花を育てる 百目の肩に乗って来たピクシー達は、ソファーの上に飛び降りると、暫くそのままポンポンと飛び跳ねて遊んだ。
百目は大事そうに抱えて来た透明なアクリルのケースをテーブルの上に置くと、ふうっと大きく息を吐いてにっこり真吾を振り返った。ケースの中には小さな陶器の植木鉢が入っている。
何も知らされていない真吾は、魔術書を捲る手を止めると、不思議そうにそのケースと百目を見比べた。
「百目、それは何だい?」
「お花を育てるケースなんだモン。」
「花を育てる予定はないけど…」
「これからその予定が出来るんだモン。悪魔くんが育てるんだモン。」
ソファートランポリンで満足するまで遊んだピクシー達は、ピョンピョンと積み上がった本を飛び移り、書斎机までやってくる。
赤ピクシーが肩の上に乗って、真吾の目元をピタピタと叩く。
「悪魔くんに取れないクマ発見!」
「悪魔くん、また寝てない!」
誤魔化して笑い、言い訳を言おうとする真吾に、本の上で胡座をかいた青ピクシーは、腕を組んで首を横に振る。
「悪魔くんはすぐ寝るのをサボる。悪魔くんは魔界にいるから歳を取らなくなったけど、人間なんだからちゃんと休まなくちゃいけないんだよ!」
「だからお花の種を悪魔くんにあげる。」
赤ピクシーは真吾の肩から机の上に降りると、ポンと音をさせて掌に大きな種を出した。
直径二センチ程の大きな黒い種だ。丸く表面がスベスベしている。
受け取り、掌の上で観察する真吾に、ピクシー達は得意気に説明する。
「ヒュプノリアの種だよ。育てると大きなお花が咲くんだよ。」
「ヒュプノリアは生き物を眠らせる力があるんだよ。生き物にいい夢を見せて、その夢を栄養にして育つんだ。力は弱いから危なくないよ。近くにずっといるとだんだん眠くなってくるんだ。」
「お花は気付けの薬になるんだよ。」
「なるほどね。」
これを育てて寝ろ、と云うことだ。真吾は苦笑いして立ち上がる。
しっかり準備されていて、アクリルケースの中の植木鉢には潤った土まで入っていた。種をそこに埋めると、少し土を摘んで種に被せる。隣で百目がウキウキして植木鉢を眺めている。
「どんなお花が咲くのか楽しみだモン。」
「あんまりお日様に当てなくても大丈夫だよ。芽が出たらお水と夢をあげること!」
「うーんそうかぁ。頑張ってみるね。」
百目は口のへの字に曲げて真吾をじっと見上げる。
「寝るのを頑張るって、なんだか変なんだモン。」
百目の呟きに、ピクシー達はうんうんと深く頷いた。
真吾は寝室のサイドテーブルにケースを置くと、そのままベッドに腰掛けてふっと息を吐く。
一生懸命自分の為に考えて用意してくれた三人の気持ちを台無しにしたくはなかった。
(うまく育つだろうか。)
真吾はいつの頃からか全く夢を見なくなっていた。その代わり、何か特別な事が起る前触れに、啓示のようなものを見る。ソロモンの笛が一郎を選んだ以降も、一郎に危機が迫っている時、ソロモンの笛は真吾に警告する。恐らく夢もソロモンの笛とまだ繋がっているのだろう。「悪魔くん」を助けるために。
ただ、実際には夢を見ていて、忘れてしまっているだけという可能性もある。いずれにしても睡眠を取ってみなければ始まらない。
(僕の夢にはモルペウスも干渉しないか…)
✡✡✡
芽が出るまではいいだろうと油断していたら、三日後には可愛い双葉が顔を出していた。
水滴を飾ってみずみずしい幼い葉を、真吾は頬杖を突いて眺める。いよいよ真面目に睡眠を取る努力をしなければならない。それでなくても育つかどうか怪しいのだ。三人をがっかりさせたくはない。
そう云えばどれくらいで花が咲くのか聞いていなかったな、と頭を掻く。努力期間が年単位だと絶対に持続しない。
その日から、真吾はなるべく毎日、取り敢えずベッドに入るという訓練を始めた。成長を楽しみに頻繁に様子を見に来る百目は、ベッドの上やその周辺に日に日に積み上がっていく本を見て呆れた。
