雨だれ 静かな室内に、軒から落ちる雫の音と、紙が擦れる音だけが聞こえる。
一郎は、腹の上に乗せた魔術書から目を上げた。ソファから身を起こし、窓の外を見る。スッと人影が窓から消えるのを見ると、一郎は本をテーブルに置いた。
依頼人だろうか。
「何か用か。」
足早に玄関に出てドアを開けると、階段を降りかけた深緑色の傘を呼び止める。
立ち止まった傘は少し躊躇い、ゆっくり振り返った。傘で隠れていたその青年の顔が現れた。
一郎は目を丸くし、息を呑む。
義父にそっくりな顔をした青年は、一郎を真っ直ぐに見返すと、困ったように微笑んだ。
軒先で傘を振るい、大雑把に水滴を落とすと、きっちり畳んで傘立てに立てる。一郎に促され研究所に入ると、真吾は目を細めて室内を見渡した。
「…本当に懐かしいな。涙が出そうだよ。」
警戒を解かない一郎に挙動ひとつひとつを注視されて、真吾はまた困ったように笑った。
「君が不審に思うのも無理はないよ。僕はこの世界にとって予想外の来訪者だからね。」
「パラレルワールドから来たと言うのか。」
埋れ木真吾と云う存在の到達した場所が想定を超えている。信じられない気持ちで真吾を見る一郎に、当の本人は呑気に頭を掻いた。
「僕は、君に対しては昔からいつも間が悪い。顔を少し見たらそれだけで帰るつもりだったんだ。驚かせてすまなかったね。」
改めてよく見ると、肉体年齢が一郎よりも上のようだ。すんなりと伸びた手足は華奢だが、ベージュの細身のジャケットをラフに着ているのがよく似合っている。穏やかな性質にやっと見た目年齢が追いついて来た、といった感じだ。一郎の思考を読んだかのように、真吾はいたずらっぽくニヤリとした。
「まさか一郎を見下ろす日が来るなんてね。」
「クソ親父。」
毒づかれて真吾は一瞬目を丸くすると、口元からゆっくり顔全体に笑みが溢れた。嬉しそうな真吾に一郎はたじろぐ。
先程まで一郎が寝転んでいたのと反対側のソファに座ると、真吾はキッチンへ目を向けた。
「三世君は?今日は、研究所は定休日だったかな。」
「客用の角砂糖が切れたと言って買いに出ている。」
「そうか。雨の中大変だね。」
「千年王国は実現したのか。」
「ねぇ一郎、君にホットケーキを作ってもいいかな。」
今の真吾にはない余裕でもって、一郎の無遠慮な言葉をすんなり避けると、簡単にあしらわれてただ頷く一郎に、にっこりとして礼を言った。
キッチンへ行く真吾を見送ると、一郎はふっと短く鼻息を吐いてソファに横になり、テーブルから読みかけの本を取った。
調子が狂って居心地が悪い。
キッチンから香ばしい匂いが漂って来てから間もなく、トレイの上にホットケーキと二つのココアを乗せて真吾が戻って来た。
一郎は、目の前に置かれたホットケーキの一段目をフォークでめくる。一段目よりも若干焼色が濃い。
「バレたか。ちょっと焼き過ぎてしまったんだ。凄く久しぶりだったから腕が鈍ってしまったよ。」
一郎は三段まとめてナイフを入れると、フォークに突き刺した大きな塊を口に詰め込む。真吾は膝の上で片方頬杖を突き、相変わらず気持ちよく食べるねと、嬉しそうにそれを眺めた。
「君はそう、ホットケーキとココア。あと八幡のラーメンだったね。」
真吾は細い手でマグカップを取ると、甘い香りを楽しむ。
「あんたの世界は今どうなっている?」
「あまり教えられる事は無いんだよ。」
「無数にある分岐の内の一つの可能性でしか無い。ここで明かしたところでこの世界に影響はない。それを知っているからあんたはこうして散歩を楽しんでいるんだろう?」
「この先、君が僕の在る世界を探すにしても避けるにしても、聡い君はこの先逆算して選択を意識するようになる。それは嫌なんだ。」
「まさか、何が分岐かも分からないのに。」
「それでも君はそうする。」
「僕はあんたと居るのか?」
真吾はふっと息を吐く。人の話を聞かないのも相変わらずだ。
