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    かがみのせなか

    @kagaminosenaka

    主に悪魔くん(平成・令和)の文と絵を作っています。作るのは右真吾さんばかりですが、どんなカプも大好きです。よろしくお願いします。

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    かがみのせなか

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    令和悪魔くん。🥞→🚥。
    一郎くんの過去捏造してます。
    一郎くんと真吾さんが喧嘩します。
    三世くんは光の子です。

    #令和悪魔くん

    約束 人気のない歩道をのんびりと歩きながら夜の空気を楽しむ。まだ六月に入ったばかりのこの時期は、日中は夏のような暑さでも夜になると薄寒くなる。アルコールで火照った体には気持ちがいい。真吾は妹夫婦の他愛ないおしゃべりを聞きながら機嫌よく二人の後ろを歩いていた。
     不意にエツ子が振り返る。
    「お兄ちゃん静かだとちゃんと付いて来てるか心配になるんだけど。大丈夫?」
    「大丈夫だよ、ちゃんと歩いてる。」
    「こりゃダメだわ。前歩いてよ。」
     エツ子は兄の両肩を掴むと、ホイホイと前に押し出す。
    「真吾君久しぶりのお酒だったから効いちゃったね。」
    「そうだね…」
     久しぶりに外食でもしようと誘われたので素直に乗って来てみたら、何と二人の結婚記念祝いだった。
     誘った理由を訊く兄に、惚気を聞いてくれる人がいないと詰まらないから、とエツ子は当たり前の事の様に答えた。
     ラフな服装で来てしまって慌てる真吾に、メフィスト二世が得意げに着替え一式を出した時は、流石の救世主もイラッとした。
    「お兄ちゃん、高級ワインご馳走様です!」
     身分証明を見せた時のギャルソンの顔が忘れられない。
    「今後は、二人の大事な記念日は二人で過ごしなさい…せめていつ祝うのか事前に知っていたらちゃんとお祝い用意出来たのに。」
    「そしたらお兄ちゃん絶対来なかったでしょ?」
    「そりゃそうだろう。邪魔にはなりたくないからね。」
    「わざわざ誘ってんのに邪魔なわけないでしょ。」
     それが困るんだよと真吾は溜息を吐く。何故気を遣うのか分からないが、事ある毎に真吾を巻き込もうとする。
    「エツ子が良くてもメフィスト二世が可哀想だろう。二人でお祝いしたいだろうに。」
    「え?全然可哀想じゃないよ?真吾君はエッちゃんの大好きな兄君だからね。」
     意味が分からない。
     全員程よく出来上がった状態でする会話は不毛だ。
     三人共存外しっかりした足取りで帰路を仲良く歩いていると、道路を挟んで反対側の歩道に、よく知っている人物を見付けた。
    「あれー一郎君じゃない?」
     エツ子の無邪気な呼び声に反応して、一郎がビクッとする。おーいと手を振るエツ子に狼狽えている。
    「エッちゃん、一郎君困ってるから…」
     一郎は真吾の姿を見付けると道路を渡って来た。コンビニにでも行ったのだろうか、ポケットに突っ込まれた手首にはビニール袋が下がっている。
     近付いてくる息子を見て真吾が呟いた。
    「しまったな…」
    「真吾君?」
    「一郎君今晩は。どうしたの?こんな夜中にこんな所で。」
    「散歩だ。」 
     挨拶を返しもせずエツ子に答える一郎の目は、真っ直ぐ真吾に向けられていた。真吾の見慣れぬ格好を訝しんでいる。
    「一郎、ちゃんと挨拶しなさい。今日は二人のお祝いで食事に…」
     真吾が説明しようとするのを無視し、一郎は身を屈めて真吾の匂いを嗅くと、途端に表情を険しくさせる。
    「飲んだな?」
    「うう…一郎これは」
    「酒は飲まない約束だろう!」
     一郎の突然の怒りにメフィスト夫婦は仰け反る。
     何も言えないでいる真吾をきつく睨むと、一郎は踵を返して歩き出した。追いかけようとする真吾に、付いて来るなと怒鳴る。
     拒絶されて立ち止まってしまった真吾は、一郎の背中を見送って深い溜め息を吐き項垂れた。
     失意の真吾に恐る恐るエツ子が訊く。
    「お兄ちゃん、一郎君何に怒ってるの?」
     うーんと後頭部を撫でながら、真吾は振り返る。
    「油断したなぁ。一郎とお酒を飲まない約束をしていたんだよ。」
    「なんで?あ、これ聞いてもいいの?」
    「一郎は僕がお酒を飲むのを嫌うんだ。」
    「初耳だ。だから真吾君いつも飲まないのか。」
    「体はまだ子供だというのもあるしね…。特別な日にごめんよ。気にしなくて大丈夫だよ。」
     まさかこんな所で会うなんてね、と真吾は何でもないように笑ってみせるが、二世は一郎のあの激しい反応が気になった。普段声を荒げたりはしない子だ。
     二世はエツ子と話しながら歩き始めた真吾を注視する。笑顔とは裏腹に、焦っている様に見えるのは気のせいだろうか。


