憧れと思い出***
幼いころ忍び込んだ上官の執務室。そこに似つかわしくない児童書を見つけてこっそり自室に持ち帰った。
文字を覚えるのは難しくなかった。大人たちがそれを使って情報を読み解いて、意思疎通している。それくらいのことはわかるのだ。
文字が読めないガキと侮られていた方が動きやすかったのだが、弓弦が来て簡単に見抜かれてしまったからそうもいかなくなってしまったけれど。
その上官の部屋にあった児童書は小説だった。それは今思えばありきたりな内容で、主人公が夏休みに祖母の家に預けられたとかで田舎で生活していく話だった。都会のビル群で育った主人公は、虫が多くて娯楽も何もない否かが嫌で仕方なかったんだけど、近所に住む子供達と仲良くなっていって徐々に順応していくのだ。
なかでも茨がいちばん印象に残っているのはみんなで海に行くシーンだった。
主人公はそれまで一度も海を見たことがなくて、その夏休み近所の子供達とはじめて海水浴をすることになる。その描写があまりに鮮やかで。知らず知らずのうちに海への幻想が高まっていった。
***
「海、ですか?」
タブレットから顔を上げて聞き返した。一日の仕事を終えて、家に帰って。明日が休みにだからか、弓弦もそこにいたのだ。
質問の主である弓弦は、手に持っていたマグカップを茨の前に置いて、正面に置かれた椅子に腰掛ける。
「えぇ。以前、一緒に行きたいとお話していたじゃないですか」
確かにそうだった。ふたりの関係性が以前からすこしだけ変化してからというもの、なぜかしきりに弓弦は茨に対して『海へ行こう』と誘ってきていた。
「そうでしたけど、どうしてそんなにも固執しているんですか」
別に海へ行くことが嫌なわけではない。ただ、弓弦がこだわっていることが不思議でならないだけだった。
「いえ……なんでも。ただ、あなたと海が見たいだけです」
「随分ロマンチストですね」
らしくもない。とは思ったけれど口にはしなかった。ちょっと悩んで茨は口を開いた。
「明日、ですか?」
「もともとわたくしはお休みをいただいておりましたが、あなたは急にお休みになったと伺いました。もし、ご迷惑でなければ、ですけど」
随分殊勝な態度だ。なんだか弓弦ではないみたいな。ちょっとだけ眉を寄せたが、タブレットの画面を切って伏せる。
「いいですよ。というか、なんでそんな態度なんです。あんたらしくもない」
「わたくしも人の子ですので、気になるモノなんですよ。恋人を誘って断られたらどうしよう、とか」
嘘だろ、絶対。じろと睨みつけると、ふふっと弓弦は笑った。
「それでは、明日楽しみにしておりますから。仕事はほどほどにして早く寝てくださいね」
そう言って、部屋を後にする。残ったのは弓弦が持ってきたマグカップだけ。中に入っているのは冷めたホットコーヒーである。
(……いっつも夜コーヒーを飲んでたら『眠れなくなるでしょう』とか言って取り上げてくるくせに)
わずかに様子の違うさまに妙な不安を覚えながらも、用意されたコーヒーを飲み干した。なんだか、変なの。弓弦の様子が気になって、それ以上は仕事に身が入らない。仕方なくその日は早めに就寝した。
***
「あっつ……」
突然海水浴を決めたからか、準備に些か手間取った。茨は撮影や他のアイドルの仕事の関係などで海を訪れたことがあったが、プライベートで、となるとほとんど初めてのようなものである。何を持って行ったらいいのか正確にわかるはずもなく、弓弦に言われるまま用意した。
「茨。このあたりは人がすくなそうですから、この辺りにしましょう。パラソルを立てておきますね」
そう言って、弓弦は持ってきた荷物をそのあたりに置く。手にしていたパラソルを広げて砂浜に立てれば、丁度良い日影が作り出された。
そこに座り込んで海の方を眺める。テレビで見たり、仕事で訪れたりする海は、あまり人がいなくて波のない穏やかな青であることが多いから、いたるところに人の姿の見える海はある種自然でもあった。
「茨。更衣室は向こうです。泳ぐためには着替えなくてはなりませんからね、着替えてきてはいかがですか?」
「……水泳対決?」
「えぇ。何か勝負事がないと張り合いが出ないでしょう」
更衣室で水着に着替えてくると、そんなことを言われた。日に焼けるといろいろ面倒だから、パーカーを羽織ってあまり海に入るつもりもなかったのだが。弓弦の方を向くと、適度に鍛えられた彼の体が目に入る。
(……明るいところで弓弦の体を見るのは久しぶりだけど、なんか)
つい、まじまじと見つめてしまっていたらしい。弓弦はその視線に気付くと口角がきゅっと上がった。
