面倒な訪問者 一郎から教えを請われた原始宗教の信仰心理構造の説明資料として持ち出した本を、本棚の掃除がてら整理して戻していた。ついでに床や机の至る所に積み上げた本を片付け始めたら、思っていたよりも量がありなかなか終わらない。少しの休憩のつもりで手元の本を開いた。それからもうかれこれ一時間が過ぎた。
真吾は本に落とされた目を上げる。
書斎に羽音が聞こえた。また来たな、と呟く。
特殊な魔力が空間を瞬時に満たすが、攻撃の意思を感じないので、真吾はそのまま放置して本に戻る。用もないのにもう何度も来るので慣れてきていた。気を緩めるのは危険だと分かってはいるのだが。
一郎の気配に惹かれて来たのだろう。だが一郎はもうとっくに人間界に帰ってしまった。放っておけば諦めるだろう。
それから半時後、真吾は溜め息と共に本をパタンと閉じた。
まだいる。
真吾はしょうがないなと立ち上がると扉を開き書斎に戻った。
赤い天使はソファの背の上に不機嫌な顔をして腰掛けていた。真吾の姿を見るとすかさず文句を言い出す。
「遅い。」
「それは申し訳なかったね。」
勝手に来た相手に謝罪する謂れなどないが、真吾は緩く受け流すと、テーブルの上の本を数冊抱えた。ストロファイアはソファから降りると真吾の周りをうろうろ飛び回り、真吾の抱えた本を覗き込む。相変わらず重力を感じさせない子だ。
「一郎はもうここにはいないよ。」
「呼び出して。」
「呼び出したところで来るわけがないよ。帰ったばかりだし、もう用事はないんだから。」
真吾は再び書庫へ向かう。ストロファイアがその後ろをフラフラと飛び、真吾の癖毛を弄りながらついてくるが、好きなようにさせてやる。暇なのだろう。
もうすでに本で埋まっている床の隙間に持ってきた本を置くと、タイトルを一つ一つ確認していく。分類だけでも一苦労の量だ。
「何この部屋。」
本の山の一つに腰掛けると、ストロファイアは爪先で足元に積み上がる別の山を突付いた。バサバサと本が崩れ落ちる。
「こら。」
「人間はこんな物を頼りにしてるの?同じ人間が書いたこんな信憑性の曖昧な物。絶望的に情報が足りないし間違いだらけ。この程度の知識しか持たない人間が真理の探求なんておこがましいね。なんて愚鈍でくだらない存在だろう。それで僕らと対等のつもりでいるんだから失笑だよ。」
「今日はやけに機嫌がいいじゃないか。」
フフと笑い余裕を見せる真吾に、ストロファイアは不機嫌な顔になる。真吾はトントンと本棚に抱えた本を並べていく。揃う金字の背表紙が美しい。
「君には退屈だろうけど、人間はそれでいいんだ。情報が足りていないのは当たり前だし、誤りがあってもそれでいい。だからこそ研究する価値がある。重要なのは、その時先人が何を見て何を考えていたのか、何を伝え遺そうとしたのか、何を恐れたのかを知ることだよ。先人を知りそこに今の全てを書き加える。命の短い人間はそうやって少しずつ知識を広げて先へと繋いでいくんだよ。」
「そうやって無知であることを棚に上げていつまでも陶酔していればいいよ。」
「僕らはそうやって上手くやっているんだから、それこそ余計なお世話だ。それとも、憎まれ口を叩きながらも人間を理解しようとしているのかな?」
ストロファイアはカチンと来て宙に舞い上がり、真吾の背後に近付き抗議する。
「気色悪い!冗談でもやめろ!」
「あはは、怒らせてしまった。君は反応が分かり易くてまるで子供のようだね。微笑ましいよ。」
「君、どんな目に遭ったのか忘れてしまったみたいだね。」
真吾は本棚に立て掛けた杖をゆっくり手に取るとクルリと振り向き、杖で床をトンと突いた。刹那、ストロファイアの体が痺れその場にドンと落ちる。床に落とされたストロファイアは唖然として真吾を見上げた。真吾は穏やかに微笑む。
「話す時は相手と目線を合わせるのがマナーだよ。」
「こうやってアエシュマも調教したの?」
「君は言葉選びに気を付けた方がいい。人間の言葉は君には難しいのかな?仮にもあの子を愛しているなら、そんなふうに言うものじゃないよ。」
真吾は本棚に杖を立て掛ける。