           ✡✡✡
     
     
     何度目かの着信で一郎はやっとスマホを手に取ったが、表示を見てまた机の上に放り出した。三世はその様子に呆れながら、パタパタとハタキを掛けていく。
     一郎はいつものように書斎机に長い脚を乗せて魔術書を開いているが、さっきから同じページを行ったり来たりしているようだ。
    (そんなに気になるなら素直に電話に出ればいいのに。何を意地張ってんだか。)
     三世は、昨日の夜の出来事を今朝両親から聞いていた。一郎の三世に対する態度は普段と全く変わらないが、心此処にあらずで落ち着かない。恐らく心中は落雷暴風大雨だろう。
     メッセージの着信を知らせるスマホをチラッと一瞥すると、一郎はまた無視した。三世は腰に手を当てやれやれと首を横に振る。
    「悪魔くん…出ればいいじゃん電話。」
     一郎は読んでもいない本から目を上げると、三世を前髪の奥から見た。口出しをするなと目で言っている。
    「伯父さんと喧嘩したんだって?」
    「喧嘩じゃない。」
    「なんでもいいけどさ…気になってんなら話してみりゃいいじゃん。」
    「煩い。」
    (うるさいだと?今漢字で言っただろ絶対。)
     三世はイライラが腹の底から湧いてきたがぐっと抑える。ここでも喧嘩を始めたらそれこそ地獄だ。
    「伯父さんがお酒飲むの、何でそんなに嫌なんだ?」
     すかさず何か言い返してくるかと思ったが、意外にも間が空きおやと思う。一郎の目線が虚を見詰めている。
    「…何でもだ。」
    「そう云えばパパ達が飲んでても何も言わないよな。それはいいのか。」
    「他の連中はどうでも構わない。」
    「俺も?」
     答えない。少し考えている。
    「…ダメだ。」
     どういう基準なんだ。三世は首を傾げハタキで肩をトントン叩く。
    「自分は?」
    「僕が?酒を?」
     何を言っているのか、と顔を顰める。今一郎が何に引っかかったのが全然分からない。
    「昨日はさ、パパ達の結婚記念日だったんだ。特別な日だったんだよ。オシャレして、ちょっといいレストラン行って、伯父さん、パパ達をお祝いしてくれたんだ。そういうお店ではお酒を頼むのは礼儀だし、伯父さんはいいワインを注文してくれて、一緒に飲もうって流れになったのは自然だよ。」
    「だから何だ。」
    「そう云う理由があるのに、伯父さんを責めるのは可哀想だって言ってんの。しかも、怒る理由がただ嫌だからなんて、子供じゃあるまいし。」
    「でも約束だったんだ。約束を破られた僕には怒る権利がある。」
     一郎らしくない。いつもなら理詰めで自分の正当性を主張するだろうに。言葉の歯切れも悪い。
     なんだかイライラが冷めてきた。ふむ、と三世は腕を組む。もしかしたら、一郎自身も何故嫌なのか分かっていないのではないだろうか。
    「伯父さんが酔っ払うのが嫌なのか?酒癖悪そうには見えないけど。」
    「違う。」
    「体は子供だから健康が心配とか?」
    「…それもあるが違う。」
    「飲むこと自体が問題なの?」
    「…そうだ。」
     お酒の影響で引き起こされるあれこれが問題なのではなくて、そもそもお酒自体に関わらせたくないのだ。
    「なんでさ…」
     一郎は口を閉ざす。やはり答えを持っていないのだ。一郎は自分でもそれに気付いているのだろう、明らかに動揺して目に落ち着きがない。
    (もうこれ以上突っ込んで訊くのは可哀想だな…)
     また一郎のスマホが振動を始めた。一郎はスマホを暫く眺めていたが、諦めない真吾に根負けして漸く電話に出た。三世はやっと話す気になったかと一瞬喜んだが、それはあっさり裏切られた。
    「掛けて来るな。」
     一言それだけ言うと、呼び掛ける真吾を無視して無慈悲に通話を切った。あーあと三世は天井を仰いだ。