だが、そんな寝るつもりのない真吾にも例外なくヒュプノリアはその効力を発揮し、気が付けば眠っていた、と云う日々が半月程続いた。
久しぶりにヒュプノリアの成長を確認しに来たピクシー達は、少し大きくなった双葉を見ると頰をめいっぱい膨らませた。
「悪魔くん寝てないでしょ!」
やっぱりこの成長は遅いんだ、と真吾は苦笑いする。
「悪魔くん、ちゃんと寝てたモン。」
両肩からポコポコとお仕置きを受ける真吾を、抜き打ち早朝チェックを欠かさなかった百目は、慌てて庇う。
「ごめんよ、僕は夢を見ることがあまり無くて…。頑張ってはみたんだけどね。」
「夢を見るのを頑張るって、なんか変だモン。」
ピクシー達は腕を組んでうーんと首を傾げた。お陰様で休む習慣は出来てきたが、これだけ努力をしているのだからやはり花を見たい。
真吾は百目の頭を撫でる。
「ねぇ百目、花を育てるのを手伝ってくれないか?百目はたくさん夢を見るだろう?」
全身の目がまん丸くなったかと思ったら、百目は嬉しそうに真吾に飛び付いた。お腹に頰をグリグリ押し付ける。
「今日から悪魔くんと毎日一緒に寝るんだモン!」
扉がゆっくり開くと、その向こうから、パジャマに着替え枕を持った百目の顔がおずおずと覗いた。
真吾は書き物をしていた手を止める。
ぱっと笑顔になってナイトキャップを揺らしながら書斎机まで来ると、真吾の手元を覗き込む。
「悪魔くんはまだ寝ないモン?」
「これを書いてしまったら寝るよ。先に寝て待っていてくれないかな。」
百目は口を尖らせるが、真吾に頭を撫でられると、机と真吾を見比べて頷いた。
真吾のベッドに機嫌よく横になると、布団を掛けてもらいにっこり笑う。
「いい夢見られるといいモン。」
「そうだね。百目はいつもどんな夢を見るんだい?」
「ラーメンを食べたり、みんなと遊んだりするモン。たまに喧嘩するモン。」
「楽しい夢でいいねぇ。」
百目は真吾と、傍らのテーブルの上のヒュプノリアにお休みを言うと、目を閉じた。
ひとり書斎に戻ってから数時間後、文末にサインを入れると、真吾は羽根ペンを置いて大きく伸びをした。思ったりよりも時間がかかってしまった。
手元のランプを消すと、隣の部屋で寝ている百目を物音で起こしてしまわないように足を忍ばせ、寝室のドアを静かに開けた。カーテンを透かして差し込む月の光で、部屋がぼんやりと明るい。
ベッドに目を遣ると、寝ているはずの百目が、体を起こして黙って座っていた。
なんだか様子がおかしい。真吾はびっくりさせないように小声で話しかける。
「どうしたんだい?百目。」
百目は、ベッドの縁に座った真吾を見上げると、うん、と返事をして俯いた。
「夢でね、パパとママに会ったんだモン。」
真吾は百目の隣に入ると、百目の手を握る。
「ママの顔は…ちょっと分かんなかったモン。でもギュッとしてくれたんだモン。あったかくて、いい匂いがして…」
「うん…」
百目は口を閉ざして、そこに何か見えているかのようにじっと空を見詰めた。
少し躊躇って、真吾はがそっと百目の背中に手を添えると、百目は大きな目で真吾を見上げる。
「悪魔くん、ボク大丈夫だモン。パパとママに会えて嬉しかったモン。」
「うん…」
真吾はそうだねと微笑んで背中を撫でる。暫く素直に撫でられていたが、唐突に真吾に抱きつくと、うーと唸った。
「ホントはちょっと淋しいモン…でもいつかきっと仲間を見付けて、今度はボクがパパになるんだモン。」
「きっとその子も百目の事を探していると思うよ。早く会えるといいね。」
真吾の胸に顔を擦り付けたまま、百目はうんと力強く頷いた。
✡✡✡
百目の協力もあって、更に一ヶ月経とうと云う頃には、スルスルと伸びた茎の先端にはふっくらとした蕾が付いた。
