掴みかかった。マルクは素早い反応でそれを躱すと、魔獣の動きを利用してその脚を抱え、自分の体を軸に捻り上げ、魔獣を岩壁に打ち付けた。
魔獣は長い尾をしならせると、マルクの胴体を捕らえる。腕で庇いながらもマルクは後方の壁に叩きつけられた。
壁の足場で様子を見守っていた真吾は思わず声を上げる。
「マルク!」
「心配するな、あれくらいなら屁でもねぇよ。」
「悪魔くん!」
呼ばれた方を振り返ると、緑の小さな手が足元ににゅっと現れた。瓦礫を伝い登ってきた百目が真吾に飛び付く。真吾の腕の中の百目を見ると、レアルは溜息を吐いた。
「ぽやっぽやが増えた。」
真吾は百目の顔や腕の土埃を払ってやる。
「悪魔くん、館の中はボロボロだったモン。でも、そんなに壊れてない所もあったから、壊れてる所を辿ってみたモン。館の奥の方に暗い地下に繋がってる階段があって、鍾乳洞みたいな広い所に繋がってて、そこに柵がしてあって、檻みたいになってたモン。」
「檻…そこにあの魔獣が隠されていたのかな。」
「壊れた鎖が何本もあったモン。」
百目がこれくらい、と手で輪を作ってみせた。直径十センチ弱くらいだろうか。
「鎖は千切れていた?それともバラバラになっていた?」
「バラバラだったモン。」
真吾はそうかと頷いた。
「ありがとう百目。大変だったろう。」
「あとね、魔獣が元気になる時のシュワー、あれは人間のエネルギーだモン。」
「え?」
真吾は思わず百目の顔を覗き込んだ。
「シュワーの時以外は人間のエネルギーを感じなかったから気付かなかったモン。」
真吾は魔獣に目を向けた。周囲を取り囲む魔物達の攻撃に疲労し、動きが緩慢になっている。
「レアル、僕達を下に下ろしてくれないか?」
「作戦があるのか?」
それは、と真吾が口を開きかけた時、下から叫び声が上がった。
魔獣が両手に魔物を掴み、必死に抵抗する右手の魔物を口に無理矢理詰め込んだ。バキバキという壮絶な音と絶叫が谷に反響し、咄嗟に真吾は百目を抱き締めてその耳を塞いだ。
百目が半泣きで真吾にしがみつく。
幾度か咀嚼すると魔獣はそれをゴクリと呑み込んだ。
真っ青になって押し黙る真吾に、レアルは憐れむような目を向けた。
「あれが、あれだ。」
団子になった上級悪魔の事だ。真吾は低く呻いた。
「今呑み込まれた魔物も、そのうち吐き出されるということ?」
「それは知らない。たまたまかもしれないし、腹の中で抵抗した可能性もある。あんなんなっても一応上級だしな。」
「そうか…」
ここでただ眺めているわけにはいかない。
真吾はレアルに頼んで二人を魔獣から少し離れた場所に下ろしてもらうと、百目に離れるよう指示し、早速魔法の発動準備に入った。
レアルは魔獣の投げ飛ばす瓦礫を巧みに避けながら、抗戦する魔物達に報せに走った。
「悪魔くんが仕掛ける。お前ら一旦引け!」
魔物達が慌てふためく中、魔獣の頭上に魔法陣が現れた。魔獣は警戒してその下を離れようとするが、魔法陣は振り払えない。
真吾が杖をトンと地面に落とすと、魔法陣の範囲内に強烈な破裂音と閃光と共に雷が落とされた。見ていた悪魔達が一斉に目を覆う。
「先に言ってよ悪魔くん!」
魔獣の体を貫いた雷はその範囲の地面を黒く焼き、魔獣は声もなく倒れ込んだ。
真吾は同時に走り出す。魔物達は目を塞いだまま、向かってくる真吾に口々に文句を言った。
「目がチカチカする!」
「耳がキーンとしてる!」
「みんなごめんよ!」
真吾は動かない魔獣の口の中を覗き込み、また腹の方へ回り耳を当てた。
悪魔くんが何かを始めたと魔物達が取り囲むのを掻き分け、マルクが様子を見に来た。
「さっき呑み込まれた者を助けようとしているのか?」
突如魔獣の腹が大きく波打った。
咄嗟にマルクは真吾を抱え上げ、飛び退く。魔獣を囲んでいた魔物達の輪もパッと散らばった。
腹から喉にかけて激しく蠕動し、魔獣は意識を失ったまま嘔吐した。先程呑み込んだ魔物が粘液と共に吐き出された。
真吾はマルクの腕から降りると慌てて駆け寄り、吐き出された魔物を揺すって呼び掛けるが、反応がない。だがかろうじて息はしており、真吾はほっとする。
回復魔法を使おうと杖を持ち直した真吾の手をそっと制し、マルクは首を横に振った。
「無理をするな。悪魔くんといえども体力も魔力も無限ではないだろう。」
「でも」
「大丈夫、時間が経てば回復できる。我々の生命力は強い。」
「アンタに今倒れられたら困るんだよ。」
レアルの言葉をマルクはおい、と叱咤する。レアルは本当のことだろう?と鼻を鳴らすと横を向いた。確かにその通りなのだ。
「俺たちが面倒見るからさ。」
「砂かけてりゃ元に戻るって。」
魔物達が真吾を安心させようと明るく振る舞いながら、同胞を引き摺って行く。漸く真吾はこくりと頷いた。
真吾は魔獣を振り返った。痙攣する魔獣の手をそっと撫でる。
「悪魔くん、油断するな。」
「大丈夫さ。」
真吾は、魔獣の薄く開いた瞼の奥の、黒い瞳を見詰めた。
回復できるからといって、痛くないわけじゃないし、苦しくないわけじゃない。
ごめんよと魔獣に謝る真吾に、マルクとレアルは目を丸くして顔を見合わせた。
魔獣にはこうする理由がある。そしてきっとそれは難しい理由じゃない。真吾の目には魔獣が怯えているように見えていた。
ソロモンの笛があれば。
真吾は何も下がっていない胸に手を当てる。
かつてソロモンの笛に頼らない強さを持つことを教えられた。そうあらねばならないと努力をして来た。笛がなくても心を伝えることはできると信じている。
しかしこんな時はどうしても考えてしまう。
真吾を見守る二人の魔物に、真吾は独り言の様に話した。
「僕はね、もう『悪魔くん』ではないんだ。それはソロモンの笛に選ばれた後継に託したんだよ。」
マルクはふむ、と頷いた。
「引退したという噂は本当だったんだな。」
「でも俺達は他にアンタの呼び方を知らない。笛があろうがなかろうが、俺たちとっては今もアンタは『悪魔くん』だ。こうして現に助けに来てくれている。」
「『悪魔くん』は名前ではない。あなたの意志を継いだその人も『悪魔くん』だろうし、志を持ち続けるあなたも『悪魔くん』だ。」
真吾は二人を見上げると、「ありがとう」と嬉しそうに微笑んだ。ありがとう。
真吾は魔獣の手に残る裂傷に触れた。血が止まっていない。何度回復を繰り返しても治らない傷。この傷は魔獣自身が治らないと思い込んでいる傷なのではないだろうか。
回復に使うエネルギーは人間の生気エネルギーだった。魔界に居ながらどうやって調達しているのだろう。
いつの間にか傍らに来て真吾を見上げていた百目と目が合った。
百目の目…
もしかして。
真吾はしゃがむと百目の両肩に手を置いた。
「百目、君にお願いがあるんだ。」
「どうしたんだモン?」
「とても危険だけど、きっと百目にしかできない事なんだ。」
危険、と聞いて一瞬怯んだが、疲労が見え始めた真吾の顔に、百目はぐっと両手を握りしめると大きく頷いた。
「ボク、やってみるモン!」
2
パタパタとメフィスト三世がせわしなくハタキをかけて回る中、一郎は大きな欠伸を一つして、デスクの上のポテトチップスの袋に手を伸ばした。
今日は何の依頼もなく、二人は朝から平和に過ごしていた。 一郎はただのんびりとしているだけだが、三世は依頼が無ければ無いでやる事は沢山ある。不公平だ。
聞くでもなく何となく流しっぱなしにしているラジオのニュースでは、行楽施設で、季節外れの熱中症で複数人が病院に搬送されたと報せていた。
朝晩の気温はだいぶ落ち着いて来たものの、日中は半袖が快適なくらいに暑くなる日はまだ続いていた。
季節関係なく正装の三世にしたらもどかしいだろう。
ポリポリとポテトチップスを咀嚼しながら、間髪入れず次のポテトチップスを口に入れるべく左手で袋を探る。暫く探っても指に触れるものが無いので、一郎は本から目を離し、袋の中を覗いた。
「メフィスト、もうない。」
「何が。」
一郎は無言で空になった袋を掲げた。だが三世は掃除に忙しく振り向かない。
暫く待っても返事が返ってこないので三世が振り返ると、袋を持ってこちらをじっと見ている一郎がそこにいて、三世はイラッとした。
コイツは気付かれるまでずっとそうしているつもりだったのか。
「知るかバカ!」
それでも袋を下げない一郎に三世は更にイライラを増幅させる。
「人が今何やってると思ってんだ。お前にも足はあるんだろ。絶対持ってかないからな!」
一郎は口を尖らせると、しょうがないなとばかりに、椅子の肘掛けに乗せた細い脚を下ろした。その態度が癇に障る。
「ホントに何もしないんだからせめて自分の食い物の世話くらい自分でしろよ。」
「依頼はこなしている。」
「てめぇの家賃だろうが!」
プンプンとハタキを片付けに行った三世の背中を、何故そんなに怒っているのだろうと不思議がりながら、一郎はたまにしか入らないキッチンへ向かった。
