フラジャイルラバー レオナルドにとって、スティーブンは初めての恋人だった。二人目を作る予定はないので最後にもなるはずだ。
彼氏はもちろんガールフレンドの一人もいたことがなく、キスどころか手も繋いだことのないレオナルドは、恋人になったその日のうちに美味しくいただかれてしまった。
ぼくの恋人になってくれる? というスティーブンの言葉に、真っ赤になりながら頷いて。嬉しそうに蕩けたスティーブンの初めて見る表情に見惚れ、それが近づいてきたことの意味もわからず。
顎をすくわれ、重なった熱がずいぶんと長い時間をかけてから離れてようやくキスされた事に気がついた。
頭の中ははじめての経験に一気に埋め尽くされ、熱がまわりぼうっとしてしまい。
するすると服の中に滑り込んできたスティーブンの手のひらを冷たく感じるほど。
驚くほどの手際の良さで服を脱がされ、「好きだよ」「愛してる」と耳元で囁かれるたびに理性は遥か彼方へ飛び去っていく。
気がつけばいつのまにか朝になっていた。途中のことはよく覚えていない。とにかく気持ちの良かったことしか覚えていない。
あちこち軋みキスマークの残る体でのろのろとベッドの上で体を起こすと、隣では昨日まではただの上司だった現恋人が満足そうな、幸せそうな顔ですやすやと夢の中だった。
この人が恋人なのか。
朝になり少し理性が戻ってきた思考で、レオナルドはまじまじとスティーブンの顔を見る。
自分より十以上も年上で、均整の取れた肉体の上に整った頭がのっている。
レオナルドがさわさわと手をすべらせる、昨夜散々その上で泣かされたこの大きなベッドはスティーブンのものだ。
昨夜はそんな余裕もなかったけれど、室内は寝室だけでレオナルドのボロアパートの倍以上の広さがありもちろん他にも部屋はある。シックな調度はスティーブン好みらしい落ち着いた色合いで、賭けてもいいくらい高そうだった。
格差、という言葉が脳裏をよぎる。
レオナルドとスティーブンは何もかもが違いすぎた。
昨夜は憧れていたスティーブンに口説かれた嬉しさに、何も考えずに頷いてしまった。驚くほどの手際の良さでまさかその日のうちに一線を越えることになるとは思っても見なかった。
レオナルドは、昨夜は幸せだった。何も考えられないほどに。
朝になって、落ち着いて。――怖くなった。
自分が、スティーブンのように優れた人間の隣に立つことなど許されないのではないかと。
彼に好かれるような価値は自分にはないのではないかと。――なにかの、間違いなんじゃないかと。
そろそろと、スティーブンの横から離れベッドから抜け出す。
散らばっていた服を拾い集め、体に残る痕に赤くなりながらもなんとか身支度を整える。
一度、ベッドで眠るスティーブンの顔を見た。目に焼き付ける。覚えておこう、と思った。
昨夜のスティーブンの真意がどうであっても、もしなにかの気の迷いや――あまり考えたくはないが、義眼所有者を囲い込むための策だったとしても。
ほんの一晩の夢だったとしても、昨夜のレオナルドはスティーブンの恋人でいられた。
デイバッグの中から取り出した少しくたびれた手帳から一枚紙を切り離し、ペンを走らせる。
その紙を枕の上に置き。
眠る男にキスをしようか迷い、レオナルドは口をきゅ、とつぐむと気配を殺しながらベッドを離れ、寝室を後にした。
レオナルドが部屋を出ていってから十分後。目を覚ました男はその紙片に書かれた「ありがとう、さようなら」という言葉に血相を変えて寝室を飛び出した。
そしてダイナーの片隅でぼんやりとコーヒーを飲んでいた恋人を捕まえ、首根っこをつかんでそのまま自宅へ連れ戻す。
小脇に抱えられるようにして強制送還されたレオナルドは、ひどくうろたえ、戸惑い、泣きそうな顔をしていた。
リビングのソファにとりあえずと並んで腰を下ろし、スティーブンは焦る気持ちを押さえ込みながらできたばかりの恋人――そのはずだ――を優しくなだめ、抱き寄せ、愛を囁やき。
さみしいから、勝手に行ったりしないでくれと言えばレオナルドは少し眉を下げた泣きそうな顔のまま、頷いた。
ハニートラップをしかけられているんじゃないかと思って一度は逃げ出そうとしたものの、連れ戻されてどうしたらいいのか分からなくなったレオナルド。
レオナルドになぜ逃げられたのかわからず、まさか初日から性急すぎたせいか、がっつきすぎたからか、もっとゆっくり事を進めないとダメだったのか、いやだって少年が可愛くて我慢できなくてついと誤解をしたスティーブン。
二人の微妙にすれ違った思惑が解決して、今度こそ本当に恋人としての夜と朝を迎えられるようになるまでにそれから実に二ヶ月以上の月日を要することになった。