「君は人としての寿命を全うしたよ。」
「メフィストは?」
「君と同じ。メフィスト二世もね。」
「あんたの道筋では、メフィスト二世は生涯人間界にいたのか。なら今は誰が居る?」
真吾はそれには答えず一口ココアを飲んだ。
二人は暫く言葉を止めた。
何か思案している真吾を気にせず一郎がホットケーキを綺麗に平らげると、それを待っていたかのように、真吾はおもむろに口を開いた。
「そうだね、君の言う通り、僕は数多ある可能性の一つに過ぎない。君の未来には影響しない、ということにしよう。」
ふふと笑うと、真吾はマグカップをテーブルに置いた。
「僕はね、もう間もなく、世界になるんだ。」
意味を察して一郎は咄嗟に言葉を返せない。
「見た目はそうでもないけど、体に限界が来ていてね、体と魂を分けて、魂を砕いて世界中にバラ撒くんだ。僕は砂の一粒になり、雨の一滴になる。」
真吾が窓の外を見遣るので、一郎もその目線の先を探す。ガラス窓に一筋、水滴が流れた。
「最後に、会いたい人達に会っている。」
じっと大きな目で見詰める息子に、真吾は目を細めた。
「君が去った後も、幾人か悪魔くんを育てたよ。こんな事、全ての存在に等しく愛を注ぐ事が求められる僕が口にするべきでは無いだろうけど、でも…」
言葉を少し切り、懐かしい息子の顔を見詰める。
「君は、やっぱり特別だった。君にどうしても会いたかった。最初で最後のたった一人の大事な息子だもの。」
目を伏せる表情が、一郎のよく知る真吾と同じだった。本人なのだから当たり前なのに、一郎は何故自分が動揺しているのか分からなかった。
「二十四の前奏曲第十五番『雨だれ』。」
「フレデリック・ショパン。」
真吾の唐突な話の切り出しには慣れている。一郎の返しに真吾は小さく頷く。
「嵐の日、重い肺結核のショパンが修道院で、帰りの遅い恋人ジョルジュ・サンドを心配しながら作った曲。僕の好きな曲なんだ。とても優しい曲なんだよ。」
初めて知る義父の横顔に、一郎は胸の内で驚く。
「ねぇ一郎、こうして窓辺に座って、心配しながら帰りを待つ誰かがいると云う事は、とても幸せな事なんだよ。失ってからではなく、どうか今気付いて欲しい。」
口を挟まず素直に耳を傾ける一郎に笑いかけた。
「君には話せる事は限られる。でもこれだけは教えておくね。君はこの先何度も大きな困難に向き合う事になる。立ち上がる力も失う程のね。そんな時君を助けるのは他の誰でもない三世君だよ。一番近くにいて、君が崩れるのを許さないで居てくれる。だから君は、三世君が助けたいと思える人になりなさい。彼は君が生きる上で最も必要な人になる。君は彼の生きる世界のために力を尽くす。」
窓辺に雫が落ちる音が部屋に響く。高く低く音階を変えて、静かに紡がれる真吾の言葉を数えるように刻む。
「君は彼から沢山のことを学ぶよ。優しさ、後悔、恥、淋しさ、愛しさ…三世君が教えてくれるものは、君の世界を色鮮やかにしてくれる。彼を大切にね。三世君は君の側に居て当たり前の存在ではないのだから。」
雫の落ちる回数を数えていたかのように真吾は頷くと、急に立ち上がった。真吾のカップにココアはまだ残っている。
「もう行かないと。」
一郎も慌てて立ち上がる。わずかでも引き止めたくて口実を探す。誰かと別れ難いなど、初めてだ。
「メフィストに会わなくていいのか。」
「いいんだ、残念だけど、そう長くはいられないんだよ。ありがとう。」
「メフィスト二世には?」
「…一郎、やっぱり君は、優しくていい子だね。」
真吾は一郎の頭にポンポンと手を置く。その手を頬に滑らせると、愛おしそうに軽く抓った。
「これはあんたが望んだ行く先か?」
「色々…本当に色々な事があったけど…全てが今この時、ただの君の父親に戻るための布石だったのなら、悪くない。」
手に下げた買い物袋が雨に濡れないように、小まめに注意しながら路地を歩く。オデオン座の角を曲がると、道の先に深緑色の傘が見えた。