おかわりのポテトチップスを探し出して応接室に戻ると、掃除機を片手に持った三世が百目と話していた。
玄関の開く音などしただろうか。
百目は酷く慌てた様子で一郎を見た。
「大変なんだモン!とにかく協力してほしいモン!」
「悪魔くん、伯父さんから依頼だ。」
頼られて嬉しいのを隠せていない三世の顔に、一郎は僅かに眉根を寄せた。先代からの依頼など深刻な状況であるのは明白だから、空気を読んでこれでも我慢しているようだ。
メフィスト三世は先代達に強い憧れがある。特に真吾に対しては信仰に近い。
一郎はポテトチップスを応接テーブルに置いた。
「百目、何があった?」
「詳しい説明は移動しながらするモン。とにかくすぐ来て欲しいモン。」
「遠いのか?」
「お腹を捕まえるんだモン!」
「お腹?」
一郎と三世は顔を見合わせた。
三人はバタバタと研究所の外へ出た。
階段を降りようとするコンビを百目は慌てて止める。
「そっちじゃないモン!見えない学校に行くモン。」
「そのお腹ってのは人間界にあるんじゃないのか?」
三世の問いに答えず魔門に駆け込む百目を二人は慌てて追う。
一歩踏み出すとそこはもう、空気も大地も時間軸も違う別世界だ。目指す先に見えない学校が聳え立つ。
「電車で移動なんてのんびりしてられないんだモン。お父さん悪魔くんが幾つか魔門を開けっ放しにしているから、それを経由するんだモン。」
草原を走りながら、百目は続ける。
「ざっくり説明するモン。お父さん悪魔くんは今魔獣と戦っているんだモン。その魔獣のお腹が人間界に行ってて、人間のエネルギーを食べてるんだモン。何度倒してもすぐ元気になっちゃうから困ってるんだモン。」
「えっ、伯父さん、複数魔門を維持したまま戦ってるの?嘘だろ…」
絶句する三世。
何故そんな事になっているのか。一郎は舌打ちをした。
見えない学校の前に魔門が開いている。門の前でコウモリ猫がウロウロしながら心配そうにこちらを見ていた。三人を見付けると、背伸びしてこいこいと両腕を振り回す。
「やっと来たでヤンス!大先生が大変で…とにかく急ぐでヤンスよ!」
魔門に走り込む三人に、コウモリ猫は後ろから「頑張るでヤンス!」と声援を送った。
魔門の薄暗い道ともつかない道を走り、三世は息を切らしながら疑問を口にした。
「なんでお腹だけ人間界に行くんだよ。」
「いや、有り得なくはない。」
一郎は三世に、百目を指差してみせる。三世はあっと声を上げた。百目は目玉を飛ばして探索することができる。そして目玉の見たものをリアルタイムで確認できる。
「百目が飛ばした目玉から情報を得られる。それと同じ理屈で、魔獣の分離した胃袋も腹の中では繋がってるんだ。収集したエネルギーを本体へ送れる。」
「難しい事は分からないけど、お父さん悪魔くんは、胃袋だけお外に出して、隙間から人間界に入ったって言ってたモン。」
「バッグ・イン・バッグかよ」
それぞれの世界は遠く隔たれているようでその実は隣り合い、互いに影響を与え合っている。次元という壁が厚いだけだ。
ただ、その壁にも綻びが出来る場合がある。大きな災害や時代を動かすような出来事があった場合、つまりその世界の均衡が揺らぐ時だ。綻びは放っておいても自然に塞がる。だが、たまに塞がる前に人間界に迷い込んでしまう者がいる。そして、意図的に綻びの修復を阻害し利用しようとする者もいる。
どちらにしろ、その魔獣の胃袋は、そうやって出来たヒビ割れを通って来たのだろう。
「でもさ、抜け道なんてそんな簡単に見付かるものか?」
一郎は首を横に振る。
「だよな。それにさ、なんでわざわざそんな事しなきゃならないんだ?魔界にも食べられる物は何だってあるだろう。」
「君の言う通りだ。」
だからまだ何か教えられていない情報があるのだ。そうでないとこの結論には至らない。
やたらに長かった魔門の道を抜けると、そこはまさに戦場だった。
深く暗い谷の底を魔物が埋め尽くし、松明を守る者、傷付き倒れた者、それを介抱するもの、彼等の防御壁となる者がいた。その魔物の群れの向こうで沢山の魔物達が戦う激しい音がひっきりなしに続いている。
緊迫した空気に圧倒され、二人は思わず足を止めた。
「なんだ…これ」
三世が掠れた声で呟く。
恐らく魔獣のものであろう咆哮が谷を震わせた。
後方を守る結界の表層が波打つ。
それでも防ぎきれない余波に三世と一郎はふらついた。
「…クソ親父の結界だ。」
百目を見ると、唇を噛んで声のした方向をじっと見詰めていた。
「…あそこにいるんだな?」
その時、辺りが一瞬眩い光に照らされ、パァンという凄まじい破裂音が響き、地面が大きく揺れた。
魔獣の叫び声が谷に反響する。
「クソ親父。」
「早く来るんだモン!」
思わず奥へと足を踏み出した一郎のズボンを、百目は思い切り引っ張った。ハッとして振り返ると、目に涙をいっぱい浮かべた百目が一郎を睨んでいた。
「人間界にあるお腹を止めないと、魔獣は何度でも回復するしどんどん強くなるんだモン。ボク達は出来ることをやるんだモン。」
「急ぐぞ悪魔くん!百目、魔門はどこだ__」
「こっちだモン!」
魔物達を掻き分け走る、三世と百目の背中追いながら、一郎は目だけで父親の姿を探した。
こんな戦いをどれくらい続けているのか。怪我はないのか。
岩壁の陰に開かれた魔門を通り抜ける寸前、一郎は魔物達の向こうに、見上げるほど巨大な異形の影を見た。それに真正面から対峙する、猛々しい赤毛のたてがみを揺らす巨漢。周囲に焼け残る青い炎と青灰色の大狼。
彼等に守られるように立つ鮮やかに輝く唐草模様。
こちらを振り向くその瞳と一瞬出逢う。
その唇が囁いたように見えた。
一郎。
3
着いた先は競馬場だった。確かに電車を幾つも乗り継いで来るのはかなりのタイムロスだ。
「ああ俺が二人を乗せて飛べたらなぁ。」
悔しがる三世に、百目は手段は何でもいいんだモンと返した。
変な格好をした三人の子供が入口の広場を早足で通って行くのを、新聞や手帳を持った客達が不思議そうに見送っている。
三世は初めて来る場所に興味津々なようだ。競馬場は普段から想像していた通り、常連の雰囲気が漂う男女の一人客が大半だが、中には若い友達グループ、カップル、子連れの家族等もちらほらいて意外だった。
そして何より驚いたのはその広さと施設の多さだった。レースがない時はイベント会場としても使われているようだ。
スポンサーになっている飲料メーカーのキャンペーンなのか、コスチュームを着た数名の女性がスポーツドリンクを配っていた。
ちゃっかり受け取った一郎が、一緒に渡された『こまめな水分補給を!』と大きく書かれたチラシを眺めている。
「迷子になるなこれ。」
「はぐれるなよメフィスト。」
「俺は悪魔くんを心配してんだ。しかし競馬場か。うまい所を見付けたよな。」
欲望と歓喜と絶望が際限なく発散され、人間の生気エネルギーを欲しいだけ貪ることができる。
「メフィストもこういう場所に惹かれるのか?」
「美味しそうな料理が並んだビュッフェに来たような感じだ。でも食べたいかどうかはまた別。」
とてもわかり易い回答に一郎は成る程と頷いた。
「俺は半分人間だから、他の悪魔とは少し感覚が違うかもしれないけどな。」
会話をしたりメモを取ったりして客が囲むパドックを、次のレースで走る馬が厩務員に手綱を引かれてをゆっくり歩いていた。テレビでよく見るやつだ、と感心したのも束の間、三世は急に慌て出した。
「まずいよ悪魔くん、馬が歩いてる。」
「どういう事だ?」
「次のレースが近いんだよ!多く見積もってもあと三十分!」
つまり、三十分もしない内に、爆発的に増加した生気エネルギーが魔獣に供給されると云う事だ。
「百目、胃袋はどこだ。」
「もう見えてるモン。」
百目は空を指差した。見上げると妙な物が浮いていた。
「お腹の中を通ってきたらここに出たんだモン。」
「ちょっと待て、今なんか変な事言わなかったか?」
百目はキョトンとして三世を見上げた。
「ボク、目を一個出して、魔獣のお腹通ってきたんだモン。暗くてグニャグニャしてて大冒険だったモン!」
「ええ…」
「ゆっくり調べてる暇なんかないんだモン。お父さん悪魔くんがいっぱいお守り付けてくれたモン!」
ほっぺを膨らませる百目に三世は苦笑いをした。
「伯父さん…まじかよ…」
「妥当な判断だ。しかし物体が通れたという事実に驚愕する。」
「がんばったモン!」
「しかしあんなでっかい物があんなわかりやすく…よく誰も騒がなかったな。」
「みんなには見えないモン。」
魔物は人間には見えないのが普通だ。チャームを持っている百目は別だが。
物体に近付くにつれ、浮いている場所が特定されてくる。
「ちょっと待てあそこは…」
本馬場の真上だった。
「どうすんだよ。あんなところで戦えないぞ。」
「メフィスト、あそこまで僕達を連れて行け。」
一郎は付近で一番高い、白い建物を指差した。
本馬場には幾つか観客席がある。
