【飯PネイP】煙るバーカウンターにて/07イエーガーマイスター その日、バー『Veil』はいつになく忙しそうだった。
居酒屋のように騒がしい客はいないものの、週末だけあって全ての席が埋まっている。ネイルさんの作るカクテルや、注がれたウィスキーをデンデが忙しく運び、キッチンへ何度も引っ込んでは、洗い終えたグラスを持って足早に出てくる。
ピッコロさんは、いなかった。
僕はカウンターの隅で大人しく待ち、やや落ち着いたタイミングを見計らってネイルさんへ話しかけた。
「ピッコロさん、お休みですか……?」
「夏風邪で寝込んでまして……開店の直前に発熱したようで。お待たせしてすみません」
カクテルを頼むのは忍びなく、今日はネイルさんに任せて出してもらったリキュールを飲んでいた。何十種類ものハーブで作られているということで、ちょっと薬のような癖のある味だ。
「昨日まで雨が続いて、肌寒かったですからね。悟飯さんもお気をつけて」
カウンターに戻ったデンデが、珍しく憤慨した様子で話に加わる。
「ピッコロさんはすぐ無理するんですよ、自分を大事にしないっていうか……こっちに移り住んで暫くもめちゃくちゃで……ネイルさんが見かねてこのお店に誘ったんです。放っておけばどうなっていたか」
デンデは手を伸ばして、小さなタルトを出してくれる。切ったマスカットが飾られて、食べるのが勿体ないほど可愛らしい。
「風邪にいいタイムティーを淹れたので、僕、熱冷ましのお薬と一緒に持って行ってきます。ちょうどお店、落ち着いたし……このカップのは、ネイルさんの分」
「ありがとう、頼むよ」
マグボトルを手にしたデンデが、店の出入口へ向かおうとしたその時、テーブルから四人分の注文が入った。次いで、もう一つのテーブルで誰かがアイスペールを倒し、氷が飛び散ると共に声が上がる。デンデは慌てて、ボトルをクロスに持ち替えた。
「デンデ、僕が行って来ようか?」
「本当ですか? 助かります」
「悟飯さん、そんなことまでさせられません」
ネイルさんはさすが店主らしくデンデを咎めたが、今はデンデの方が強かった。聞こえていない振りをして、メモ用紙に住所を書き付ける。このビルのすぐ裏手だ。ボトルと市販薬を僕に差し出しながら、囁く。
「本当はネイルさんが一番心配してるんですよ。ピッコロさんのこと、昔から、大事にしてますから」
僕は曖昧に笑い返して、ボトルと薬を受け取る。
「あ、ネイルさん! ピッコロさんの部屋の鍵、渡してください!」
氷を片付けながらデンデが促す。カクテルをひとつ作り終えたネイルさんが、困惑しながらもポケットから鍵を取り出した。
「すみません……今日のお会計は結構ですので」
梅雨の終わりの盛り場に、初春にはじめて来た時ほどのよそよそしさはなかった。もう夏の気配が感じられ、秩序なく賑やかなネオンたちは夜の闇に濃く滲んでいる。酔った人々は陽気に行き交い、湿った空気を明るいものに変えていた。
ネイルさんは、ピッコロさんの部屋の鍵を持っていた……。水煙草を共有させてもらった夜、振り返った扉の小窓から見た光景が思い出される。
角を二つ曲がり、バーのあるビルの真裏にあたる通りへ入り込むと、意外なほど静まり返っていた。アパートやマンションが並んでおり、一軒のコンビニだけが煌々と眩い。
古くも新しくもない、五階建てのマンションが、ピッコロさんの住まいだった。デンデに書いてもらったメモを見ながら部屋を探し、ネイルさんに借りた鍵で扉をそっと開ける。
部屋は真っ暗で、物音一つしなかった。眠っているのだろうか……? だとすれば起こすのは気の毒だし、かといって黙って入るのも気が引ける。小声で、お邪魔しますと声をかけ、部屋の奥へ向かう。
キッチンと、リビング、奥の扉が寝室だろう。必要最低限のものしかない部屋はひどく殺風景で、履き出し窓の側に一つだけ大きな鉢植えがあった。低木のような……何の植物だろうか……見たことのないものだ。つぼみがついているが、暗いため色は分からない。
「ピッコロさん……」
寝室の扉を開け、静かに声をかけると、ベッドに横たわる人影が身じろいだ。窓のカーテンは半分閉まっているが、繁華街に面した部屋のため、ほんの少し明かりが這い込んでいる。
「薬と、デンデのタイムティー、持ってきたから……ちょっとだけ起きて」
ベッドの側に屈みこむと、寝返りを打ったピッコロさんがうっすらと目を開けた。焦点の合わない、潤んだ瞳は、弱々しくも扇情的だった。寝乱れた服から胸元が大きく覗き、僕は思わず目を伏せる。
「……眩しい」
「目を閉じてて、薬だけだから」