           ✡✡✡


     取り敢えず状況を報告すると、メフィスト二世はレタスを千切りボールに入れながらあははと笑った。
    「珍しく本気だねぇ、一郎君。」
    「笑い事じゃないよパパ…」
     あの親子に何かあると真っ先にとばっちりが来る三世には他人事ではない。牛乳をコップに注ぐとテーブルに座る。
    「放っておいても大丈夫だよ、なんだかんだ言って一番一郎君のこと理解してるのは真吾君だから。」
    「一日中ずっとスマホと戦ってたよ。伯父さんもなかなか諦めないよね…」
    「諦めない所は先代悪魔くんの強みだからね。」
     牛乳を一口飲んで、はたと気付く。そう云えば今日ホットケーキもココアも作ってない。うーんと三世は唸る。
    「結構深刻な状況なのかも。」
     二世にシェイカーを渡され、三世はシャカシャカ振り始める。
    「悪魔くん、嫌な気持ちになる原因が自分でも分かってないみたいなんだよね。そんな事ってあるかなぁ。」
    「一郎君は感情に鈍感なところがあるからねぇ。」
     二世は寸胴の蓋を取る。今夜は牛肉たっぷりのビーフシチューだ。クルクルとシチューをかき混ぜながら、息子の顔を見る。思案顔でシェイカーを振っている。
     二世は短く息を吐いた。
    (こういう事ってどう教えたらいいんだろう。)
     一郎のお酒に対する反応は、恐らく彼の失った記憶が関係しているのではないだろうか。その記憶は本人が封じたのか、誰かに封じられたのかは謎だが、一郎の境遇と酒が並ぶと嫌な想像しか浮かばない。
     三世の話からすると、一郎は体の小さな人間、つまり子供と酒との関わりに強く反応を示している。
     悪魔儀式にはよく、混ぜ物をした強い酒を使うと聞く。
    (知識として知るのと、友達が実際に遭遇したかも知れない事実として知るのとでは衝撃が違うからなぁ。)
     三世は人間の善性を信じているところがある。悪魔でも眉を顰めるような残忍な人間が存在する事は知っているが、道ですれ違った人がそうかも知れないという生々しさは知らない。
     いつか嫌でも知る日は来るし、知らなければならないが、当分知らないままでいて欲しいと云う思いもある。
     まだシェイカーを無心に振っている息子に苦笑いする。
    「三世君、そろそろドレッシングよろしいでしょうか?」
    「あ。」
     三世は我に返って手元を見ると、完全にムース化したドレッシングが出来上がっていた。エヘヘと笑いながら父親にシェイカーを差し出す。
     スマホを持ってリビングを出ると、後ろでブシュッという音とうわっと叫ぶ声が聞こえた。
    (パパごめん…)
     階段を上りながら電話番号を検索する。自室に入ると一旦ベッドに腰掛けスマホを枕の上に放るが、気を取り直しスマホを拾い上げると、通話ボタンをタップした。
     数回の呼び出し音の後に聞こえた声は、いつもの落ち着いた声だった。思わず三世は立ち上がる。
    「あ、真吾伯父さん、三世です!」
     電話する機会などほとんど無いので、三世は妙に緊張して声が上擦った。部屋の中をぐるぐる歩き回る。
    『今晩は三世君。どうしたんだい?』
    「えっと…悪魔くんの事で、その、心配してるかと思って様子を伝えようかと…」
    『ありがとう三世君。』
     三世はホッとすると、ベッドに戻りそのままストンと正座した。
     父親に話したよりも少し丁寧に、ゆっくり説明する。その間真吾は三世の話に口を挟まず黙って耳を傾けていた。
    『そうか…』
    「悪魔くんはあんな態度でしたけど、ホントは伯父さんと話したいんじゃないかと思うんです。誰かに話すことでモヤモヤが整理されたりする事ってあるし。悪魔くんに色々訊いてみて思ったんですけど、あいつ、気持ちの説明が出来ないから伯父さんと話すの避けてんじゃないかなって思うんです。自分でも分かってないって事を知られたくないんじゃないかな。伯父さんには特に弱み見せたくないって所あるから。」
    『うん、そうかも知れないね…でも今日は僕も悪かったんだ。電話じゃなくてちゃんと会って話さないとね。一郎が会ってくれたら、だけど…。一郎の事心配してくれてありがとう。三世君は本当によく一郎の事を見てくれてるね。』
     三世は照れてスマホを持っていない方の掌を膝にグリグリ押し付ける。
    『明日研究所へ行ってもいいかい?』
     三世はパッと顔を上げる。
    「はい、大丈夫です!明日は依頼の調べ物で一日外出する予定だったので、元々研究所は開けないつもりだったんです。調べ物は俺一人で十分だし。思う存分喧嘩してください。」
     電話の向こうで真吾があははと笑う。
    『ありがとう。』
     息子にあんな扱いをされて傷付いていないかと心配だったが、真吾の明るい様子に三世はひとまず安心する。
     三世は研究所を出る予定の時間を伝えると、待ってますと一言添えて通話を切った。