ゴールに至る直線ライン沿いに通常二〜三箇所観覧施設は建てられ、それぞれ、屋根のない雛壇の観客席、建物内にモニター等の設備が整えられた有料席、馬主等が利用するVIPルームがある。
この競馬場では三箇所用意されており、ゴール正面の観覧施設の規模が最も大きく建てられていた。
三世はシルクハットの縁を指で抓み、屋上を見上げる。
「二人は抱えて飛べないから一人ずつだ。」
「ボクは行かないモン。やらなきゃいけない事があるんだモン。」
思い詰めた様子の百目に二人は、顔を見合わせた。
百目は二人を見上げると、両手をギュッと握りしめ念を押した。
「魔獣のお腹はやっつけたらダメだモン、捕まえるんだモン。忘れないで欲しいモン。」
「何でだ?」
「魔獣が死んじゃうからダメだって、お父さん悪魔くんが言ってたモン。」
「伯父さん…」
一郎は小さく舌打ちした。ただの憐れみか?それとも何かあるのか。また情報が足りない。
三世は頷いた。
「分かった。百目も頑張れよ。」
三世は一郎を抱えると、フワリと飛んだ。
施設の屋上に上っていく二人を見送ると、百目は一度頷き何か決意を固め、来た道を引き返し走り出した。
屋上は未だ夏の気配が残る強い日射しで照り返していた。下を見下ろすと、レースに向けて観客が席を次々に埋めている。
一郎は三世に降ろされるとすぐ、足元に魔法陣を書き始めた。三世はシルクハットを脱ぐと胸に当て、ポテスターテ・ディアボリを受けた。
二人は上空の妙な物に目を向ける。三世はシルクハットを被り直しながらボソリと呟いた。
「想像してたのとなんか違うな…」
一郎は黙って頷いた。
二人は誰もがよく知るあの形の胃がポヨンと浮いているところを想像していた。ポヨンとしているのは同じだが、直径二メートルはありそうなそれは丸い形をしており、全体にマカロニのような管が生えていた。色だけは健康的なピンク色で認識合致だ。
「あの管からエネルギーを吸い取ってるんだろうな。」
「そう見ていいだろう。本体と繋がっているのは内蔵の内側だと考えられる。メフィスト、派手には戦えないぞ。」
「分かってるけど、さてどうしたもんかな。」
できれば観客達に気付かれないように終わらせたかった。三世が関与することで胃袋は一般人にも見えるようになるし、得体の知れない何者かが空中で戦っていたら大変な騒ぎになる。人間が空を飛んでいるということだけでもまず有り得ないのだから。
魔力の加減も必要だ。もし観客が痺れたり凍らさせれたりしようものなら警察沙汰になる。
「メフィストは魔力操作のセンスがいい。魔力の加減については信頼している。観客に影響が及ばない程度の魔力でどれほど通用するのかそれを確かめたい。」
「じゃあ早速。」
飛ぼうとするのを一郎は引き止めた。なんだよと振り返る三世に一郎は続ける。
「魔力を使う前に物理が通るかも確認したい。」
一郎は魔獣の胃袋を真っ直ぐ指差す。
「メフィスト、『ハットノコギリ』だ…!」
「なんか聞き覚えがあるぞその感じ。」
やめろと抗議すると、三世は屋上を離れた。
三世は地上の様子を確認した。屋外の観覧席が埋まっている。新聞にペンで書き込みをする人、幾つもの馬券を確認する人、一緒に来た人と予想を披露し合う人、子供を膝で遊ばせる人。誰一人として上空に意識を向ける人などいなかった。
彼らを餌食になどさせない。
誰も知らないところで、普通の毎日を繋ぐためのバグ回収が出来ればいい。いつの間にか夜が来てまた明日が来る、そんな当たり前を当たり前に出来ればそれでいい。
そうだよな、伯父さん。
三世は目の前の胃袋を見据えた。
表面に血管が浮き出て脈動している。今もエネルギーを集めているのか、突き出た管が伸縮していた。
「見れば見るほど気持ち悪いな。『ハットノコギリ』!」
三世はシルクハットに手首で回転を加え胃袋に投げつけた。高速で回転するブリムが胃袋に当たり、大きく裂けたところがベロンと垂れた。
中からドロっとした体液が流れ出る。
「ヤベ」
三世は慌てて体液と傷口を凍らせた。重みで落ちてしまわないないかとヒヤヒヤしたが、不思議な事に高度は落ちない。体力がある内は安定して浮遊していられるのかも知れない。
一郎を振り向くと、やはりなといった顔で腕を組んでいた。
分かってたんならやらせんなよ。
「傷付けるのはダメだ。」
胃酸を空から降らせるわけにはいかない。
そもそもこいつを移動させることはできないのだろうか。そうすれば随分と戦いやすくなる。
三世はステッキを構えると周囲の空気を凝縮し球体にして、野球の要領でステッキで打った。
球は胃袋に触れた瞬間、凝縮した空気が破裂し超局所の突風に変化した。風に押された胃袋は僅かに場所を移動した。
「うーん、動きはするがこれじゃ時間がかかり過ぎる。」
とにかく時間がないのだ。一発で仕留める方法を何か考えなくてはならない。
胃袋を凍らせたところから蒸気が立った。氷が蒸発しているのだ。それだけではない。傷口が見る間に塞がっていく。恐らく観覧席に集まった観客達のエネルギーが高まってきていて、それに呼応して活動が活発化して来たのだろう。
「こっちも再生するのかよ!…てことは待てよ。」
本体と同じ反応をするという事は、巨体化する可能性もあるという事ではないのか。
よくよく考えれば、まさかこの大きさで人間に侵入したとは考えに難い。ここまで成長したとみるのが自然だ。
「そりゃそうだよな、体がでかくなりゃ胃もでかくなるわ普通に。」
三世はどうする、と慌て、電撃を撃とうとして引っ込めた。
出力は加減できても音で注目を集めてしまう。
三世は歯噛みした。使える魔術が限られる。
「百目、やっつけるどころじゃないよ。こんなやり難い状況は初めてだ。」
これまでは足りない魔力をどう補って最大限生かせるかばかりを考えて来た。まさか、魔力を制限して戦う日が来るなどと思いもしなかった。
使えるとしたら炎と氷結。
管を全て焼いてエネルギーを吸い込めないようにするか。
三世はステッキを持ち直した。どうせすぐに回復してしまうだろうが、兎に角なんでもやってみるしかない。
炎ならば全力で魔力を放出しても問題ない。地上までは届くわけもないし、普通に焼くだけならば中心までは火が通ることはない。高度が下がるくらいのことはあっても落ちることはないだろう。たぶん。
三世はバーナーでホヤの表面をさっと炙るイメージを固める。ステッキを振ると遠慮なく『火炎放射』を放った。胃袋を包むようにその表面を焼いていく。
香ばしい匂いと共に煙が風で流されると、黒く焦げた表面に焼けて萎びた管がぶら下がっていた。
よし、と三世が一郎を振り返ったその時、固く焦げた表面に亀裂が走った。注視していると、焦げた表面の下から新しい肉がポコポコと盛り上がっていく。それがみるみる伸びていくと見覚えのある管の形になり、その先端に穴が通じて、やれやれと言うようにシュッと空気を吐いた。
胃袋は穴が空いてもすぐ修復するのは知っているが。
「嫌な奴だなお前!」
大体これは塞いだ穴をわざわざ空けてるわけだし。
残るは『絶対零度』。先程一部分だけ凍らせた時、他の魔力と比較すると再生に時間がかかっていたようだった。もしかしたら一番有効な手かも知れない。
三世は頷くと、取り敢えず一旦手応えを報告して作戦を練らなければ、と建物へ引き返した。
使う魔力は決まったとして、どう使うか。回収はどうするのか。
三世は気付いた観客は居ないか地上を見下ろした。
馬が騎手を乗せてコースに入り、直線ラインでそれぞれ走り始めていた。
返し馬だ。
もう間もなくレースが始まる。
百目は研究所の魔門を飛び出すと、転がるように階段を下りて歩道を走り出した。
道路を挟んだ反対側の歩道を行く女子高生の二人が、百目の姿を見て可愛いーと声を上げた。幼児が着ぐるみを着ていると思ったのだろう。
百目は埋れ木家を目指していた。家で仕事をしているはずのメフィスト二世に助けを求めるためだ。
真吾が何も言わなくても、百目は、真吾が二世を頼りたくない理由を分かっていた。人間界で人間の家族を持ち、仕事を持ち、人間として生きて行くことを決断した二世に、人間としての生活を最優先にして欲しいと思っているのだ。
きっと悪魔くんに怒られるだろう。
それでもいいモン、と百目は胸の内で呟いた。
もう悪魔くんは限界なんだモン。
玄関のドアを引っ張ってみると、不用心にも鍵がかかっていなかった。
「お邪魔しますだモン!」
防犯についても注意しなきゃと思いながら、百目はリビングを覗いた。
そこに二世の姿はなかった。
庭に面した廊下に出ると、地下室の蓋を開けた。
「メフィスト二世!」
突然頭上から大声で名前を呼ばれて、メフィスト二世は、栄養ドリンク漬けの心臓が一瞬止まった。
「…なんだぁ?」
「メフィスト二世!」
「百目?」
何かあったのかなと、取り敢えず書きかけのプログラムを保存する。顔を擦りイスから立ち上がると、フラフラしながら梯子を登っていく。
蓋から顔を出すと、目の前に百目が正座をして待っていた。
