【保鳴】ラブマチュアリング紙袋はホテルのフロントに預けた。待ち合わせ前にやっとくことはもうないな。
焼肉屋も、写真より雰囲気がええ感じやったな。個室やし、肉のメニューも豊富。『たらふく肉を食わせろ』いうのがリクエストやったからな。あの店なら弦も満足するやろ。
満面の笑みで大喜び――そんなリアクションこそ取らんやろし。そう言うても「まぁまぁだな」とか上から目線の食レポを口にしながらも、目元は満更でもないと緩めとる姿とか簡単に目に浮かぶ。
店選びも準備も万全。ここまでエラーはない。
強いていうなら、今日、万が一怪獣が発生したもんなら、秒速で滅多切りにする自信がある――というたところか。
幸い、今のところは穏やかな午後が続いてる。
時間は……15時か。合流するまで1時間近くあるな。
気に入ってる店とはいえ、コーヒーを飲むためだけに有明に来ることはない。せっかくや。ゆっくりコーヒーでも飲みながら、遅刻常習犯の到着を待つとするか。
ロングコートに端末を滑り込ませる。口端を持ち上げながら息を吐けば、顔の前がもわりと白く色づいた。
今日は冷え込みが厳しい。
きっとあの人は、顰め面で来店するやろうな。ボリュームのあるアウターを着込み、鼻の頭を赤く染めながら。
どうにも今日はいつにも増して、隙があれば恋人の姿を思い浮かべてしまう。ドアノブに手をかけるような瞬きと変わらない一瞬だろうと。
まぁ、今日はこれまでの誕生日とはちゃうからな。頭の中を王様気取りの人物に占領されててもしゃーないか。
コーヒーショップの扉を開くと、スローモーションで降っていた雪の一部が店内に吸い込まれた。
ふわりとした暖気とコーヒーで満たされた空間には、冬の午後らしいミドルテンポの洋楽が流れている。苦みと甘みが共存しているハイカカオチョコレートのような香りが鼻腔を擽る。
「ホットコーヒーを1つ。ミドルサイズで頼むわ」
「かしこまりました。店内でお過ごしですか? ただいま店内のマグカップがすべて使用中でして。紙コップでのお渡しになりますが、よろしいでしょうか?」
「あぁ、紙コップで大丈夫やで」
「ありがとうございます。それでは、あちらのカウンターでお待ちください」
店ん中もすっかり冬仕様やな。夏に来た時よりホットメニューが充実しとる。
それもそうか。もう半年も経っとるんやからな。
あの日は初夏にしてはえらい暑くて、弦も堂々と遅刻してきたクセに顔面汗だくで。アイスコーヒーをロングサイズで頼んどったな。
内臓を冷やせば問題ない、みたいな勢いでアイスコーヒーを一気飲みしたと思えば、店の冷房が効きすぎて寒いとか言い出して……。ははっ! めちゃくちゃで自分勝手なことばっか言うてたな。
けど、防衛隊スーツ身に着けて出撃すれば、あの人は専用武器で怪獣をあっという間に撃破する。データがほとんどない怪獣だろうと、物応じ一つせずに大型の銃剣を振るって。
……軽く思い返しただけでもオンオフに差があり過ぎやろ。
ホンマえらい人に惚れ込んでしもうたな。まぁ、おかげさんで毎日おもろいことばっかりやけどな。
今日も。大事な話があるとは伝えてるが、大した内容だとは思うてないだろう。あの人、恋愛方面は経験値がない分けっこう鈍いからな。
決行は夜。僕の話聞いたら、どんな顔をするんやろ。
照れ隠しで喋りまくるのか。いつも以上にオーバーリアクションが炸裂するか。それか、黙り込んだまま何も言わんくなる可能性もあるな。……なんや、どのパターンもあり得そうで笑えてくるな。
「コーヒーをミドルサイズでお待ちのお客様、大変お待たせ致しました」
バリエーション豊かな恋人の顔を思い浮かべつつ、表情筋を緩めているとカウンターに蓋がはめられた紙コップが差し出された。
「大変お熱くなっております。お気をつけてお持ちください」
「おおきに」
丁寧な接客に言葉を返し、淹れたてのコーヒーを受け取る。さてと席は。
「あれ? もしかして保科副隊長ですか?」
空席を探そうと店内に視線を向けようとすると、背後から声をかけられた。コーヒーを受け取った店員とは別の女性の声に振り返れば、ウエーブがかかった髪を一つ結びにしている女性が立っていた。
目が合うと、女性はコーヒーショップの店員と同じリズムで顔にやわらかな曲線を描いた。
「こんなところで会うなんて。コーヒー、こちらでよく買われるんですか?」
「おや、誰かと思えば。ご無沙汰しとります。この店、有明に用事がある時は寄らせてもろうてて。ホンマは毎日通いたいくらいやけど、立川務めだとそうも行かんもんで」
「通いたくなるお店ってありますよね。私服ってことは……今日はお休みですか?」
「そうやねん。今日は大事な用があるもんで」
「あー! もしかして今日のご注文も……って、お客様に詮索するようなことを言ってすみません!」