発熱のため、窓からの少しの光も網膜に刺さる思いがするのだろう。額に手を当てると、思った以上に熱い。早く薬を飲んだ方が、よさそうだ。ふと、引き結ばれていた唇が、微笑の形に撓んだ。
「……いつも悪いな、ネイル」
甘く囁くような声に、心臓が跳ねた。
暗くてよく見えなかったのか、高熱で朦朧としているのか、勘違いされている……。
すぐに「違います、僕です」と正せばいいことなのに、正すべきなのに、出来ない。なんと卑怯なことだろう。ただこの人が、あんな風に抱き合い、口付けを交わす相手にどう接するのか見てみたい、確かめたい、そんな欲望があった。たとえそれを知ることで、打ちのめされようとも。
僕は無言で薬の箱を開け、目を閉じたままのピッコロさんにひとつ飲ませる。指先が唇に触れて、それだけで鼓動が乱れた。本来この寝室にいるべきはネイルさんなのに……あの時見たような口付けを、このベッドでも交わすのだろう。そしてその時は多分、口付けだけではなく……そう思い至ると、喉を塞がれるように呼吸が苦しくなった。
ボトルを開けて、背中に手を添えて助け起こす。窓から染み込む明かりはなんとも心許なくて、澄んだ若草色であるはずのピッコロさんの膚も、今は灰色に沈んでいる。
デンデのタイムティーはあたたかい湯気を立ち上らせ、優しいにおいがした。半身を起こしたピッコロさんに、ゆっくりと飲んでもらう。唇の端から零れた一筋が、首から胸を伝ってかそけく光る。
ボトルの蓋を閉めるか閉めないかの内に、ピッコロさんが僕の手を引いた。
「こっちへ来てくれ……」
求められているのは僕ではない、ネイルさんだ……そんなことは分かっていた、分かっていたが、掴まれた手の熱さ、縋るように弱々しい声色に、とても抗えなかった。ベッドへ手をつき、身体を寄せる。ピッコロさんの腕が、僕の背中に力なく回される。熱い体温と、はじめて触れる身体の厚み。発熱による汗の、かすかに甘い匂いにひどくかき立てられる。僕の肩に額を埋めて、ピッコロさんは深く息をついた。
「お前がいないとだめだ……お前がいてくれないと……」
囁く声は高熱のため掠れ、発音も確かではなかった。完璧なバーテンダーとしての姿とあまりにも違い、幼子のごとく頼りない。庇護欲に烈しく訴える、心底安堵したようなその様子に、ネイルさんへの嫉妬が湧き上がるのをもはや誤魔化せなかった。
背中にある手は、ただ置かれているだけではなく、細い指でかき抱くようだ。この手は、僕に縋っているのではない。ネイルさんを求めているのだ。あの夜、扉の小窓から見たように……そう思うと、堪らなかった。
嫉妬と欲情と本能に流されるまま、僕はピッコロさんの顔を上げさせた。はじめて瞼が薄く開いたが、眩しいのかすぐに閉じられる。涙ぐんだ瞳は、未だ焦点が合っているようには見えなかった。
頬に手をあてると、すり寄るように頭を預けてくれる。わずかに緩んだ口元に、犬歯の白ばかりが無闇と蠱惑的だった。僕の手首に落ちる浅い呼吸も、体温を孕んで熱い。親指で、濡れた唇をそっとなぞる……そこではじめて、ピッコロさんが僕の肩へ手を掛けた。
「だめだ、お前にうつしてしまう……店に戻れ……」
呟いて、僕の肩を弱々しく押し返そうとする。こんなにも縋りつきながら、最後の最後でネイルさんへの思い遣りがある……僕は生じた欲情と同じ重さの罪悪感に襲われる。
「……ごめんなさい」
聞こえたかどうかは、分からない。己が心のさまに吐き気を覚えながら、ピッコロさんをベッドへ寝かせた。布団を被せ、ゆっくりと立ち上がる。寝室のカーテンを完全に閉める。静かに部屋を出て、鍵をかけた。
忘れなくてはならない。ピッコロさんも、完全にネイルさんだと思い込んでいたのならば、その方がいい。
自分の存在を、これほど嫌悪したことはなかった。
店へ戻り、デンデに鍵を渡した。まだ忙しそうにしているネイルさんの方は、まともに見ることができなかった。
半月が経ち、仕事帰りに何気なく店へ寄った。ネイルさんもピッコロさんもいつも通りに迎えてくれて、何事もなかったかのようだ。元気そうに働いている様子にほっとして、つい声をかけた。
「ピッコロさん、すっかりよくなったんですね」
「デンデのタイムティーが効きましたね。ネイルも、悪かったな。店を抜けさせて」
グラスを磨いていたネイルさんが顔を上げ、首を傾げる。
「言っていなかったかな、あの日は忙しくて……お願いしたんだよ、悟飯さんに」
ピッコロさんが目を瞠って僕を見る。それから、ネイルさんを。僕はどうしていいか分からなくなり、両手で握ったグラスを弄んだ。
黙り込んでしまった僕らを訝しげに見て、しかし何も尋ねることはなく、ネイルさんはピッコロさんのためのヴァージンモヒートを作りはじめた。