「どうした?」
顔に力を入れてずっと我慢をしていた百目は、二世の顔を見ると安心して、ポロポロと大粒の涙を落とし始めた。
ギョッとする二世に抱きつく。
「悪魔くんを助けて欲しいモン!」
二世の顔色がスッと変わった。
4
魔獣のお腹の中を見てきて欲しい。
真吾が突然そう百目の子供に言い出し、マルクは聞き間違いかと思った。百目の目玉を魔獣の体内に送り、胃袋が人間界の何処にあるかを探る、と言うのだ。
魔界に居ながらにして人間の生気エネルギーを補給する手段として、エネルギーの吸収器官を体から分離し、それだけ人間界に侵入する。今のところそれしか考え付かないんだ、と真吾は顎に拳を当て、他の案を探りながら言った。
「百目は飛ばした目玉から視覚情報を脳へ送ることができる。それと同じで、胃袋から得た栄養を体内に送ることが出来るのではないかと思ったんだ。突拍子もないけど、確認する価値はあると思う。」
「しかしこのデカいやつの胃袋だぞ?全く想像できない。」
真吾はレアルの言葉に頷く。
「細胞は増殖する。だから丸ごとでなくていいんだ。小さな細胞の固まりを体から分離して沢山放った。きっと魔獣は始めから人間界を狙っていたわけじゃないと思う。きっと分離したその内の一つが幸運にも人間界に辿り着いたのだろう。」
「なんでそんな事を。」
真吾はレアルとマルクを見て、少し考える。そして思い切ったように答えた。
「飢えていたんだ。」
単純な事だ。飢えて限界だった。だから自分から探しに行った。
「飼い主は餌を与えていなかったってことか。そのペットに食われてりゃ世話ねぇな。」
レアルは、その飼い主がいるであろう方に目を向けると、へっと嗤った。マルクも黙って頷く。同情の余地はない。
沢山放った細胞の欠片はどれだけ生き延びただろう。食べられそうな物を見付けても、ほんのひと欠片の細胞では、きっと消化できるものは僅かだったに違いない。捕食される側になった細胞もあっただろう。まともな機能が備わるまでに成長できる可能性など皆無だ。
もし人間界に辿り着けていなかったら、魔獣は今頃息絶えていただろう。
「だからといって俺は容赦はしねぇよ。」
マルクはハッとしてレアルを見た。
マルクはレアルの言葉で、今自分が魔獣に同情しかけていた事に気付いた。
真吾はレアルに頷いた。
「この予想が正しいと仮定して、胃袋の在り処だけど、残念ながら人間界のどこにあるのか知る術がない…いや、短時間で見つけ出す方法は一つしかない。本体と胃袋が繋がっているのだとしたら、生気エネルギーを道標にして辿っていけるはずだ。ただ、物体が通り抜けられるのかはやってみないと分からないんだ。」
真吾は申し訳なさそうに百目に向き直る。
「すごく危険だし、もしかしたら無駄骨になってしまうかも知れない。」
「構わないモン!」
やる気満々で答える百目に真吾はありがとうと言った。
「消化されてしまうことはないはずだけど、念の為に何重にも保護しておこうね。迷わず戻れるように『糸』を結んでおくから、危険だと思ったらすぐに引き返すんだ。無理しちゃダメだよ。」
頷く百目に、悪魔くんは安心させるように優しく微笑んだ。
「消化されないって?」
「吐き出された魔物達の身体の損傷は、胃酸によるものはほとんど見られなかったんだ。吐き出された後も、洗浄できていない状態でも胃酸による腐食は進んでいなかった。消化能力は低いと考えていいと思う。」
マルクは驚いた。真吾が吐き出された魔物達に接触した時間はごく束の間のはずだった。
魔術を操りながら些細な情報も収集し、状況を整理して対策を模索し、ここまで結論を出したのか、この短時間で。
なんて人だ。
真吾はまず魔獣を大地の鎖で封じた。前に縛った時よりも大きく太い鎖だった。
「魔獣は回復を必要としていない時も常に微量のエネルギーを補給し続けている状態のようだけど、百目が迷わず辿るには弱い。」
つまり、魔獣に大量のエネルギーを補給するよう仕向ける必要があるということだ。
レアルはフンと鼻を鳴らす。
「こいつが目を覚ましたら嫌でもそういう状況になる。演出は不要だ。」
「始めるよ、百目。」
百目は目玉を一つ差し出した。真吾は大事そうに受け取ると掌で包み、目を閉じた。
念入りに魔術を重ね付けしていく。仄かな光が膜となって幾重にも目玉を包んだ。
目玉を通じて何かを感じているのか、自分の目玉を見守りながら百目はうっとりとしていた。
まるで祈りのようだ。
その静かな光景は束の間ここが戦場だということを忘れさせた。
巨大な魔術、叡智、愚かなまでの優しさ、聖性。
これが悪魔くんというものか。
レアルが言ったように、意識を取り戻した魔獣は束縛されていることに気付くと、すぐに全力で抵抗し暴れ出した。
真吾は、体力の消耗が目に見えて表れてきていた。攻撃は辛うじて避けきれてはいるが、反応が遅くなっている。
後方支援に徹していたレアルは、マルクと共に先頭に立った。この先どのくらい戦いが長引くのか分からない今、少しでも真吾の体力を温存しなければならない。
百目の目玉を魔獣の体内に送ってから半刻が経つ。マルクは安全な岩壁の窪みで目玉を操る百目の背中を見上げた。
目玉が戻って来ないのを見ると、狙い通り、居処を辿れているのだろう。魔獣の口の端に延びる白く細い『糸』は千切れていない。目玉に異変は起こっていない。
レアルが急所を的確に鋭い牙と爪で攻撃しながら、魔獣が投げ飛ばして散らばった岩を飛び移っていく。レアルが攻撃した所や足場にした岩には、青白い炎が燃えて残った。
鎖が邪魔で思うように反撃できない魔獣は癇癪を起こして無茶苦茶に体をよじった。鎖は耐えているが、地面に大きくヒビが入った。
飛んでくる岩の破片を避けきれず、真吾は体中に細かい傷を増やしていた。マルクは真吾を抱えて場から距離を取る。真吾を下ろすと、自分の背後へと押しやった。
「レアルが力を使う。範囲が広いから下がっていろ。」
真吾は指示に従うと、頬の傷の血を手の甲で拭った。
レアルはヒラリと魔獣の眼前に降り立つ。
長い雄叫びと共に前脚を高く上げた。全身に波打つ炎がボウと音を立てて大きくなる。 レアルは勢いをつけて地面に前脚を振り下ろした。青い炎が上がり、そこを起点としてそこかしこに残した炎へと連鎖していく。走る炎の帯が魔獣の体に残した炎に到達すると、それは一気に爆発した。
真吾は咄嗟にマントで爆風から身を守った。そのマントが一瞬凍り、一呼吸置いて解けた。
真吾を庇ったマルクのたてがみも凍り、両手でかき回すと氷の欠片が落ちた。
「冷たい炎。」
レアルを見ると、魔獣を真っ直ぐ見据えて立つ足下からその向こうの地面、岩壁が凍り付いていた。燃え残る炎の中で、魔獣の体は霜が降り、仰け反ったまま固まっている。
「氷漬けにするのではなく、対象そのものを凍らせるのか。」
真吾は咄嗟に百目の目玉を心配した。
「悪魔くん!見付けたモン!」
百目が後方の岩壁から大声で叫んだ。
周囲にどよめきが起こる。
振り返る真吾に百目は大きく手を振り、躊躇いなく窪みからジャンプした。下にいた魔物達が慌てて手を差し伸べる。
悪魔達に受け止めてもらい、怒られるのをエヘヘと誤魔化して笑うと、真吾に向かって走りながら報告する。
「お馬さんがレースしてたモン!」
「競馬場…!」
真吾は飛び込んで来た百目を受け止める。
「ヒャッ!マント冷たいモン!」
「競馬場の名前はわかるかい?」
百目はうーんと念じ目玉を操作して情報を集める。やがてぱっと目を開き、競馬場の名前を真吾に教えた。
「ありがとう、百目。助かったよ。」
百目をギュッと抱き締める。何より無事でよかった。今更ながら震えが来る。
真吾は二人を取り囲む魔物達に指示を始めた。
「これから、ここから競馬場までの魔門を開く。そして『悪魔くん』に協力を仰ぐ。」
真吾が引退した事実を知らない悪魔がえっと声を上げ、事情を知る仲間が「後で説明するから」「いいから黙って聞いてろ」と囁き合った。
「僕らはこれから魔物界と人間界の両方で同時に魔獣を抑えることになる。魔獣の胃袋は競馬場、人間の生気エネルギーが濃厚に集まる場所にある。胃袋の活動を止めて魔界へ送り帰されれば魔獣を止めることが可能になる。」
おお…と声が上がり、悪魔達が口々にこれからの作戦の提案を出していく。
真吾は百目の両肩に手を乗せてしゃがんだ。
「疲れてるところゴメンね、百目。これからすぐ研究所に行って二人に協力を頼んで欲しい。」
「分かったモン!」
「競馬場へは、地上の移動は時間がかかるから、ちょっと面倒だけど魔門を経由して行くんだ。一郎はここを知っておく必要があるしね。道案内を頼んだよ。いいかい、胃袋は倒してはダメだ。必ず生きて魔界へ送り帰すんだと伝えて欲しい。」
百目はメフィスト二世は呼ばないのかと言いかけて言葉を呑み込んだ。きっと何度訊いても真吾は首を横に振るだろう。
