マカロン ナイフとフォークで食べるマカロンってどうなんだろう、と云う思い付きから作った特大のマカロンを三つ包んで書斎へ来てみたが、試食係の姿が見えない。
書斎机にもソファにもいないので、書斎机の向こう側へ覗きに行ってみれば、案の定、本棚と机の間に緑色が落ちていた。
本にかかった手と、その先に雪崩れている数冊の本から察するに、片付けようとしたか取り出したかのところでバッテリーが切れたようだ。
メフィスト二世は腰に手を当てて呆れて息を吐く。うつ伏せでピクリとも動かないが息は苦しくないのか。二世は真吾の両脇に手を差し込むと、軽々と抱き起こした。
無理やり意識をサルベージされて嫌がる真吾が二世の腕を押し返そうとする。二世は逃がすまいと横抱きにすると、真吾の脱力した体を自分の腕で包み込む。真吾はされるがままに体重を二世に預けた。
肉欲を知らないまま魔界に入り学ぶ機会を失った真吾は、それがどう云うものか知っていても、自分の身に置き換える事ができない。とりわけ、よく知る関係にある人には警戒しない。それでも強いスキンシップをすれば本能的に拒むが、『大親友』である二世に対してはある程度特別に許されていた。
真吾の米噛みに顔を寄せて匂いを味わう。これは許されている。
白い瞼をそっと親指の腹で触れる。これは寝ている間だけ許される。
睫毛を指先でくすぐると、真吾はうっすらと目を開いた。
「…メフィスト二世?」
「おはよう悪魔くん。」
額に唇を当てると顔を避けようとする。これはダメ。
片手で顔を包み頬の形をなぞる。これは嫌がらない。
「特大のマカロンを作ってみたんだけど、悪魔くん試食頼むよ。」
「どれだけ大きいんだい?」
「ハンバーガーくらいかな。」
あはっと笑う真吾の顔を見ると、漸くしっかり目が覚めたようだ。
「三種類あるよ。バナナとメロンと小豆。」
ケラケラと笑う真吾を胸にぎゅっと寄せると、二世はその柔らかさと小ささを堪能した。
幼い頃からずっと側にいて、どんなに時を経ても成長しない友人の姿に慣れ切っていたが、ある時唐突に、自分の手で包み込めてしまうほどその手が小さいと初めて気付いた瞬間に、本人も知らぬ内に育っていた感情にあっという間に呑まれた。
真吾は自分自身の生に興味がない。それは死すら無頓着と云う事だ。何もかもを救いたいと願うのと同じ脳で、自分の体や命を道具と考えている。なるべく使用寿命を伸ばし、擦り切れるまで使い潰そうとしている。
誰よりも高潔なくせに自分に対しては冷酷。極端な矛盾の上に微笑んで立つ業の深さにゾクゾクする。もし誘惑的なこの人間の魂を手に入れられるとしたら。
二世にとって真吾は出会った時から特別な人間だった。宿命を分かち持つ信頼を持てる唯一の存在だった。だがその意味が色を変えた。
この歪で純粋な存在の全てを独占したい。永遠に自分の視界に閉じ込めたい。体も魂も自分に依存させたい。
体の成長と共に悪魔としての本質が目覚めていくに連れ、二世の欲は抑え難く増幅していった。
果たして真吾は、自分自身からも与えられなかった愛を悪魔から受けたらどう反応するだろうか。きっと意味もわからず戸惑い逃げようとするだろう。だがそんなものはどうにでもなる。時間をかけてゆっくり染め上げていけばいい。横にいることから始め、手に触れ、髪に触れ、頬に触れる。何度も繰り返し、慣れさせ、また一つ踏み込む。
(これはね、慈善事業だよ悪魔くん。君の代わりに俺が君を甘やかし心地よくさせる。俺と悪魔くんの二人分ね。)
「マカロン、見てみる?」
背中の後ろに置いていた紙袋を取ると、真吾の手に持たせてやった。
真吾が座り直そうと身を離すので、二世は真吾を囲うようにあぐらの膝を立て腕を後から回した。柔らかい髪の毛に頬を押し付ける。密着度の高い座らせ方も、もうだいぶ慣らした。
真吾は腹を抱く二世の腕を気にもせず、紙箱を開いて中を覗くとフフッと笑う。
「全部バナナの匂いになってるよ、メフィスト二世。齧り付いたら粉々になっちゃいそうだね…食べきるのも大変そうだ。」
「ナイフとフォークでお召し上がりください。」
気付かれぬように、耳の後ろに鼻を寄せた。口で耳たぶを遊びたくなる衝動を抑える。
(ずっと何も知らない子供のままでいればいい。メフィスト二世はそういうものなのだと擦り込まれたまま、この手だけを許せばいい。俺が植え付けた依存に気付かないまま、この手だけを欲しがるようになればいい。)
甘く可愛い夢のようなお菓子。
齧り付けば崩れるその艷やかな表面をそっと撫でる。
二〇二四年六月一日 かがみのせなか