【飯PネイP】煙るバーカウンターにて/09ウィンナーコーヒー 『Veil』の入口で、店内を振り返ったデンデが中の誰かに話しかけている。また来ますね、と挨拶をして、こちらへ向き直った。
「こんばんは。もう帰っちゃうの?」
「悟飯さん! 今日は……いえ、どうぞお店へ! 歓迎してくれますよ、きっと!」
明るく話しながら、デンデが僕の手を引く。一体なんだか分からずにいると、店の扉が細く開いてピッコロさんが顔を出した。いつもと違い、ベストはなく、シャツの袖を捲ってアームバンドで留めている。襟元のボタンも二つ外され、リラックスした出で立ちだ。
「デンデ、どうした? 話し声が……ああ、お客様」
よく見ると、扉にはCLOSEDの看板が下げられている。ずいぶん早い閉店だ。僕の視線に気付いて、ピッコロさんが肩を竦める。
「月曜は定休で……でも折角来て下さったんです、よければコーヒーでも。デンデも何か飲んで帰るか?」
「僕は帰ります、厳しい指導でくたくたなので」
デンデがふざけた調子で言うと、ピッコロさんはわざとらしく眉根を寄せた。僕らに頭を下げて、デンデは笑顔のまま階段へ歩いて行く。
ピッコロさんに促され、いつものカウンター席に座った。手挽きのミルでコーヒー豆を挽きながら、小さなやかんで湯を沸かす。店に音楽は流れておらず、沸騰しはじめたやかんの蓋がわずかに震える音まで聞こえた。
「すみません、定休とは知らなくて……」
「月曜から飲む方は少ないので。お客様も、月曜に来られるのは初めてでしょう」
言われてみれば、そうだ。店に初めて来てから半年以上経つというのに……季節は既に、過ごしやすい秋に変わっていた。
「厳しい指導って、なんですか?」
ドリッパーへ湯を注ぎながら、ピッコロさんはテーブル席を手のひらで示した。水煙草の一式、それから「ブルーベリー」「白桃」「ジャスミン」「キャラメル」「はちみつ」……さまざまなラベルの瓶が並んでいる。
「デンデがいる時は水煙草をもう少し見えるところに置いて、任せようかと……炭の熾こし方などを」
「へぇ……お店も、変わっていくんですね」
これまで水煙草を楽しんだ時は、メインの花や果物に、ハーブを添えていた。デンデならきっと、良く合うものを選べるに違いない。
先日来た時、デンデが言っていた。この店はずっと、ネイルさんとピッコロさんの二人だけで、二人はずっとお互いを必要としていたと。その長い期間のことを僕は詳しく知らないけれど、今、店にはデンデもいる。やはり、少しずつ変わっていくのだろう、どんなことも。
「少し甘いものでも。ウィンナーコーヒーです」
コーヒーの表面が見えないほどに、ホイップクリームが浮かんでいる。いつか出してもらったカクテルの、アフターエイトのようだ。一口飲めば、ホイップは見た目通りやさしく、自然と気持が綻ぶ。
「甘いですね。美味しいです」
「最後の方は、苦いですよ」
ピッコロさんは自分のために、ミネラルウォーターにくし切りのライムを入れて混ぜている。ヴァージンモヒートを作るのは、ネイルさんだけなのだろうか。
「水煙草、ご一緒しませんか? デンデが練習した炭が熾きていますし、葉を瓶に戻すわけにもいきませんから。チョコレートとピスタチオです」
「コーヒーに合いそうですね」
既に炭が熾きているので、テーブル席へ移動する。途中でピッコロさんが、カウンターのスポットライトだけを残して照明を落とした。僕が顔を向けると、皮肉っぽく微笑む。
「あまり煌々と灯していると、定休だと気付かず来る方がいますから」
「誰のことですか? それ」
目が合うと僕も笑ってしまい、満ち足りた気分に包まれた。今や間違いなくこの人を恋愛対象として見ていて、薄暗い店内に二人きりだというのに、心中は不思議に穏やかだった。
「どうぞ、お客様」
吸い口の木箱を差し出し、僕に促す。僕はその中から一つを取り出し、思いきって口を開いた。
「ピッコロさん、どうしていつまでも"お客様"って呼ぶんです? マスターのネイルさんも、今は名前で呼んでくれるんだから……ピッコロさんだって、呼び捨てでいいのに」
ピッコロさんの、炭の様子を見る手が止まった。
「前言ってたように、今は"バーテンダー"で、僕が"客"だから? でも、路地裏で助けてもらった時、あなたの普段の姿をもう見たんだから……敬語だって、いらないですよ」