真吾は戦いの影響の及ばない場所を探して歩いた。その後を悪魔達がぞろぞろと付いて行く。少し離れた場所に適所を見付けると魔門を開いた。周囲からおお…という感嘆の声が上がった。
百目は目玉を操作すると魔門を通して回収した。
真吾は体に戻った目玉の状態をすぐに確認し、少し充血してはいるものの、何の怪我もしていない事を確認して、ほうっと長い息を吐いた。
「行ってくるモン!」
百目はすぐに、見えない学校へ通じた魔門へ向かって走り出した。見送る真吾に、悪魔の内の一人が手を挙げる。
「その…今の悪魔くんは、すぐに胃袋をやっつけられるのか?」
「僕はそう信じている。彼は…彼らは実力者だよ。」
「彼ら?」
隣の悪魔が「メフィストの孫だよ」と教えた。
メフィスト。
その名前にヒエッと誰かが悲鳴を上げた。
「そういえばアンタの第一使徒はメフィスト二世だったな。」
困ったように笑って頷く真吾に、レアルはそれきり口を閉じた。
真吾は思い切ったように顔を上げると、自分を囲む悪魔達を見回した。
「これからの戦い方について提案がある。今魔獣を縛っている鎖を維持し、消耗を最小限に抑えようと思うんだ。」
レアルは即座に反論した。
「おい待てよ、それって胃袋が戻って来るまで、アンタがずっと魔術を支えるってことだろ?無茶だろ。死ぬ気か。」
「でもそうすれば戦わずに済むんだ。悪魔くんを待とう。怪我人をこれ以上増やす必要はないよ。」
「今更何言っていやがる。」
「これまでとは状況が変わったんだ。」
「それには私も賛同しかねる。」
マルクがレアルに同調する。
「いいか、勘違いするな。俺達はアンタに協力を仰いだ。だがアンタひとりで解決しろなんて頼んでない。アンタに犠牲になれなんて言ってない。これは俺達の問題だ。アンタは巻き込まれたんだ。でしゃばるなよ。」
「そんな言い方する奴があるか。−−−だがその通りだよ悪魔くん、あなたは背負い過ぎる。犠牲を恐れ過ぎる。私達はもう覚悟しているのだ。私達が戦う、あなたの指揮で。」
真吾は二人を見比べ、両拳を固く握った。
5
三世が急いで屋上に戻ると、一郎は胡座をかいて、先程もらったチラシにマジックで魔法陣を書いていた。
「悪魔くんまずい!もうすぐファンファーレが鳴る!」
「それなら活動の停止と送還は同時に行う。」
「悪魔くん、どうやら有効なのは『絶対零度』だ。だけどそれも長くは保たない。動きを止めた短時間で魔界に送り帰すには…しかも空中でどうやって帰すか…何か案はあるか?」
「分かっている。全て見ていた。もう答えは出ている。」
一郎はチラシをペラっと三世の前に翳す。
「返還の魔法陣…だな。」
「この紙を大きくすることはできるか?」
三世はできるけど…と答えてハッとした。だがすぐに首を横に振る。
「凍らせて、お前を連れて飛んで、魔法陣を発動させて…今の感じだとそれまでには回復するぞ。間に合わない。」
ふむ、と一郎は応えて立ち上がる。
「肉の壁は厚い。中の冷気は長く保たれる。」
その時、屋上に設置されたスピーカーから大音量で管楽器による演奏が流れ、辺り一帯に響き渡った。
ファンファーレだ。
「行け、メフィスト。」
「その前に紙を大きくしないと!」
「いいから行け、時間がない。このタイミングでエネルギーを大量に供給させるわけには行かない。」
一郎が胃袋を指差す。見ると、タイミングの悪い事に胃袋がムクムクと胃袋が増幅を始めていた。
魔界で見た光景が目の前に蘇る。
伯父さん…!
「取り敢えず、止める。」
三世は全速力で胃袋に近付いた。
魔力を幾筋にも分割し、管を通して胃袋の中に送り込んでいく。活動が活発化した胃袋はどんどん三世の魔力を飲み込んでいく。
タイヤに空気を入れる感覚で圧力をかけると、胃袋の表面がパンと張った。
本馬場では最後の馬がゲートに入った。
ゲートが一斉に開く。
飛び出す馬達。
出遅れた馬に対し観客席でどよめきが起こった。
「魔力、『絶対零度』!」
管を通して送り続ける魔力の一つに術を掛けた。胃袋をパンパンに満たした魔力にたちまち伝播し、胃袋は内側から一瞬で氷結した。全ての管から氷の塊が突き出てて、脈動が止また。
それを見るやいなや、三世は屋上に引き返す。
「急ぐぞ悪魔くん!」
三世の背後で、胃袋の管から氷が散るのを見た一郎は両腕を伸ばした。
「このまま行くぞ、連れて行け。」
「紙は!」
「紙を被せている余裕なんかない。策はある。」
三世は信じるからな、と怒りながら一郎の両脇を支え飛び立った。
胃袋の溶解が加速していく。
本体が強化されているのだろう、思っていたよりも回復が早くなっている。
「メフィスト、胃袋の上で紙を大きくしろ。」
「お前を抱えては魔力を使えない。」
一郎は事も無げに言った。
「僕を上に放り投げろ。」
三世は一瞬意味が把握できなかった。
「…は?」
「その間に紙を大きくしろ。」
一郎は三世にチラシを持たせた。
「無茶だ、お前落ちるぞ!」
「メフィストが回収する。」
「そんな簡単に行くか!」
「メフィストが回収する。」
何処から来る自信なのか、言い切る一郎に三世は口を閉じた。
失敗すれば一郎は死ぬ。
三世は歯を食いしばった。
地響きの様な馬の蹄の音。
馬が最後の直線ラインに入ったのだろう。観客の声援が湧き上がった。今がピークだ。
三世はぐっと目の前の胃袋を睨んだ。
蒸気を上げる胃袋。管が膨らむ。
失敗はしない。絶対に。絶対にだ。
「悪魔くん、詠唱間違えるなよ。」
三世は一郎の両脇を支える両腕に力を溜めると、思いっ切り上空へ放り投げた。
すかさず風魔力で竜巻を起こし、更に高くへと一郎を押し上げた。
一郎は最高到達点で、三世が胃袋の上にチラシを投げ、紙を巨大化させるのを確認した。
よし。
本馬場では鐘が高らかに鳴った。
体が落ちる速度が加速するのを感じながら、詠唱を始めた。
三世は一郎を受け止めようと、もう一度風魔力を放とうとした、が、間に合わない。
「悪魔くん!」
胃袋に覆い被さった魔法陣が黄金の光を放った。
胃袋が抵抗してモゾモゾと動くが、魔法陣は見る間に胃袋を呑み込んでいく。
三世は落ちる一郎の真下に入ると腹に力を込めた。
「!」
一郎の胴体を胸で受け止め、三世は最後の魔力を振り絞って必死で重力に抵抗し、十数メートル落ちて漸く止まった。
二人は無言で胃袋が完全に消えるのを見届けると、役目を終えた紙が元のチラシに戻り落ちて行くのを気にもせず、フラフラと屋上へ戻った。
頭にしがみついていた一郎を下ろすと、三世はそのまま大の字になった。
レース結果が読み上げられている。
終わった。
「ああ、この為かクソ親父。」
間違いなくピンポイントで胃袋を本体の元へ戻すために魔門を使わせ、一郎に現場を見せた。
知っている場所なら座標を指定できる。
いつもそうだ。あの人のやることには幾重にも意味が隠されている。
一郎は、寝っ転がったまま動かない三世の隣に自分も寝ると、真っ青な空を眺めた。
何事もなかったかのような空だ。
「伯父さん達、大丈夫かな。」
「多分な。」
「もうこっから降りる魔力も残ってねぇよ。」
「それは困る。」
6
誰かに呼ばれたかのように振り向いた真吾に、マルクはその目線の先に何かあるのかと探した。
魔物達が集まるその向こうに、人間界へ通じる魔門がある、それだけだった。
この機に乗じて人間界に侵入しようとする輩もいるかも知れないのに無防備ではないのか。何か対策がしてあるのか。
こちらに向き直った真吾の顔を見て、マルクはハッとした。
疲れた頬に笑みが浮かんでいた。目に光が蘇った。
目が合うと、真吾はマルクを真っ直ぐ見返した。
「もう少しだよ。」
そう言うと、真吾は疲労や体の痛みなど忘れたかのように背筋を伸ばした。
この束の間に何があったのだろうとマルクは真吾を見詰めた。
交戦しているレアルが、声を上げた。
「鎖が突破されるぞ!悪魔くん後ろへ下がれ!」
レアルは高くジャンプすると一回転し、太い尾を大きく払った。尾から放たれた炎が魔獣の顔面を焼く。
鎖が飛び散り魔獣は近くの魔物を掴んでレアルに向けて投げ飛ばした。レアルは巧みに避け、魔獣の喉を狙い地面を蹴った。
魔物を受け止めようと咄嗟に杖を振り上げる真吾の腕を掴み、マルクが前に出てガッチリ抱え込んで受け止めた。
降ろされた魔物は半泣きでその場ににへたり込んだ。マルクはその背中をポンポンと叩いた。
「魔獣のリーチ内に入るなと言っただろう。食われるぞ。」
レアルは魔獣の喉元に牙を立てた。魔獣は苦しみの声を上げ、レアルの尻尾を掴み引き剥がした。壁に打ち付けられ地面に落ちるが、すぐに立ち上がる。
魔獣はその場で高く前脚を上げると、地面に叩き付けた。
谷が大きく揺れ、岩壁が崩れた。
後方を守っていた悪魔達が悲鳴を上げ、真吾は咄嗟に振り返る。自身に落ちてくる岩に反応が遅れた。
「悪魔くん!」
マルクが必死に手を伸ばした時だった。
後方奥から黒い一閃が魔物達の間を走った。
目の前から真吾が消えた。
マルクは落ちた岩の破片に咄嗟に両腕で頭を庇う。そして消えた真吾を探した。