「仮にもなんて失礼だな、アエシュマは僕の物だ。アエシュマは特別な子なんだから人間と同じ場所に堕とさないでよ。アエシュマを返して。」
「君も大概しつこいね、もう本当は君にも分かっているんだろう?一郎は自ら生きる場所を選んだんだ。人間界で守るべき物を見付けたんだよ。」
真吾は不貞腐れて座るストロファイアに目を遣り、首を傾げた。
不思議な子だ。落とされたのに反撃もせず座れと言われれば座る。話をすれば、その口から出てくる言葉こそ攻撃的だが無視はしない。どうせすぐ帰るだろうと思っていたのに、嫌いな人間の中でも最も憎いであろう真吾と会話を続けている。
頻繁に見えない学校に来る事、そして今ここに居続ける事には何か目的があるのだろうが、何を考えているのか読めない。
やはり警戒は解くべきではない。だが−−−
ストロファイアは伸ばした脚をブラブラ揺らしている。
本当に暇なだけなのかも知れない。
「一郎を呼び出したいなら簡単だよ、僕を攻撃すればいい。ソロモンの笛を持ってすぐ来るよ。」
「何言い出すのかと思えば気でも狂ったの?今後の参考にはするけど。」
おや、と真吾はストロファイアを見る。もう今回は一郎と会うことを諦めたようだ。それなら帰ればいいのに。
「暇なら本の片付けを手伝って欲しいんだけどな。」
「はぁ?労働?何で僕が。」
真吾は端に避けた本の山を指差しにっこり笑う。
「戻す場所が最上段で、梯子を使わないとならないから後回しにしていた本なんだ。君が手伝ってくれたらすごく助かるなぁ。」
「しょうがないな…」
ストロファイアは本棚を見上げ溜息を吐いて立ち上がると、本を拾い始めた。頼んだ真吾本人がびっくりする。
真吾は確信した。本当に暇なんだ。間違いない。
ストロファイアは数冊本を抱えるとフワフワ飛んで真吾の指示した段に並べ始めた。翼が空気を動かして本棚に溜まった埃が舞う。これは失敗だったかも知れない。
真吾も片付けを再開するが、頭上から降ってくる埃にくしゃみを連発し、やれやれとマントを被る。
「人間である一郎に人間界を壊させようなんて、そんな残酷な事を大好きな子にさせようとする考え方は僕には到底理解できないけど、僕は、君の一郎への愛情を少しは信じているんだ。」
「何急に気持ち悪い。」
「君がいなかったら一郎は今生きていないだろうからね。」
真吾はコンコンと軽い咳をする。
「寄る辺の無いあの世界で幼い子供が健康に暮らしていた。怪我もしていなかった。君がよく面倒を見ていたからだと思う。一郎はそれを忘れていないよ。」
一郎は胸の奥底に残した記憶を大切にしている。それは一郎の過去に重要な意味を持つからばかりでは無い筈だ。
小さな頃からそうだった。一郎はふとした事から思い出の欠片を見付けるとそっとポケットへしまい、度々取り出し眺めては欠けた所を調べ、それを頼りにそこに繋がる欠片を探していた。少しずつ集めた破片が濁った色ばかりではない事は、眺める一郎の眼差しを見れば分かる。
「君と、悪魔くんになった一郎、二人の立場は今とても複雑だけど、あの頃君が一郎を大切にしていた事は無かったことにはなっていないよ、大丈夫。」
ストロファイアは真吾の背後に降りると、真吾の頭に乗った埃の塊を払い落とした。頭を押さえて真吾は振り返ると、ストロファイアにありがとうと微笑みかけた。
ストロファイアは口をへの字に曲げると、視線から逃れるように顔を背けた。
「まさか君に慰められることになるなんて心外だよ。」
「一郎が君を慕うのは保護者としては複雑な気持ちだけど、でも君は一郎の一部になっているからね、それでいい。君と僕を父親に持って、あの子は『一郎』なんだ。まぁ、一郎は僕を父親と認めてないかも知れないけど…」
ストロファイアは心底驚いた顔をして、しょんぼりしている真吾を見詰めた。
ゆっくりと顔に明るい色が広がっていき、瞳に光が点る。
急に様子の変わったストロファイアに真吾は戸惑い、何か変な事を言ったかなと自分の言葉を反芻した。
「へえ、そうなんだ。君にとって僕はそういう存在なんだね、そうなんだ…!」
え、どういう存在?