           ✡✡✡


     三世が通話を切ったのを確認すると、真吾も画面を落とす。
     一郎は本当に良い友人と出会えた。三世を、周りを思いやれる子に育てた妹夫婦はひたすら尊敬するばかりだ。
     真吾はスマホを置くと、椅子に深くもたれた。
    (また泣かせてしまったな…)
     一郎がまだ小さかった頃、一度だけ今回の様に泣かせてしまった事があった。
     二世から旅行土産にワインを貰った時だった。
     ワイナリーがブドウから開発したオリジナルワインで、専門雑誌でも紹介されたことがあるんだよと、二世は語っていた。
     一郎を寝かしつけた後、書き物をしながらワインを一人楽しんでいたら、目が覚めてしまった一郎が起きて来た。ドアの向こうから半分寝ている顔が覗く。
    「淋しくなっちゃったかな?おいで。」
     一郎は真吾の顔を見てホッとした顔をして駆け寄ってくると、机に座る真吾の膝によじ登ってマントの下に潜ろうとした。真吾は尻を支えてそれを助けると膝の上に抱えた。
     マントで覆ってやると僅かに顔を緩ませたが、机の上を見ると表情が一変した。
     一郎はいきなり真吾の顔を掴み、口に手を突っ込もうとする。慌ててその手を握る真吾の口を覗き込み、何もないことを確認すると、机を振り返って思いっきりワインを蹴り飛ばした。
    「わぁーっ!一郎ー!」
     ワイングラスは半分残っていたワインを机に撒き散らしながら落ちて床で粉々になり、ボトルはテーブルまで飛びその上を滑ると床に落ち回転して止まった。机からは雫が落ち、床の上には赤い水たまりが出来た。赤いワインに汚れた紙束の、書きかけの文字が滲んで溶けている。積み上げた本には飛沫が飛んだ程度で、それがせめてもの救いだ。
     一郎は唖然とする真吾の首にしがみついて動かない。何が気に食わなかったのだろうとその顔を覗き込むと、色を失った顔を強張らせぐっと下唇を噛んでいる。
     これは腹の虫の都合では無さそうだ。
    「一郎?どうしたんだい?」
     微かに震えている背中をさする。しっかり抱きしめて揺らしてやると、だんだん体から力が抜けていった。
    「どうしたの、何が嫌だったの。」
     両手で頰を包み顔を合わせると、一郎の大きな目から、ポロっと大粒の涙が落ちる。指で拭ってやると、小さな口を一生懸命動かして答えた。
    「アレが嫌。」
    「アレ…ワインの事かな?」
    「アレはダメ」
     ワインがダメ…?口にするなと云うことか。
     もしかしたら。
     真吾は一郎の頭を抱き締めた。一郎は真吾の肩に顔を押し付けぎゅっと目を瞑る。ひとつ涙を落としたきり、しがみつくばかりで上手く泣くことも出来ない。それが不憫で思わず抱き締める腕に力が入る。
    「飲んじゃダメ。」
    「分かったよ一郎、約束する。もうお酒は飲まないよ。」
     その日から、真吾は一郎の前であろうとなかろうと、余程の理由がない限りお酒を口にすることは無くなった。あんなふうに一郎を苦しめる事はしたくなかった。
    (たとえ成長してもあの子の心の傷は癒えているわけではないのに。父親を名乗りたいならもっと自覚を持たないと。)
     目の前の揃えた白い紙束の、書きかけの文字を見詰める。