その影は上空で真吾をマントに包んでいた。
魔獣に向けたステッキの青い宝石を煌めかせる。
「魔力『稲妻電撃』。」
魔獣の体を猛烈な電撃が貫いた。白目を剥いて崩れ落ちる魔獣が地響きになった。
影はゆっくり地上に降りると、真吾を横抱きにして頬の傷をそっとなぞった。
「メフィスト二世。」
「酷いな悪魔くん、喚んでくれよ。」
真吾は静かに怒る二世の目を見上げ、諦めたように瞼を伏せて微笑んだ。
レアルが走ってきて真吾の無事を確認すると、彼をマントの内に抱いて離そうとしないメフィスト二世を睨み付けた。
「アンタ第一使徒だったよな?今まで何してた。」
おいやめろとマルクが間に入るのを煩そうにして、二世に食って掛かるのを止めない。
「人間界で暮らして平和ボケしたか?」
「違うんだレアル、僕が喚ばなかったんだ。僕が…」
「悪魔くん!」
悪魔達の足元を抜け出て、百目が真吾に縋り付いた。
「ごめんだモン!怒られてもいいモン!」
もう我慢することをやめてわんわん泣く百目を優しく撫でると、真吾は首を横に振った。
「ありがとう百目。心配かけてごめんよ。」
真吾は二世の腕から離れた。
真吾を支えるように立つ二世を見て、魔物達に動揺の波が立った。メフィストの名を耳にするだけで震える悪魔も少なくない。
「レアル、彼は悪くない。全ては僕の我儘のせいなんだ。」
「第一使徒として情けないって自分でも思うよ。でも今から全力で協力する。」
穏やかにレアルの怒りを受け止めると、メフィストはにっこり笑った。その目を山のような魔獣に向ける。
「随分育ったものだね。」
「あとは一郎を待つだけなんだ。」
「悪魔くん、慣れない攻撃魔法でだいぶ消耗しただろう。下手に手加減なんかしなけりゃいいのに。」
慣れない?手加減?と周囲がざわつく。
「手加減なんて…そんな余裕ないよ…」
魔獣がうめき声を上げながら身を起こした。
集まっていた悪魔達がバラバラと後方に退避する。
メフィスト二世が飛び立とうとするのを真吾がマントを引いて止めた。
振り返る二世に訴える。
「メフィスト二世、殺してしまってはダメだ。」
二世の目がスッと凄味を帯びた。
「どうしてだい、悪魔くん。」
「一郎が胃袋を魔界へ戻す。そうすれば魔獣は止まる。」
「甘いんだよ悪魔くんは。どれだけ犠牲者が出たと思ってるんだ?悪魔達にだけじゃない、人間にも被害は及んでいるんだぞ。どうせ魔獣にも同情すべき点があるから、とか言うんだろう。」
真吾は二世の言葉にぐっと詰まるが、それでもとマントを握る手に力を込めた。
二世はふっと溜め息を吐くと、真吾の手を優しく解く。
「分かったよ。」
魔獣の雄叫びで谷が振動した。メフィストは空中へと飛び上がった。
「要は、動けなくすりゃいいんだろう?」
メフィストはシルクハットを取ると魔獣へ向けて放った。
高速回転するシルクハットは地面スレスレを走り、魔獣の脚を次々に切断した。
叫び声とともに魔獣の体が地面に叩きつけられた。魔獣の血が見る間に池を作っていく。
「メフィスト二世!」
青い顔をして叫ぶ真吾に、レアルは返す。
「こっちには噛み砕かれた奴がいるんだぞ。」
そうだけど、と真吾は言い淀み、二世の元に駆けていく。
舌打ちをするレアルに、マルクは頷いた。
「全部を全部、抱え込むじゃねぇか悪魔くん。」
「守るべき物の範囲が私達とは違うんだろう。きっと悪魔くんとは本来戦いの場に出るような存在ではないのだ。」
「メフィストの坊っちゃん、後から来たくせに大活躍だな。第一使徒だか何だか知らんが悪魔くんに馴れ馴れしくしやがって。あいつをずっと守っていたのは俺達だぞ。」
ポロッと漏れたレアルの本音にマルクは、思わず笑った。
「確かに、気に食わないな。」
真吾は降りてきた二世に駆け寄った。襟を掴むと引き寄せ、周りに聞こえないように声を潜めた。
「誰にも言ってないんだ。百目にも。」
「何かあるのか?」
「魔獣と呼んでいるけど、彼は合成獣だ。動物と悪魔と人間。少なくとも五体以上。彼の飼い主である悪魔が実験して作ったのだと思う。」
人間界で人をさらい、気に入った動物をさらい、悪魔と合体させた。
恐らく興味本位で。
成る程、言われてみれば確かに、子供が粘土で人形を作ったような、バランスの悪い姿をしている。背中に生えている翼なんかは、ただの飾りだ。
魔獣の脚の切断面がボコボコと肉を盛り上げ始めた。苦しそうに荒く息をする魔獣の口から涎が流れた。
「もしかしてと思うが悪魔くん。」
真吾は残念そうに目を伏せた。
「もう元の状態に戻す事はできない。ただ、これから先穏やかに生きる事は出来るはずだ。」
何度死を味わっただろう。何度望まぬ再生を繰り返しただろう。痛くないはずがない。苦しくないはずがない。それでも今も彼は必死に生きようとしている。
「彼はどうしようもなくお腹が空いて、苛立っていて、不安で、僕らがとても怖いんだ。」
真吾は二世の肩に額を埋める。
「彼は『食べられないように』作られている。飼えば食事を与えなければならない。きっと悪魔は毎食食べ物を用意するのが面倒だと思ったのだろう。生気エネルギーを吸収することで食事の代わりとしようとした。館に住み着いている下級悪魔からでも勝手に吸い取ればいいと。そして放置した。でも、彼の体はお腹が空いたら食べるものだと覚えている。だからどう飢えを満たしたらいいのか分からない。飢えも限界に来た時にやっと方法を見付けたんだ。生きる為の方法だった。それだけだった筈なのに、些細な幸運が逆に、彼自身にとって不利に作用してしまった。超回復さえ無ければ、今頃は安全に保護され、こんな戦いになることはなかったんだ。彼は超回復で巨大化し、力を得て、凶暴化した。始めはもっと小さかったんだよ。百目が屋敷の檻で見付けた、彼を縛っていたのだろう枷は、僕等に付ける位の細い枷だった。」
二世は真吾の震える細い肩を両手で包む。
「枷は彼の心を砕いた。飢えの恐怖は彼を狂わせた。憎悪は自分以外の全てに向けられた。彼は絶望したんだ。本当なら助けて貰うべき者なんだ。本当に救いを必要としているのは…」
「何故誰にも話さなかった?」
「話せるわけないよ。仲間が傷付られ、自らも危険に晒されて、必死に抵抗している人達を迷わせるような事など言えない。」
ひとりで全て呑み込んだまま終わらせようとしていたのか。
二世は真吾をそっと抱き寄せ、包み込む腕に力を込めた。
百目には感謝してもしきれない。
「分かったよ悪魔くん。あと一度だ。あいつの動きを止めて一郎くんを待とう。」
真吾は小さく頷いた。
メフィストは再び宙に飛んだ。それを見上げ、真吾は魔獣の回復に備える魔物達に駆け寄る。
「全員退避してください。僕の後ろに下がって。」
駆け寄るマルクとレアルにも真吾は言った。
「君たちも下がって。僕が防ぐ。」
「またそんな事を…魔獣は」
真吾は首を横に振り、レアルの言葉を遮る。
「メフィスト二世の魔力から守る。」
「そんなにやわじゃねぇ!」
「いいから指示に従おう。」
カッとしたレアルを脇に抱えると、マルクは真吾を見下ろす。レアルは下ろせとジタバタ暴れた。
「任せたぞ。」
真吾はゆっくり頷いた。
二世は、再生した脚を血の池に浸しゆっくり身を起こす魔獣を見下ろした。
殺さない程度の強力な魔力。
悪魔くんの使徒になってから、随分と技術を磨き上げてきた。悪魔くんの要求に答えるために必要だったからだ。絶妙な魔力の調整も今や思い通りだ。
昔から悪魔くんには弱い。
どうしても抗えきれない温かさってあるよな、と二世はステッキを構えた。
真吾は悪魔達が固唾を呑んで見守る中、静かに詠唱を始めた。真吾の目の前に魔法円が現れた。ひとつ、ふたつと数を増やしていく。
「…おい…幾つ出すんだよ。」
魔法円は全部で七つ。そのうち六つは谷に壁を作るように配置され、残った円を中心に光の線で結びついた。
「六芒星だ。」
マルクは、魔法陣を見上げて呟いた。
「綺麗だな…」
黄金に輝く六芒星は完成すると眩い光を放った。金細工の様な唐草紋様が、六芒星から視界一面に広がっていく。
あまりの美しさに誰もが言葉を失ってただ見上げていた。
光の粒が舞い落ちる。体に触れれば儚く消える。
杖を構えて動かない悪魔くんの、結界と同じ文様を刻んだ深緑のマントが揺らめく。
こんなにも美しい魔術があるのか。
メフィスト二世は結界が張られたのを確認すると、ステッキの宝石に念を込めた。
「魔力『絶対零度』!」
メフィストの杖から放たれた魔力は氷点下の暴風となって谷全体の空気を急速に冷却していった。水分子が一瞬で凍り、キラキラと風に舞う。
「だから先に言ってってば!」
「ダイヤモンドダストかよ!」
「綺麗だなぁー」
「寒いよー」
身を寄せ合う魔物達が口々に悲鳴を上げた。
真吾の結界の内にいても防ぎ切れない。
地面と岩壁を伝い触れるもの全てを凍らせながら魔力が魔獣に到達すると、そこから一気に体全体に広がった。なお勢いが衰えない冷風に晒され続けるその表面を、何層にも氷が重ねられていく。