ちゃんと夢を与えればこんなにも早く育つのかと、真吾は苦笑せずにはいられない。
百目は寝る時間以外も寝室に入り浸るようになり、まだ咲かないかとベッドの上で一日中ゴロゴロして過ごした。
日ごと大きくなっていく蕾を確認すると、ピクシー達はウンウンと顔を見合わせて頷いた。
「悪魔くんのクマもだいぶ薄くなったし。」
「お花も順調だし。」
「大成功だね!」
ピクシーの二人はハイタッチをする。
「あとどれくらいで咲くんだモン?知らない内に咲いていたら嫌だモン。」
「あと二、三日もあれば咲くと思うよ。」
「頑張っていっぱい寝てくれた百目のおかげたね。」
「悪魔くんはおかしいモン。寝るのに頑張ったりしないモン。」
真吾が褒めると、百目は真吾の腕に絡みついて頬を膨らませた。
「どんな花が咲くのか楽しみだねぇ。」
その翌日、おやつに誘おうと、百目を呼びに真吾が寝室のドアを開けると、珍しく百目が寝っ転がっていなかった。
サイドテーブルの、今にもほころびそうな大きな蕾が、窓から差し込む柔らかな光を受けて微睡んでいる。注意して観察すると、蕾の先端に花弁が僅かに覗いていた。
(これは明日には咲くかもなぁ。)
喜ぶ百目を想像してフフッと笑う。
(百目も成長しているんだね。)
泣きもせずただ淋しさを受け止めようとしていた百目の顔が、少し大人びて見えた。気が付かない内にみんな少しずつ変わっていく。
真吾はベッドの上に横になると天井を眺める。少し開けた窓から風が通り、音もなくカーテンを揺らした。
百目に呼ばれて来てみれば、書斎に誰もいない。真吾は自分に何か用事があって呼び出したのではないのか。
書庫にでも行っているのだろうかと、一郎はソファに座り、テーブルに置かれた本に手を伸ばした。
半刻ほど本に集中し、ふと真吾を待っていた事を思い出し顔を上げる。
まだ戻らないのかと部屋を見渡すと、いつもはぴったりと閉じている寝室のドアが薄く開いていることに初めて気が付いた。
一郎は本をテーブルに置き、ドアに手を掛けトンと軽く押す。
キィと小さな音を立て開いたその中を覗くと、ベッドの上に緑色の物が横たわっていた。
(こんな所にいたのか。)
ふっと鼻で息を吐き、マントに丸まって眠っている真吾を見下ろす。ゆっくり上下する背中からすると珍しく熟睡しているようだ。
サイドテーブルに乗せられた透明なケースに気が付く。卵位の大きさの蕾が陽に照らされている。わざわざ透明なケースに入れていると云う事は、脆い植物と云うことだろうか。
(まるであの薔薇の様だな。)
呼び出した本人が寝てしまっていてはここに居る意味がない。帰ってしまおうかと、寝室の外に出てドアノブに手を掛けたが、ベッドの上の真吾を見遣ると、室内に戻り、静かにドアを締めた。
眠る真吾の隣に座ると、閉じられた白い瞼を見詰める。穏やかな呼吸と薄く開いた小さな口。
一郎は、真吾に向かい合うように自分もベッドに横になると、暫くその寝顔を眺め、緩やかに訪れる睡魔に従い目を閉じた。
百目が真吾を探して寝室のドアを開けると、真吾が飛び起きた。わぁと百目が上げた声に、その隣で寝ていた一郎の目がバチッと開く。
百目の脇を擦り抜けて、真吾が寝室を飛び出して行く。その後を追って一郎が駆け出す。
何が起こったのかと百目は目をパチクリした。
真吾は全速力で走りながら、部屋を出る時に咄嗟に掴んだ杖を振り、駆け抜ける廊下の先に悪魔トンネルを開く。
すぐ後ろで一郎の舌打ちが聞こえる。
開いた門を潜り抜けると、すぐに閉じようと振り返るが、一郎の足がもう門を抜けていて、真吾は慌てて逃げる。トンネルを抜けた先は何故かメフィスト家の廊下だった。
突然の大騒ぎに、リビングで寛いでいたメフィスト二世が盛大にお茶を吹く。
何事かと廊下に出ると、玄関を飛び出す真吾の背中が見え、それを追う一郎が目の前を駆け抜けた。