           ✡✡✡


     真吾が研究所に入ると、三世がわざわざ玄関まで出迎えてくれた。
    「悪魔くん、真吾伯父さん来たぞ。」
     三世が先導して室内に入ると、一郎は真吾を見るなり書斎机の上に伸ばしていた脚を戻し、椅子から立ち上がる。
    「一郎」
     スタスタと部屋の奥へ行ってしまう一郎を追うのを躊躇う真吾に、三世は言葉で背中を押す。
    「伯父さん大丈夫ですよ、ただのツンデレなんで。」
    「ツン…?」
    「あんな仏頂面ですけど、悪魔くん、伯父さん来てくれて結構喜んでますよ。」
     三世が不安げな真吾にうんうんと頷いてみせると、やっと少し真吾に笑顔が戻った。
    「じゃ、帰りは夕方になるんで、よろしくお願いします。」
    「行ってらっしゃい。」
     ニコニコと出ていく三世の背中を見送ると、真吾は一郎のいるムックへ向かった。
     こちらに背を向け寝台に横たわり本を読んでいる。
     丸い背中に向かって真吾は寝台の上に正座し、その背に触れようと手を伸ばしたところで一郎が口を開いた。
    「あんたは可哀想なのか?」
    「え?」
    「メフィストが、理由もなく責めるのは可哀想だと言った。だから不快の根拠を探ってみたが分からない。根拠が明示できない感情は表に出してはダメなのか。」
    「全ての感情に明確な理由が必ずあるわけではないよ。だからそれでいいんだ。」
     真吾は一郎の左目にかかった髪を後ろへ流してやった。細い髪が指の間を滑る。窓から差し込む光を受けて毛先が透き通っている。こんなふうに触れたのはいつ以来だろうか。
    「一郎、約束を破ってごめんね。君は僕を想って言ってくれているのに。」
     一郎は寝返り、真吾を見上げる。
    「そうなのか?」
    「たぶん君は無意識の内に僕を守ろうとしてくれている。」
    「どうしてそういう結論が出る?」
    「本人には分からなくても、言動や感情の動きから周りが気が付く事もあるんだよ。」
    「それは一体何なんだ、教えろ。」
     一郎は身を起こすと真吾に迫るが、真吾は困ったように微笑むだけで口を閉ざした。
     暫く無言の応酬をした後、長い溜息を吐いて一郎は顔を逸らした。
    「あんたはいつもそうだ。」
     自分自身の事なのに知ろうとすると止められる。この件も失った過去に関わる事なのだろうと察しはついている。
     真吾は何をどこまで知っているのか。何故隠そうとするのか。何から庇おうというのか。
     もどかしくて腹立たしい。起こってしまった事実にいちいち繊細に傷つく子供ではもうないと云うのに。
     真吾は一郎の不機嫌な横顔に真摯な目を向ける。
    「一郎、もう二度と約束を破ることはないよ。」
    「それは理不尽にあんたの行動を制限していることにならないのか。」
     真吾はフフと笑う。