だが、氷は魔獣の体に損傷を与えてはいなかった。
体温低下に耐えきれず、氷の内で魔獣の瞼がゆっくり落ちていく。魔獣はその場に蹲ると完全に頭を垂れた。
二世が術を止めると、谷は一面氷の世界となっていた。
ステッキを収めた二世を見て真吾が結界を解くと、背後からギャーッと言う叫び声が上がった。
「寒い寒い寒い凍る!むしろ痛い!」
「えーん結界すげーよー」
「みんなゴメンよ!」
真吾は魔獣の元へ駆け付けると、眠るその顔を見て安堵し、魔獣を包む氷を抱き締めた。
「きかん坊は眠らせるのが一番だ。」
凍傷になるぞ、と真吾を引き剥がすと、凍った睫毛の霜を払ってやる。
「ありがとう、メフィスト二世。」
マントの中に真吾を抱えると、二世は冷え切った真吾を自分の体温で温めた。
真吾を抱えたまま二世が立ち上がったその時、少し離れた場所で、空中に魔法陣が浮かび上がった。
送還魔法だ。
「悪魔くん…!」
魔法陣からゆっくりと巨大な肉の塊が現れた。半分凍った状態の胃袋はドスンと地面に落ちた。役目を終えた魔法陣がスッと消える。
マルクとレアルが百目を抱えて駆け寄って来た。目の前の胃袋の大きさと形状に唖然とする。
真吾が肉に触れると、ゆっくりと鼓動していた。
約束を守ってくれたのだ。
「一郎…」
真吾は胸がいっぱいになって呟いた。
「思ってたのと何か違うな。」
「でっか!こいつに散々苦しめられたんだな俺達は。」
直径二メートルは超えているだろうその肉の塊を見て二人は妙に嬉しそうだ。
「ボクが見付けた時より大きくなってるモン。」
何事かと三人の後から付いてきた魔物達もわらわらと胃袋を取り囲み、感心しながら好き放題に触り始めた。
「ちょっと温かい。」
「柔らかい。」
「この生えてるの何だろう。」
「あんま触るなお前ら。エネルギー吸い取られるぞ。」
途端にみんな胃袋から距離を取る。
「さて、これをどうやって体に戻す?」
「それなんだけど…」
真吾が説明しようとした時だった。
胃袋の表面が一部、ズルリと欠けて落ちた。
真吾は息を呑み、魔獣を振り返る。
魔獣は眠ったままだ。
更に別の場所がズルリと落ちた。
「メフィスト二世!」
二世はステッキを氷に打ち付けた。パリンと亀裂が入ると、氷は割れてガラガラと塊が落ちて行った。
真吾は魔獣の顔に触れた。
魔獣は穏やかに寝息を立てたまま目を覚まさない。
真吾は暫くそうしてじっと魔獣を見詰めると、やがてその鼻を抱いて頬を寄せた。
胃袋の崩壊が止まらない。
果物が腐って崩れるように、形を保てなくなった胃袋は力なく潰れた。
どよめく魔物達に、レアルはシッと静かにするよう促す。
「黙って見てろ。」
「今魔獣は死のうとしているんだ。」
マルクの言葉に皆静まり返った。
完全に崩れた胃袋が急速に干からびていく。魔獣の呼吸もゆっくりしたものに変わっていった。
真吾は子供を寝かしつけるように、魔獣の鼻先を優しく撫でた。
魔獣の呼吸が途切れ、最後に大きく溜め息を吐くと、そのまま静かになった。
真吾は暫くずっと魔獣を撫で続けていた。
7
魔獣の体は何度も回復を繰り返し、細胞がとっくに限界を超えていたにも関わらず、超回復を繰り返すことで無理矢理形を保っていた。人間の生気エネルギーの供給が絶たれた途端に細胞は一気に崩壊を始めたのだった。
何箇所にも焚かれた焚き火を囲んでやっと体を休めながら、魔物達はチラチラと背後に視線を投げた。
焚き火に照らされ、大きな影と小さな背中が揺れている。
真吾が魔獣の側から離れようとしないので、メフィスト二世と百目がずっと付き添っていた。
「悪魔くん、大丈夫かな。」
「優し過ぎるよなぁ。」
「びっくりしたもんなぁ。」
マルクとレアルは黙って立ち上がると、真吾の元へ向かう。
二人の足音に気付くと、真吾は伏せていた顔を上げた。
「二人とも、ありがとう。」
真っ先に出る言葉はそれか、と二人は溜め息を吐いた。
「静かな最期だったな。さっきまでの死闘が嘘のようだ。」
マルクの言葉に真吾は頷いた。
「こいつは俺達が責任を持って弔う。安心して休め。アンタ気力だけで意識保ってるだろ。」
真吾は再び頷くと魔獣を撫でた。
掠れた声で呟く。
「︙助けたかったんだ。」
四人は真吾の撫でる手を暫く見守った。
「眠りながら逝ったんだ。もうコイツは苦しくはない。」
レアルの言葉に、真吾の手が止まった。
その手にポタポタと涙が落ちた。
魔獣から離れて魔物達が集まる明るい方へ移動する途中、真吾は気絶し、咄嗟に四人に支えられた。二世に抱えられ昏睡した真吾は、何度呼ばれても目を覚まさなかった。
「見えない学校に帰ってしっかり休ませた方がいい。」
二世はそうだねと応えると、大事そうに真吾を抱き上げた。
百目はそれを見守る二人に飛びついて、ぎゅうっとしがみついた。
「たくさんありがとうだモン!また会いたいモン!」
「お前もな。ただのぽやっぽやかと思って悪かったな。助かったよ。」
「また会いたい。悪魔くんが起きている時に、改めて礼を言いたいからな。」
二世は「必ず」と頷いた。
気絶しているのに、見えない学校へ帰るための魔門は維持されていた。それを見て四人はしばし言葉を失った。
魔門に向かうメフィスト二世と百目を追って、魔物達がぞろぞろ大移動する。
「ありがとう!」
「魔力使う時は事前連絡忘れずにな!」
「ダイヤモンドダスト産まれて初めて見た!綺麗だった!」
「メフィストいい奴だな!父ちゃんに言っとくわ!」
「この氷、食べても大丈夫?」
別れを惜しむ魔物達と手を振り合う百目を促して、二世は魔門を潜った。
二人の後に、魔門は消えた。
「見たか?アレ。」
レアルは片眉を上げてマルクを見た。マルクは、ハハハっと笑うと頷いた。
「大いに気に食わないね。」
真吾の回復には暫く時間が必要だった。
一晩寝たらすっかり体力を回復した百目は、ピクシーとコウモリ猫と協力して、かいがいしく真吾を看護した。
よっぽど心配だったのか、一郎は毎日のように三世と共に見舞いにやって来た。遅い時間にふらっとひとりで来て、朝までいることもあった。
目が覚めるまで三日、起き上がれるまで五日、元の生活に戻るまで二週間かかった。
ぴったりと一郎の訪問がなくなり、真吾はとても残念がった。
「僕は傷付いたよ悪魔くん。」
枕元で林檎を剥きながら恨めしそうに言う二世に真吾は謝った。
「ごめんよメフィスト二世。」
「今後このようなことは二度と無いように。」
「でもメフィスト二世…」
「でもも何もないよ。仕事なんて後からどうにでもなるんだ。」
「僕は…」
「分からせてやろうか、悪魔くん。」
ウサギ林檎を真吾の口元に差し出す。受け取ろうと手を出すと林檎をおあずけした。
「アーンだ悪魔くん。」
「メフィスト二世…」
「これは罰です。」
真吾は困った顔をすると、再び口元に寄せられた林檎に、遠慮がちに齧り付いた。
二世は満足げに笑うと、林檎を盛った皿を真吾に持たせてやった。
真吾の守るべき対象の内側に、いつの間にか自分も含まれていたことがショックだった。自分は真吾の横に立ち、真吾の愛するものを一緒に守る立場にいるのだと、それは今も変わらないと疑っていなかった。
妹との結婚。きっとその時に真吾の中で二世は位置を変えたのだろう。第一使徒ではなく、妹の夫に変えたのだ。
本当にいつか分からせてやろうか、と二世は腹の奥で呟いた。
二世にとって真吾が何であるかを。
真吾は回復すると直ぐ、魔獣の主の崩壊した館に行くと言い出した。止める百目の言うことを聞かないので、百目は二世に告げ口した。
魔門を抜けると、三人は再び地の裂け目に立った。戦いの爪痕がそこかしこに残る谷を早足で通り抜けていく。
静かな谷に魔物達の姿はなかった。
魔獣が倒れた場所まで来ると、真吾は立ち止まった。マルクとレアルは約束を果たしてくれたようだ。黒い血溜まりの跡に、携えて来た花束を置いた。
大きな瓦礫を避けながら、かつては玄関だったのだろう艷やかに磨かれた石の床を踏み、酷く破壊された館の中に入った。
真吾と二世はそれぞれの杖に火を灯し、屋敷の残った燭台にも火を移した。
どこからか、見えない学校へ報せに来た蝙蝠の魔物が二羽飛んできて、三人を出迎えた。真吾の頭や肩に留まると顔を擦り付けて喜んだ。すっかり怪我は治ったようだ。
「ここから先はボクが案内するモン。」
張り切って先を行く百目を追いながら、足早に奥へと進む。どの柱にも大きなヒビが入り、いつ崩れるか分からない状態だった。
沢山住んで居たのだろう魔物達の姿はない。しんと静まり返った室内に、三人の足音が響いた。
高い天井から淡い光が廊下に差し込んでいる。光の敷石はずっと奥の大広間の扉まで続いていた。破壊される前は美しい館だったことだろう。
「ここに地下への階段があるモン。」
百目が言っていたように、大きく破壊された場所とあまり被害のない場所がはっきり分かれ、それを辿ると階段に繋がっていた。
