今日の君と明日を待つ サクラサク
その一報を桑名に送ったのは、一二時半を回った頃のことだった。メッセージを打ったアプリを閉じる間もなく、すぐさま着信のバイブでスマホが震える。通話のアイコンを押すや否や、明るく弾んだ声がスピーカーから流れてきた。
「松井? おめでとお! 良かったぁ、発表、一二時だったでしょ? なかなか連絡来ないからハラハラしちゃったよぉ…」
桑名の勢いに気圧されて、苦笑しながら答える。
「一二時じゃ君、まだ授業中だろう? というか、今も昼休みとは言え学校じゃないのかい? 通話して、いいのか?」
「大丈夫、松井からかかってこなかったら僕から電話するつもりだったから、誰もいない部室にいるよ」
「かかってこなかったら落ちたってことだと思わない? よくそんな気まずいときに自分からかけようと思えるね」
合格した者の余裕で揶揄うように答えると、
「んー、でももし落ちてたら、僕が一番に慰めたいやん」
とさらりと返されて、思わず頬を押さえる。僕の年下の彼氏は、相変わらず、電話口でもめちゃくちゃ男前だ。
「それに、もしそうなら松井が迷う前に、他の大学に行かないであと一年頑張って、って言いたい下心もあったりして」
…しかも可愛い。そのちょっと照れ笑い混じりの声はなんなんだ。本当にずるい。紅潮して緩む頬を片手で押さえたまま僕が絶句していると、桑名は柔らかい調子で続けた。
「でもやっと、もうすぐ一緒に居られるようになるんだねぇ。ほんとうに、合格おめでとう」
「ありがとう。…嬉しいよ」
素直にそう答えると、改めてじわじわと喜びが込み上げてきた。
ああ、早く会いたいな。会って、顔が見たい。前髪をよけて、あのあたたかい蜂蜜色の瞳に僕を映して、「まつい」って、名前を呼んで欲しい。それから。それから?
桑名にして欲しいことを考えだすととめどがなくなりそうで、押さえていた頬をぺち、と一度はたいて、せめて声くらいは何とか落ち着いたふうを装う。
「卒業式が済んだら、一度、住む部屋を探しにそっちに行くよ。桑名、付き合ってくれる?」
彼が顔を輝かせたのが声の調子からだけでもわかった。
「もちろんだよぉ。卒業式のあとなら、ちょうど桜が見られるねぇ」
「京都の桜か、いいね。名所がたくさんあるんだろうなあ」
桑名と再会した夏には、来年は一緒に花火を見たいねと話していた。その約束の前に、思いがけず花見ができることになりそうだ。僕にとって、京都は長いこと想い出の中の幻想の街みたいなイメージだったから、東京で見る桜よりもきっと何倍も美しく感じられそうな気さえする。
「松井はどこに行きたい? 清水寺がいいかな? それとも、平安神宮?」
僕でも知っている観光名所の名前を挙げて、桑名が尋ねる。
「桑名の一番お気に入りの桜がいいな、紹介してよ。挨拶しなくちゃ。四年間、僕らを見守ってください、ってね」
僕がそう言うと、桑名は電話の向こうで数秒沈黙した。そして、妙に平坦な声で、
「……ずいぶん可愛いこと言うんだねぇ、松井って」
と言った。
「…子供っぽいって? 悪かったね」
む、と口を尖らせて言うと、電話口から呻き声が聞こえた。
「違うよぉ…。ああもう、今すぐ抱きしめたくなるから、あんま可愛いこと言わんで…」
どっちがだよ、桑名のほうがよっぽど可愛いじゃないか、と思ったけれど、これ以上心臓に矢を受けると致命傷になりかねないので黙っておいた。
「あとほんの少し、おあずけ、だね」
「もうずっとむっちゃいい子で待ってるよぉ、僕…」
大型犬のような彼と桜の下を並んで歩く想像をする。離れ離れでいた半年と、その前の十数年間を早く本物の桑名で埋めたかった。第一志望に合格したことよりも、これで晴れて彼といられることが嬉しいくらいに、自分が浮かれているのを実感する。
「『待て』が終わったら、どうなっちゃうか、覚悟しといてねぇ?」
まるで直接耳に吹き込まれるように囁かれた声に、思わず火傷したみたいにスマホを耳から離してしまった。
「ば、馬鹿言ってないで早く教室に戻りなよ。お昼ご飯もまだなんだろう」
ペースを乱されて早口になりながら送話口に向けて噛み付くように言うと、桑名はあはは、と笑って、はいはい、またねぇ、と電話を切った。僕は電波の繋がりが途絶えてしんと沈黙したスマホをぱたりと机の上に伏せる。さっきまで火照っていた顔が、二月の気温によって急速に冷えてゆくのが心地良く感じた。
桜が咲くまで、もうあと少しだ。
「『おあずけ』をされているのは、僕のほうも同じなんだけどな…」
小さく独り言を呟く。もう幻じゃないから、遠くにいても同じ気持ちで、今日の君と明日を待っている。
まだ耳に残る桑名の声が消えないように目を閉じて、僕はまぶたの裏に満開の桜を浮かべた。