僕の分の吸い口を取り付け、差し出しつつも、ピッコロさんは目を上げなかった。僕は辛抱強く待ちながら、水煙草ではなくコーヒーを一口飲む。ずいぶん長く俯いていたが、漸くのことでピッコロさんは顔を上げ、そうかもな、と小さく呟いた。
「絡まれているのが……悟飯、お前だと分かっていれば、助けなかった」
「なんですか、それ。ひどいなぁ」
言葉とは裏腹に僕は嬉しくてたまらず、水煙草のチョコレートの香りもひときわ甘く感じた。
はじめて、名前を呼ばれた。
きっとこの人は、「バーテンダー」「客」であることで、誰との間にも壁を作って生きているんだろう。それが何故なのかは、今は分からない。僕はその壁を、乗り越えられるだろうか。
「研究はどうなんだ」
「ずっと暗雲の中でしたけど、今すごく調子が良くて……成果が出そうなんです」
「そうか……どれほど理解できるか分からんが、今度、持ってきて見せてくれ」
もちろんです! と僕は色めき立つ。興味を持ってもらえるのが、心から嬉しい。これは恋心ゆえだけではなく、研究者としての気持でもあった。
「……子供のようだと言われないか? 生まれは?」
「エイジ757です、ちゃんとお酒の飲める歳ですよ。童顔だとは、言われますが……」
ピッコロさんは小さく笑う。バーテンダーとしての微笑とも、ビルの間で見た荒んだ雰囲気とも、また違っていた。
「あの、あんな風に荒っぽいの、ネイルさんとデンデだけ知ってるんですか? この街に住みはじめた頃はずいぶん荒れてたって、デンデが」
渡した水煙草を吸い、静かに長く、ピッコロさんは煙を吐き出した。吐息の音が、僕の耳を濡らす。照明の落とされた店内で、煙はなんとも頼りなく、おぼろげだ。
「この街が肌に合わなかったんだ。デンデのやつ、余計なことを……いつ聞いた?」
「ピッコロさんが夏風邪で寝込んだ時に……」
ここまで言って、僕は言葉に詰まった。あの日ピッコロさんの寝室で何があったか、何をしようとしてしまったか、思い出したのだ。曖昧になっていたが、ピッコロさんは覚えているのだろうか。もう一度煙を吐き出す唇に思わず視線が引き寄せられ、慌てて目を逸らした。煙が、薄暗い空気の中へゆっくりと溶けていく。
コーヒーを口にしている間に、ピッコロさんが吸い口を取り外す。浮かんでいたホイップクリームがなくなり、クリームの油分だけが溶け込んだ、ブラックコーヒーに変わる。
「あの時は……迷惑をかけた、その……まさかお前だと思わなくて……悪かった」
水煙草を僕へ渡しながら、ピッコロさんは言いにくそうに謝った。何もかも、覚えているのだ。
思わず顔を見ると、誰もいないカウンターへ向けられた瞳は揺れている。どういう感情なのかは、分からなかった。
僕は動揺し、吸い口を上手く取り付けられなくなる。なんとか水煙草に繋げた吸い口を、言いたいことを封じるがごとく咥え、深く煙を吸った。チョコレートが舌の上に溶け、ピスタチオが後味のように現れる。努めて静かに吐き出すと、漂う煙にカウンターの照明が滲む。扉の小窓から、二人のキスを見てしまった時のように。
「……ネイルさんとは、恋人なんですね」
質問というより、確認だった。
何だか息苦しくて、たったの一呼吸で僕は自分の吸い口を取り外した。目眩がするのはきっと、深く息を吸いすぎたのだろう。水煙草を渡す一瞬、ピッコロさんの冷たい指に指が触れて、僕はますます息苦しくなる。
受け取ったピッコロさんは、黙して吸い口を取り付けている。手は大きいのに、長い指は繊細なほど器用で、吸い口を取り付けるのにも僕のようにもたつくこともない。
ピッコロさんが煙を静かに吸う。気泡が弾ける音が、沈黙を埋める。ここではないどこかにまなざしを投げかけながら、細くゆるやかに、煙が吐き出される。
「あいつの助けがなければ、生きられない……昔も、これからも……」
聞き取れないほど小さく掠れた声で呟いて、ピッコロさんは瞼を伏せた。チョコレートの香りの煙が僕の鼻先を掠めて、言葉の意味を考える邪魔をする。
「ネイルさんがいるって分かってるけど、でも僕、ピッコロさんのこと……」
「……悟飯……今言われると、店で目も合わせられなくなる」
「ネイルさんのこと、好きだから……?」
ピッコロさんは口を開きかけて閉ざし、漂う煙の向こうから、僕をじっと見ていた。熾火の赤ばかりが無闇と眩しいテーブル席で、静かにまなざしが絡む。返事のかわりに吐かれた煙が、天井に広がって溶けていった。
カップの底に、一口だけ残っていたコーヒーを飲み干す。もう苦さしか、感じられなかった。