細い廊下の奥に隠されるようにその階段はあった。厚い扉が内側から破られてバラバラに落ちている。
「暗くて濡れてるから気を付けるモン。」
岩を削って作った階段は地下空洞に繋がっていた。
見上げると遥か上の穴の向こうに空が見えた。
暗く寒い大きな空間には、絶えず水の滴り落ちる音が響いていた。
百目が立ち止まって、真吾達が追い付くのを待っていた背後に、高さ二メートルくらいの、岩に打ち付けられた鉄の檻があった。
内側から曲げられ、または岩ごと壊された柵を潜り、三人は注意深く中に入った。
百目が報告してくれた通り、広い檻の奥の隅に、魔獣に掛けられていたのだろう枷が幾つも落ちていた。
どの枷も強烈な力で曲げられ、割られていた。大地の鎖が破られた時と同じ壊れ方だった。
真吾はその一つを手に取ると、血が染み付いた枷の歪んだ形を指でなぞり、足元に戻した。
真吾の肩にとまっていた魔物がパタパタと頭上を二周し、階段を戻って行く。何処かに案内してくれようとしているのだろう。
後を追うと廊下で真吾達を待っていて、追い付くと廊下の奥へと飛び進んだ。
導かれて進んだ先にあったのは、この館には似つかわしくない簡素な作りの扉だった。
「待って悪魔くん、僕が先に行く。」
二世は返事も待たずにマントを翻して真吾と百目の前に出た。
二世は蝶番が壊れて半開きの扉を指先でトンと押す。軋みながら開いたその先には窓のない小さな部屋があった。
二世は思わず顔を顰めた。
部屋に残る、独特な生臭い魔力の痕跡。壁や床に残る黒いシミ。放置された呪具。禍々しい空気が濃厚に染み付いていた。
真吾は怖がって背中にしがみつく百目を庇いながら、二世に続いて部屋に入った。
「ここで作られたんだね。」
真吾はしゃがむと、床に広がる黒いシミに掌を当てた。百目が「やめるモン」と真吾の腕を引っ張る。
「悪魔くん、この部屋人間界に繋がってるぞ。」
真吾が顔を上げると、二世は部屋の中をウロウロと歩き回っていた。人間界からの空気が漏れ出る場所を特定しようとしているのだ。
「ここに術が仕掛けられてる。まだ残ってるな。」
二世が指差したところへ行くと、百目がヒクヒクと鼻を動かした。
「確かにちょっと匂いがするモン。何処につながってるんだモン?」
「行ってみよう。」
「開けるのか?」
「気配を感じるなら道は通っている。僕はその道を整えるだけだ。」
二世が示した場所に立つと、真吾は杖を先を床にトンと落とした。光の線がスルスルと伸びて魔法陣を描き、三人の足元に広がった。光りに包まれるとその眩しさに目を開けていられない。方向感覚を失い目を開くと、もうそこは移動した先の部屋だった。
途端にむせ返る腐臭。百目は堪らず鼻を押さえて、カーテンを閉め切った窓に突進した。
「ぐざいモン!」
固い鍵に悪戦苦闘すると、勢いよく窓を全開にして外に飛び出した。そこは洗濯物を干すのがやっとなくらいの狭い庭だった。百目は庭の隅まで逃げると背中を丸めて、生え放題の雑草に顔を突っ込んだ。
窓を開けても蒸し暑い部屋の空気は動かず、二世はステッキを振って腐った空気を入れ替えた。真吾は窓から顔を出し、蹲る百目を気遣う。
「大丈夫かい?百目。」
「だべだモン!」
普通の人間だって気分が悪くなるのだ。鼻の利く百目にはとても耐えられないだろう。
外から光が入ったお陰で部屋の様子が明らかになった。電気を点けようとスイッチを押しても反応がない。臭いの元は放置されたゴミ袋と、冷蔵庫に残された食品だろう。
改めて室内を見回す。
引き戸の奥にキッチンと玄関が見えた。一間の小さな家だ。
部屋には、隅に丸まった布団と三段のタンス、タンスの上には古い型のテレビが乗せられ、壁に寄せて置かれた小さな四角いテーブルの上には、空の弁当やビールの空き缶が積まれていた。
そしてささくれた畳の床には、黒いマジックで直に書かれた魔法陣があった。
「悪魔くん、これ…」
真吾はうんと頷いた。
部屋の隅に、オカルト雑誌や呪術関連の書籍、同人誌が積まれて雪崩ていた。その一冊を手に取り、ざっと目を通す。
二世は壁にかかったカレンダーに目を遣った。
先月のままでめくられていないカレンダーには、赤いボールペンで丸が付けられ、場所が書き込まれていた。
テーブルの下に放られた新聞とティッシュボッス。
キッチンの奥にトイレと風呂があり、洗濯物が積まれて放置されていた。
キッチンのガスコンロの上には、赤い文字で注意書きがされた幾つかの封書やハガキが放置され、溢れた玄関の郵便受けにも混ざっていた。
二世は床にしゃがみ、落ちていたナイフを拾うと刃を眺め、ポイッとテーブルに投げて真吾を見上げた。
「失敗したんだと思う。」
魔法陣を読み解き真吾は続けた。畳に残る掻き傷を指でなぞる。
「きっと思っていた悪魔とは別の魔物を喚び出してしまい、引きずりこまれたんだ。」
「喚び出せはしたのか。凄いな。」
「素質のある人だったんだろうね。自覚もあったんだろうと思う。最近は特に同人誌で『使える』資料が出版されている場合もあって、僕も危険な物はないか注意はしているんだけど…」
「悪魔くんそんなこともしてるのか…それ書いてるの人間か?」
「さあ…どうだろうね。」
真吾はタンスの上に置かれた写真立てを手に取る。寄り添う男女の間に幼い女の子。親子と思われる三人が幸せそうに笑っていた。
真吾は手で埃を払うとそっと戻した。
「喚び出した魔物は、あの館に住み着いていた魔物だろう。その主はあの部屋で人間と空間の歪みを見付けた。人間界に通じる歪だと瞬時に気付いた主は、塞がる前に歪みを固定した。」
人間界の動物を実験に使っているところを見ると、悪魔は何度も人間界に来ている。もしかしたら、実験の被害者はこの部屋の主だけではないかも知れない。何度も実験は失敗し、はじめに作った魔獣だけが残った可能性もある。
細胞にもし人間としての記憶が残っていたとしたら。それは、臓器移植でも実例が報告されている事だ。
例えばそれは細胞核の中の螺旋に刻まれたもの。改変された遺伝子の中に残された、本能よりも原始的な原点回帰の理。
分裂させた胃袋の細胞が館を彷徨い、懐かしい風に触れてあの歪みへ辿り着いた。次元を渡る旅をして辿り着いた先は懐かしい自分の家だった。
この部屋で人間界のエネルギーを吸って急速に回復し増殖する中で、点と点が集結して形を作り出すように、失われた筈の記憶が蘇る。
何をしていたんだっけ。
腹が減ったな。
今日こそ勝てるかな。
「同じ研究者として、僕は悪魔の気持ちがわかる。」
「悪魔くん。」
「僕だって何度もメフィストを喚び出すために実験を繰り返した。成功するまでやめるつもりはなかった。」
「やめろ悪魔くん。」
「同じ穴の狢だ。」
「その悪魔とは根本的なところで違うだろう、君は命を弄んだりしない。」
「たまたま興味の対象が違っただけだ。僕だってキメラに興味を持っていたら…」
「やめろ。そうやって自分を罰するな。」
二世は真吾の口を掌で塞ぎ言葉を止めると、強く抱き寄せた。真吾の手は力無く降ろされたままだ。
フラフラしながら庭から戻って来た百目は、二人の様子に何かあったのだと察して、真吾の背中に突進してしがみついた。
「悪魔くん大丈夫だモン…」
真吾の手を小さな手でギュッと握った。
三人が魔界に戻ると、小部屋で待っていた蝙蝠の魔物達がパタパタ真吾の肩に留まった。すっかり懐いてしまった。
ふわふわの顔を頬に擦り付けられて、真吾も頬を寄せた。
ずっと手を握って離さない百目の頭に真吾はポンポンと手を置いた。
百目は二世と部屋の隅に立つ。肩の魔物を指で撫でて離れるように促すと、真吾は杖を持ち直した。
空間の歪みの修復を妨害する館の主の術を外し、穴を塞ぐ。
真吾が静かに詠唱しながら杖に魔力を伝えると、杖を白銀の光が包んだ。床にフワリと魔法陣が開くと、さながら影に隠された物体が光に照らされるように、悪魔の術が形を露わにした。
真吾の目の高さに歪んだ黒い球体が浮かぶ。球体は杭のような形で床に打ち込まれており、プラズマのように放射された黒い針が天井、壁、床と部屋全体に突き刺さっていた。
真吾が球体に向け杖を傾けると、杖の頭が光を放ち部屋中を満たした。
四方に突き刺さった針がボロボロと崩れていく。暫く堪えた球体も真っ二つにヒビが入ると、それは一気に全体に広がりパンっと弾けて霧散した。
真吾はそのまま続けて詠唱を始める。先の魔法陣が消えていくのと入れ替わるように新たな魔法陣が描かれた。魔力の風と共に光の帯が伸びて部屋の隅々まで行き渡り埋め尽くすと、ヒラヒラと揺れながら落ちて消えた。
真吾は深く長い息を吐いた。
「悪魔くん、お疲れ様。」
振り返る真吾の顔に、笑顔はなかった。
「ねぇ悪魔くん、『僕等』はまだまだ引退には早いねぇ。」
穏やかに笑うメフィスト二世を見上げて、真吾も微かに笑い、その胸に額を付けた。
マントで真吾を隠す。
「帰ろうか。」
真吾はコクンと頷いた。
二〇二四年十二月一日 かがみのせなか