「何事?」
細い路地を駆け抜けるマントを追いながら、さて何処を掴んだものかと一郎は考えた。
運動不足な二人の追いかけっこは長くは続かない。歩幅で有利な一郎は、速度が落ちた真吾のマントをまず捕らえ、バランスを崩したその腕をがっちり掴みこちらへ体を向けさせた。
抗う体力ももう残っていないようで、真吾は背中で息をしながら顔を見せまいと体を折る。
苦しい呼吸を無理しながら一郎は言った。
「逃げ込む、先が、メフィスト二世、気に食わない。」
「生家だよ、無理もないだろ、そんなの、無意識だよ…」
「何が生家だ。無意識にメフィスト二世を頼っているってことだろう?」
「いちろ…痛いよ」
二の腕に食込む一郎の手が熱い。手を離させようとするが余計に力を入れられ真吾は呻いた。
「僕は、夢を見ないんだ。」
一郎は真っ赤に染まった真吾の首をじっと見下ろす。
「ソロモンの笛との共鳴が強くなってから、意味のない夢は見なくなった。だからあれは君の夢。」
「そう、あれは僕の夢だ。」
真吾を捕らえる手の力を緩めるが、逃げられないように直ぐさま抱き締める。細い肩が魚のように震える。両腕に抑え込めてしまう小さな体が熱い。
「一郎ごめんよ、まさか繫がってしまうなんて思わなかった。知っていたらもう少し注意して…」
「話を逸らそうとするな。」
「夢の中の事だし、事実とは違うと…」
「あれが僕の本心だ。」
真っ直ぐ言葉が降ってくる。逃げる隙を与えてくれない。
「…一郎、僕は…」
「知っていればいい、今はまだ。だがいつかは必ず応えてもらう。」
一郎は、真吾の汗で湿った柔らかい髪に顔を寄せる。
「僕は君の父親だ。」
「そんなものは、僕と一緒にいる為にあんたが用意し周囲に認めさせた、ただの体裁だろう?一緒にいる本当の理由が明確になれば何の意味もない。」
逃げながら、年齢や性別を取り敢えずの理由に並べてどうにか説き伏せる術を模索していたが、今はどんな言葉も無力なのだと覚った。
(兎に角、この場は収めて、後日落ち着いて…)
一郎の、冷静な態度とは裏腹な鼓動に、真吾の眼尻に涙が滲む。
博愛しか知らない真吾には、一郎の想いがヒリヒリと焼き付いて痛い。生まれて初めて、有るが儘に差し出された強い感情に当てられ、不安と焦りばかりで思考がまとまらない。怖ささえ感じるのに、この湧き上がる高揚感はなんだろう。
いつから。何故。
知らぬ間に変わっていく。育っていってしまう。種のまま永遠に眠る物などこの世には存在しないのだ。それは自分自身においても。
(この感覚の正体を知ってしまったら…僕は変わるわけにはいかないんだ。)
せめてもの抵抗に、一郎の胸をそっと自分の頬から遠ざける。
思考の遠くで響く警告音を聞きながらも、一郎の腕から呑み込まれるように全身に広がる幸福感がもう、どうしようもない。
✡✡✡
「悪魔くん、起きたと思ったらバーっと飛び出して行っちゃったんだモン。折角見せてあげようと思って呼んだのに、一郎悪魔くんも一緒に出て行っちゃったモン。早く戻ってくるといいモン。」
「どうしたんだろうね?」
「なにかあったのかな?」
「一郎悪魔くん、悪魔くんと仲良く一緒に寝てたみたいなんだモン。」
「だから咲いたのかな。」
「良かったね!」
「とっても綺麗だモン!」
ベッドに腹這いになり頬杖を突いた百目は、夢見るようにうっとりと花を眺める。窓枠に座った二人のピクシーも嬉しそうに花を見上げる。
「早く見せてあげたいモン…」
幸福な夢で育てられたヒュプノリアはケースを外され、濃紺を帯びた透明の大きな八重の花弁を広げ、見事に咲き誇っていた。陽の光を受け僅かに輝く。微かに広がる涼し気な香りが風に乗り、静かな部屋を満たしていく。
やがて廊下に二つの足音が響き、書斎のドアが開かれる音が百目の耳に届いた。
二〇二四年五月二十四日 かがみのせなか