淀んだ空気と安っぽいカクテルみたいに濁った色の灯り、それから二人分の体温が沈む生ぬるい熱、重く淀む気怠さと、喉のずっと奥の方に留まった虚しさ。
ひどく息苦しかった。でもそれを自覚することは自分を否定するとこだと思った。これでいい、こうしたいと思ったからそうした。この瞬間、気持ちがよければそれでいい、いいはずなのだ。否定するな、俺はそうして生きてきたじゃないか。
「帰るの?」
女が問いかける。
「うん、ごめんね。朝まで一緒にいたかったんだけど、猫にご飯あげなきゃいけなくてさ」
そうなんだ。また連絡するね。女はそう言って別れのキスをする。うん、また連絡してね、と言って俺はその空虚な箱をあとにした。
猫なんていない、また会えるかもわからない。でも女を不快にさせない努力はした。気持ちよくなったあとはそのまま気持ちよく別れたい。けれどそんなことは息苦しさを増幅させることもわかってはいるのだけど。
外に出ると途端に生臭い空気が体中を撫でて、まだ乾ききっていない髪の毛を僅かに揺らした。
ビルとビルの間に黒い雲を纏った月が見える。満月か、いいや昨日が満月だったのか、ほんのわずかに欠けて見える月を見上げて涙が出そうになる。俺は、俺はどうして、
「起きろ、紫音」
地震かと思うような揺れと共に名前を呼ばれてぐらぐらと揺れる意識は見慣れた顔によってゆっくりと覚醒してゆく。ああなるほど。
「夢かあ…懐かし…」
「寝ぼけてんじゃねえぞ。犬飼、呼んでんぞ」
シバケンはなんで俺が、なんて文句をぶつけながらポケットに片手を突っ込んで、スマホを弄りながらダルそうに俺のベッドを後にした。
そんな後ろ姿を見ながらゆっくりと上体を起こして、まずは煙草に手を伸ばす。犬飼、なんの用だろ。一本吸ってからでも別にいいよね。
煙草を一本取り出して咥え、それからライターを探すが見当たらない。枕の下や布団の下、手を伸ばして届く範囲を探ってみるも見つからないので渋々起き上がってベッドの下を探そうかと思って身を乗り出して下を向いたら何かにぶつかった。
「お探しですか?」
何か、は、犬飼だった。犬飼はライターを左手に乗せて、俺に差し出している。
「うん、ありがと、探してた」
受け取って火をつけて、煙を吸い込んだら、へんなところに入って咽た。初めて煙草を吸った子どもみたいでなんだかみっともないなと思ったら恥ずかしくなって、それから犬飼はどんな顔をしてるんだろうと思って見上げてみた。
犬飼は心配そうな、不安そうな顔をして、大丈夫です?と言った。その顔を見て俺までなぜだか不安になる。
「大丈夫だよ、それで用ってなに。俺眠いんだけど」
犬飼は今度は困ったような顔をして、起床時間過ぎてますからそろそろ起きてもらわないと…と言いながらにこりと笑う。ころころと変わるその表情に、俺はやっぱり不安になった。そんな素振りは絶対に見せてはやらないが。
人間はみんな、優しそうな顔をして、愛おしそうな顔をして、誰も傷つけないような顔をして、そうやって人間を傷つける。自分は傷つきたくないくせに他人は容易く傷つける。
だから俺は誰も信じないし、けれど代わりに誰かを傷つけることはしないように。極力。できる限り。可能な場合は。けれどそれはただ、自分が傷つかないために。
なのに、犬飼の表情一つ一つにはいつだって不安になって、怖くなって、苦しくなる。
それはあの夜の苦しさとはきっと違って、でもどこか似た虚しさを伴って。
「甲斐田くん?」
今度は不思議なものを見るような顔で俺の目を見た。二秒、三秒、多分それくらいの時間だったけど、犬飼と目が合ってそれからなんだか居た堪れないような気持ちになって目を逸らしたら、視界の端っこ、ギリギリの範囲で犬飼が笑っていて、早く起きてくださいね、あっちで待ってます。みんな、待ってますから。そう言って背を向けた。
俺はもっともっと不安になって、苦しさに押しつぶされそうになって、怖くなって、待って、と言って犬飼の服を掴んだ。
なんでそんなことしちゃったんだろうって考える頭と、そうしなきゃ俺はもっと苦しいんだって言う身体と、よくわからなくてぐちゃぐちゃになって、そのまま引き寄せて、勢いのままにキスをした。
どうか突き放さないで、俺を拒絶しないで、お願い、今だけでもいいから。
犬飼ならそんなことはしないとどこか期待してしまって、誰も信じないはずだったのに、俺が犬飼に抱いてしまう不安はきっと、犬飼にしか壊せないから、だから壊して、それから埋めて、空っぽな俺の、その全部じゃなくてもいいから。