相手もこちらに気付いたようで、少し道路側へ道筋をずらす。
すれ違いざまに、傘の向こうに一瞬見えた口元が、嬉しそうに自分に向けて微笑んだように見えた。
三世は数歩歩いて立ち止まり、振り返る。
そこにはもう誰の姿もなかった。
三世がただいまと言いながら玄関のドアを開けると、急に静かだった室内が明るくなった。
三世は廊下を歩きながら一郎に話しかける。
「なぁ、悪魔くん聞いてくれよ、今前の道路ですれ違った人が…何やってんだ?」
部屋に入ると、一郎は本を手にする事もなく、ただじっとソファに座って宙を見詰めていた。
ホットケーキとココアの残り香が漂う。片付けられていないテーブルに、皿と二つのマグカップ。
三世は口をキュッと引き結び、キッチンに買い物袋を置きに行くとすぐに戻る。テーブルに手を伸ばす三世に一郎がボソリと話しかける。
「『雨だれ』。どんな曲だ。」
「何だよ急に。スマホで調べりゃいいだろ…」
言い終わらない内に三世はぽんと掌を拳で打った。
部屋の奥に行くと、棚の上の何かに掛けられた布を取った。四角く平べったい大きな箱が現れた。三世は得意げに一郎を振り返るとにんまり笑った。
「一度使ってみたかったんだよね、レコード!」
積み上がった雑多な物を崩し始める三世に、一郎も立ち上がって手伝い始める。
「レコードの段ボール、確かここら辺で見た記憶が…まあ、『雨だれ』があるか分かんないけどな。レコードプレイヤーも使えないかもしれないし。」
「きっと使える。」
「お前…」
どこから来る自信だよと続けようとして、三世は口を閉じた。一郎の横顔に切実なものがあった。
舞い上がる埃を嫌そうに手で払いながら、後で大掃除だなこりゃと言う三世の諦めた声を聞きながら、一郎も黙々と段ボールを探す。
「あったぞ。」
腕の長さが足りず悪戦苦闘する三世に替わり、一郎が段ボールを移動する。ガムテープを剥がして中を確認すると、しっかり梱包されていたためか、状態は想定よりも良いようだ。
一郎はその場に胡座をかき、ぎっちり詰められた大判のレコードをまとめて一掴み抜き出すと、一つ一つ確かめながら横に重ねていく。
CHOPINと大きく書かれたレコードを見つけ、手を止めた。探すまでもなく一曲目にその名は載っていた。前奏曲変ニ長調『雨だれ』。
「見つかった。」
三世を見ると、コードを片手に近くのコンセントを掘り出しているところだった。
レコードを手に寄ってくる一郎をちらりと振り返り、電源のスイッチを押す。針がレコードを探すように動き、元の場所に戻り止まった。三世は針の状態を確認する。
「やったな、使えそうだぞ。」
三世は一郎からレコードを受け取ると、薄い紙のケースから白いビニール袋で保護された円盤を引き出す。黒い大きな円盤は照明の光を艷やかに反射した。
表面と裏面の汚れや埃を確認すると、三世はそっとターンテーブルにセットした。緩やかに回転を始める円盤の、一番外側の無音エリアに針を慎重に移動すると、リフターを下げる。
ブツブツという僅かなノイズの後、透き通ったピアノの音が部屋に広がった。
三世はプラスチックのくすんだ蓋を閉じた。
一郎はその場を動かず、じっと回る円盤を見詰めて耳を傾けるが、その瞳には何も映していない。
ソファにでも座ればと声を掛けようとして、三世は一郎見上げ、目を逸らした。
三世はテーブルの上の皿とマグカップをトレイに乗せてキッチンへ運んだ。シンクに皿を置き、半分残ったココアのマグカップを手に取る。すっかり冷たくなったそれを少し眺めるとそっと一口、口に含んだ。
窓を伝う雫が別の雫と繋がり、滑るよう落ちていく。ピアノの優しい旋律が窓の外の景色を変える。
もうすぐ、手の届かない遠い世界で、父はこの一雫になる。
レコードから離さない一郎の大きな瞳から涙が落ちた。
二〇二四年五月二十九日 かがみのせなか