ストロファイアは嬉しそうに笑うと、突然翼を大きく広げた。艷やかな赤い翼の美しさに目を奪われる。ストロファイアは咄嗟に杖を取り後退りする真吾に顔を近付け頬に触れた。
「僕が光を解放する時、君は特別に助けてあげるよ。」
真吾はストロファイアを見据え首を横に振る。
「君は、君にとって不都合なことを全て排除して抱え込むのか。そんな世界に生き残ったって僕は嬉しくないよ。僕は違う。僕の目指す世界は、人間も悪魔も妖精も、君もいる世界だよストロファイア。」
ストロファイアはアハハハと声を上げて笑った。
真吾の腕を掴んで強く引き腰を抱え込み、翼をバサリとはためかせた。真吾の足が床を離れる。風に煽られて床に置いた本が崩れ一斉に白いページをひらめかせ、本棚から本が次々に落ちていく。
離れていく床に真吾は困惑しストロファイアを見上げた。
「急にどうしたんだい、ストロファイア。本、折角片付けたのに。降ろしてくれ。」
「なんでさ」
ゆっくりと空間が歪んでいく。気付いた真吾は杖に意識を集中する。ストロファイアはフフっと笑い、真吾の手から杖を払い落とした。遥か下でカツンと音が聞こえた。真吾はストロファイアを睨む。
「ストロファイア。」
「何もしないよ。飽きたんだよこの部屋。散歩にでも行こうよ。」
空間が赤く塗り替えられていく。無数の赤い羽が降り注ぐ。真吾は焦りを堪えてストロファイアの様子を冷静に観察した。
何を考えている?殺意は感じられないが。
「僕らは一郎の父親なんだろう?それって君たちの世界では家族って言うんだよね、そして僕達は夫婦。」
ん?
真吾の思考が一瞬止まった。
真っ青になって首をブンブン横に振る。
「重大な誤解をしているよストロファイア!そうなんだけどそうじゃないんだ。説明するから一旦落ち着いて…っていうか、え?なんで?君僕の事嫌いだよね?一郎を返せって散々恨み言を言ってたじゃないか。」
ウフフと笑うと真吾の肩に頭を乗せる。
「なんだろうこれ。なんかすっごくフワフワする。君が言ったんだよアエシュマは僕達の子だって。それって愛の結晶とか、かすがいとか言うやつだ。」
どこで覚えたんだそんな言葉。
真吾は脚をバタつかせてどうにか逃れようと抵抗するが、胴に回された腕を余計に強く締められてしまう。
「夫婦は愛し合うものなんだろう?僕達はおしどり夫婦だ。」
真吾は違うと心の中で叫ぶが、はしゃぐストロファイアが気の毒で口に出せない。
ストロファイアは真吾を翼で包み込んだ。赤く塗りつぶされた空間のあちこちに破れ目ができ、そこから強い光が溢れ始めた。
空間移動だ。まずい。
「ちょっと待ってストロファイア…何処に行くんだ。」
「これなら彼女も大満足!おすすめデートスポットBEST5。」
どこかで落ちてた雑誌を拾って読んだな?
眩しさに耐えきれず真吾は両目を固く結んだ。真吾を庇うようにストロファイアは翼を寄せ、真吾を抱き締める。耳元で大丈夫だよと囁くストロファイアの声が甘くて、真吾は激しく動揺した。図らずも顔が真っ赤になる。
兎に角、落ち着いたら説明だ。
二〇二四年七月十九日 かがみのせなか