15.パンケーキ「すちーぶんしゃん」
「うん?」
「えとね、だいすきー」
「そっかー」
手を繋ぎ歩いていた子供に日だまりのような笑顔とともに告げられた言葉に、自分の顔もおそらく見るに耐えないほど笑み崩れているのだろうなという自覚はある。
レオナルドが、通算何度目かスティーブンの記憶でももうはっきりとしないトラブルによって子供になった。しかも中身まで退行して。
いまの彼の記憶は三歳児あたりまで巻き戻されている。
術師の見立てでは一週間ほどで自然解呪されるということ。へたにはやく解こうとすれば術がこじれて解けなくなるおそれもあるらしい。
最初は目に埋められている義眼に混乱して身を丸めて泣いていたが、子供の順応性の高さは目を瞠るものがある。ほんの半日ほどでなんとか普通にものを見ることができるようになっていた。
記憶がないレオナルドには、目のことでここに預けられているんだよと説明した。
両親に会えない寂しさからまた泣くのではないかと思ったが、ここでもレオナルドの順応性の高さは発揮された。
好奇心旺盛な子供らしく珍しい事物に目を輝かせ――物理的に目が輝いていたので子供用遮光ゴーグルをプレゼントした――ライブラのメンバーにもすぐに馴染んでいた。
子持ちのK・Kかクラウスが預かろうと言ったのだが、皆の予想を裏切りレオナルドが選んだ保護者は僕だった。
「父親と間違えてるんじゃないっすか」といったザップは凍らせた。
ライブラのメンバーにはまだあきらかにしていなかったが、僕とレオナルドは恋人同士だった。覚えていなくても、だからレオナルドは僕を選んでくれたのかもしれない。
……恋人同士というよりも、彼の優しさに僕が依存しているといったほうが近いのかもしれないが。
レオナルドは僕の人生で通り過ぎていった他の恋人達とはまるで違う、僕にとっての唯一だった。
どんなに甘やかしてもレオナルドは僕の与えるものを当然のようち受け取りはしない。服も、宝飾品も、ゲームも、高価な食事も。むしろ、もらい過ぎだと遠慮する。
それなのに、僕に対しては惜しみなく優しさを振りまき甘やかしてくる。
スティーブン・A・スターフェイズともあろうものが十三も年下の少年の膝枕で寝かしつけられる日がくるとは思っていなかった。
僕はレオナルド無しの人生に戻れる気がしなかった。
……それなのに、レオナルドにとっての最愛は僕ではないのだ。
妹から来たという手紙、婚約者が代筆してきたというそれを嬉しそうに読む横顔。僕といるどんな時よりも満たされた微笑。
クリスマスのあと、レオナルドがつけていたのは僕が送ったマフラーではなく妹の手編みのマフラーだった。
スティーブンさんからもらったブランド物、使って汚したりなんかしたくなくてと言っていたけれど。ミシェーラ嬢の編んだそのマフラーを大事に大事に扱っていることを知っていた。
優しい、優しいレオナルド。
僕の愛に応えてくれて、そして僕のことを愛していると言ってくれるのに。それなのに、彼の心の玉座が明け渡されることはない。
幼くなったレオナルドと手を繋ぎ、反対側の手にはここまでの途中で買い求めた当座の着替えの入った紙袋を持って家路をたどる。
歩くのに疲れたなら抱いてあげよう。どんな食事が好きだろうか。ヴェデットに頼んだ子供向けの料理は気に入ってくれるだろうか。
子供用のベッドはないから一緒に眠ろう。その前にお風呂も入れてあげないとね。一人でシャンプーはできるのだろうか。
可愛い、かわいい僕のこいびと。
今の彼の心の中に、妹の存在はない。彼女が生まれる前まで戻ってしまっているからだ。
僕を見て笑ってくれるレオナルド。僕だけを見て、笑ってくれる。
その小さな手でなら王冠を僕の頭上に掲げてくれるだろうか。そのためなら、僕は小さなこの子の足元に跪いてもかまわない。
僕のレオナルドの最愛になれるのならば、跪いた足が泥で汚れても構わない。
術式が自然に解けるまでは一週間。
無理に解こうとすれば、戻れなくなる。戻らなくなる。僕は十九のレオナルドを喪って、そのかわりに僕を最愛としてくれるレオナルドを手に入れる。僕を甘やかしてくれる、あの賑やかで明るいレオナルドには会えなくなる。
心の中の天秤が揺れる。
「すちーぶんしゃん、あのね、だいすきだからぼくすちーぶんしゃんとけっこんするー」
待って天秤がすっごいぐらついた。
□□□□□□
「そんな選択もあったんだよね、って話」
一週間後。夜明け間近のベッドの中で、僕は腕に抱くレオナルドにこの一週間の心の葛藤をさらけ出した。
「……アンタ、たまにすっげーガキみたいなことで悩みますね」
そういうところが可愛いんすけど。
十九のレオナルドが、仕方無いなぁというように笑う。柔らかく、あたたかな僕の大好きな笑顔だ。
一週間。結局僕はレオナルドの術を無理に解こうとすることはせず、心の天秤はいくどもぐらつきはしたがこの夜明けのタイムリミットを迎えた。
「妹に妬くとか、ほんと笑える」
「だってさぁ、君いっつもミシェーラミシェーラって」
「しゃーないっすよ。ミシェーラなんすから。スティーブンさんだってなんのかんのクラウスさんを優先するじゃないですか。だからおあいこ」
「おあいこになるのか?」
納得しきれなくて僕はレオナルドの裸の肩にぐりぐりと額を擦りつける。
いたいっすよ、といいながらもレオナルドは僕を押しのけることなく髪を撫でてくれる。
優しい優しいレオナルド。なくしたくなかった、僕の最愛。
「……正直、あのときはちょっとさ。今の君のことを諦めて小さな君を選ぼうかと思うくらい心が揺れたけど」
「ひでーっすねー。どんなときですか?」
「ん」
僕は枕元に置きっぱなしのスマートフォンに手を伸ばす。
『ぼくすちーぶんしゃんとけっこんするー』
「……えー……」
『ぼくすちーぶんしゃんとけっこんするー』
「いや、ちょっと」
『ぼくすちーぶんしゃんとけっこんするー』
「録音してたことにドンびいてるんすけど」
『ぼくすちーぶんしゃんと』
「ああもう!」
連続再生ボタンを押していた僕の指をどかしてレオナルドが停止させる。
そしてそのままスマートフォンを僕の手の中から抜き取るとぽいっと枕の横に投げ捨てる。それから一度肩を落とし、ため息をついた後にそっと僕の手を握りしめてきた。
「結婚したいなら、今の僕がしてあげますから。それでいいってことにしてくださいよ、ダーリン?」
僕に否やがあるわけもなく。
そして僕は最愛を手に入れる。