「そんな物欲し気な顔しないでください」
「は!? してませんが!」
カッと顔が熱を持つ。その様子を見て弓弦はくすくすと笑っていた。
「も! いいから、勝負するんでしょう!?」
「えぇ。そうですね、何か賭けますか」
いつもそんなことを言いだすのは茨の方だというのに、弓弦が言うとは。何か賭けたいものがあるんじゃないだろうか。
「弓弦は? なにが提案するものがあるんじゃないですか」
「これといってないのですが……。あぁ。わたくしから提案したから、何か賭けたいものがあると思ったんですか」
弓弦は口元に手を当て、考え込むとひらめいたような顔をして笑う。
「では、勝ったほうは『次に休日がかぶったときに出かける場所を選べる』ということにしましょう」
「え」
「次の逢瀬の約束です」
……卑怯な奴。ぷいと顔を背ける。絶対平静より顔が赤い自信があった。
「ふふ、もしかして、照れていらっしゃいます?」
「……うるさい」
指摘しないでくれたらありがたかったのに。
「……それでは行きましょうか」
「恨みっこなしの、一回勝負ですよ」
「えぇ、もちろん」
***
**
*
「待って! もう一回! もう一回だけ!」
「やればやるほど互いにスピードが落ちていると思うんですが、まだやるんですか?」
すこし呆れたような弓弦の声に、唇を噛む。いや、単純にあとちょっとで抜けそうなのに、それでも明らかに負けたとわかるようなレースばかりさせられているから、一回くらいは勝ちを味わいたいだけっていうか。
「……そんなに一緒に行きたいところがあるんです?」
「あ、いや、そういう……わけでは」
ただ、負けず嫌いなだけだ。でもそんな子供っぽいところを相手に見られるのもなんだかみっともなくて声が小さくなる。
弓弦はしばし考えたあとで、こう言った。
「わかりました。それではこの勝負は次回に持ち越しましょう。また次回二人で出かけたときで何か賭けて勝負しましょう」
弓弦はなんか勘違いをしている。でも、なぜか最近の彼は『次の約束』を仕切りに取り付けようとしている気がした。
「どうですか?」
「……まぁ。それなら」
なんとかそう答えると、弓弦は微笑んだ。
それから、海の家に行ったり、ビーチボールで遊んだり。パラソルの下に敷いたレジャーシートに寝そべってみたり。……海って何が楽しいんだろうなんて思っていたこともあったけれど、なるほどやることがたくさんあった。
「……びっくりしました。海ってやることが多いんですね」
茨が砂浜に寝そべってそう言うと、弓弦はふふと笑う。
「わたくしも、こんなふうに海で遊ぶのは初めてかもしれません……。あ、見てください!」
わずかに興奮した様子の弓弦の声に驚いて体を起こすと、彼はにこにこと笑って海の方を指していた。
「あ……」
空がきれいなオレンジに染まっている。海と空の境界線に太陽が沈んでいく。
「……きれい」
「でしょう?」
海も空と同じオレンジ色に染まっている。嬉しそうな弓弦の声に、彼の方を見るとその横顔も照らされてオレンジ色になっていた。
「これを一緒に見たかったのです」
案外ロマンチストなんだよな。弓弦の認識を改めなきゃな。なんて。そんなことを考えながら沈みゆく太陽をいつまでも眺めていた。
***
***
がちゃりと扉を開けると、ベッドに寝そべっている茨が目に入った。
どうやら遊び疲れて寝てしまったらしい。
(……まったく。まだまだガキなんですから)
彼が寝ているベッドの傍まで歩いて行って、腰掛ける。
茨から一度だけ海の話を聞いたことがある。それは確かあの施設にいたときのことだったと思うけれど、すこしだけ言いにくそうに『海ってどんなところ?』と聞いてきたのだ。
茨は海を見たことがないのだという。昔本で読んだ海が本当に綺麗で、それで興味を持ったらしかった。
弓弦は彼の質問に答えられなかった。どんな言葉も彼が本で得た『海』のイメージには敵わないような気がして。やっぱり本物を見るのが一番だと思っていて。絶対にいつか見せてあげようと思っていた。それが、弓弦のエゴでしかないのは痛い程わかっていても、どうしてもそうしたかった。
(……まぁ。今のあなたは別にわたくしが連れていって差し上げなくても、自分でどこへだって行けるんでしょうけど)
頬に掛かる髪の毛をさらりと払ってやると、わずかに身じろぎした。
「んん……」
何も知らず、穏やかな寝顔を浮かべる様子に思わず目を細める。
(また、一緒に海に行きましょうね)
そう、心の中で呼びかけて。こめかみに軽く口付けた。