    「もともとお酒が凄く好きというわけでもないし、脳萎縮は避けたいし、理不尽ではないよ。飲む理由がなくなっただけだ。そんなことより一郎の気持ちの方が僕にとってはずっと大切なんだよ。」
     悪いものから真吾を隠すようにしがみついていた小さな手を思い出す。あの時からずっと約束で守られてきたのだ。
     真吾は、無造作に太腿の上に投げ出された一郎の、しなやかで長い指を遠慮がちに握った。
    「ありがとう、一郎。」
     真吾を見返す一郎の目は、嫌だとやっと口にできたあの時の目だ。上手く泣けないのはあの頃から変わらない。
    「一郎の守るべき範囲の中に僕がいたのは意外だったよ。なんだか照れくさいね。」
     小首を傾げて笑う真吾に、何を言っているんだと胸の内で呟く。この想いは無意識なんかではない。小さな頃からもうずっとだ。
     一郎は重ねられた手を握り返すと乱暴に引き寄せた。バランスを崩した真吾の体を胸で受け止め、その勢いのまま一郎も後ろへ倒れた。ごめん一郎と焦りながら起き上がろうとする真吾の軽い体に手足を絡め動きを封じる。真吾の鼓動が胸に伝わって来る。
     いつの間にか開いてしまう二人の時間の差。置いていきたくなどないのに、この人はきっとそれが当然の事のように手を振るのだろう。
    「そんな当たり前のことで簡単に喜ぶな。」
     限られた時間を少しでも引き延ばす為に真吾をなるべく危険から遠ざけたい。だが、真吾は悪魔くんを引退したくせに気付くと何故かいつも渦中にいて、自らを粗末に消費しようとする。生者必滅の外に在るかのような強い存在感を持つのに、ほんの束の間目を離した隙に消えてしまいそうな危うさがある。
     幼い頃は真吾の体に残る幾つもの傷が怖かった。真吾が見えない学校に籠もっている事に密かに安堵している事を、この人はこの先もずっと気付かないままだろう。
     一郎は真吾を羽交い締めにしたまま身を返し真吾を下にする。動揺して真っ赤になった顔を見下ろしていると、真吾は掠れた声を出した。
    「どうしたんだ一郎。」
    「別にどうしもしない。」
     真吾の熱を持った頬を親指でなぞった。途端に父親の顔から埋れ木真吾の顔に戻る。一郎は微かに微笑むと、擦り付けるように真吾の細い首筋に顔を埋めた。左手で包む小さな頭をぐっと寄せる。顔をくすぐる柔らかい髪は陽だまりの匂いだ。体の重みのままに、離れようとする真吾の抑え込む。
     きっとその気になればこの人をどうにでもできてしまえるのだろう。一郎にはそれが悲しかった。
     諦めてそっと背に添えられた優しい手に、一郎は目を閉じる。あくまで父であろうとする真吾に、もどかしくも不思議な安堵があった。この世にこの人唯一人だと思えてしまう。
     この時が永遠に続けばいい。一郎は真吾を抱き締める腕に力を込めた。まるで体の内に隠してしまおうとでもするかの様に。



                  二〇二四年七月十日 かがみのせなか
     
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