「全然気にしてへんから、そない謝らんで下さい。ほな、あとで店に顔出すんで」
「たしか17時でしたよね。私、今日はこれから勤務なので、ご来店お待ちして――」
「おい、コイツはボクの相手で忙しい。男探しなら他を当たるんだな」
顔見知りの女性と雑談を交わしていた時だった。前触れなく肩を掴まれたかと思えば、乱入してきた声が女性の話を遮った。
偉そうな口ぶりと態度で現れたのは、第1部隊の隊長であり自身の恋人でもある鳴海弦だった。
「鳴海さん、もう来とったん?」
遅刻常習犯は休業中かと続ければ、真横にある顔が不服そうに短く鼻を鳴らした。ついでに、迷いなく伸びてきた手により紙コップを奪われた。
「糸目だと空席も探せないのか? ノロマめ。さっさと来い」
もしかして鳴海隊長 と驚く女性の声をガン無視し、弦は振り返ることなく店の奥を目指してズンズン歩いて行く。
雑談を交わしていた女性に軽く会釈をし、ライトグレーの背中を広めの歩幅で追いかける。
コーヒー人質に取られてもうた。にしても、まだ待ち合わせの1時間前やで。
めずらしいこともあるもんやな。あ、席あそこか。こんな奥まったところに座っとったんか。
弦は窓際ではなく、奥にある角席を陣取っていたらしい。見知ったゲーム機にイヤホンケース、コーヒーショップのレシートが2枚。私物を無造作に置いた席へ到着するや否や、恋人はここが自分のテリトリーだと主張するように我が物顔で二人掛けのソファに座った。まったく、ここは自分家かい。自分を貫くのは長所でもあるけどな、時と場所というものがあるやろ。
僕は軽く息を吐きながら席に着き、テーブルに置かれた紙コップを口に運んだ。
ドリップされたばかりのコーヒーはまだ芯までしっかりと熱い。たっぷりと中身が入っている自身の紙コップに対し、テーブルにあるマグカップの残量は1/3程度だ。
息をするようにゲームを再開した弦は、液晶画面に目線を固定して小刻みにボタンを連打している。
「で、いつから来て――」
「10分くらい前だ」
目線が持ち上がることはなかったが、どうやら僕の声はしっかりと耳に届いたらしい。それにしても、ずいぶんと前のめりな返答やな。不自然なくらいに。始めから質問の答えを用意していたような回答速度やった。
「ほぅ、そりゃまたお早い到着で。待たせて悪かったなぁ」
「たまたま近くで位置ゲーのミッションがあっただけだ。外もクソ寒い。ボクだって来たくて早く来た訳じゃない」
駆け足気味でそう付け足した恋人の目は、相変わらず液晶画面で展開されている戦闘を追いかけている。
位置ゲーにクソ寒い、か。ということは、待ち合わせ時間を間違えた訳やなさそうやな。
きっと返答内容はどれも事実なんだろう。
時折、頭に王冠を乗っけている幻想が見えるくらい僕の恋人は自信家だ。自分が優位になるよう、屁理屈めいた言い回しを多用するのが常。だが、今の状況でわざわざゲームや気温に嘘を混ぜ込む必要性もない。そもそもがマイペースを擬人化したような人だ。
1時間も前に到着していたのも単なる気分。気紛れの一つ程度のイレギュラーやったのかもしれん。
まぁ言うて僕も早く会えたら嬉しい思うてたからな。弦も質問には答えとるし、そこまでへそ曲げとる訳やなさそうや。なら、別にええか。
……にしても、テーブルの上散らかり過ぎやろ。
ダンボール置き場と化している、有明りんかい基地の某執務室を思い出しながらコーヒーを口に運んでいると、無法地帯のテーブルにペラリと置いてあったレシートが目についた。
コーヒーショップのロゴと、同じ注文内容が印字されているレシートが2枚。違っていたのは、打ち込まれている時間だけだった。
目が見開いたのと同時に、危うくコーヒーが変なところに入りそうになった。
レシートにはそれぞれ14:35と13:53の数字が並んでいた。
……なにが10分くらい前や。誤魔化すにしても詰めが甘過ぎやろ。
はぁ――。こういう不意打ちはアカンわ。
違和感というよりは物珍しさに近かった。いつもと同じようで違う恋人の行動。なんとなく、視界に映ったからレシートの文字を追っただけのはずだった。こんなん、募らせるな言う方が無理やろ。
顔周辺の筋肉が勝手に緩んでいく。元から丸みを帯びていた感情の表面はさらになめらかになり、熱いものが喉を通過するのと同じように愛おしさがじわりと全身へ広がった。
1時間どころかそれ以上前から来とったん?
二杯目のコーヒーまで頼んで。
で、僕の声が聞こえた思うたら女の人と喋っとって。おもろないって割り込んできた……そういうことだったんやろか。
なんやねん、それ。可愛過ぎやろ。
「なにニヤついてんだよ」
「いやー? 僕、自分が思っとった以上に鳴海さんに愛されとったんやなぁて。幸せを噛み締めとっただけやで」
「はぁっ!?」
やっとゲーム機から目を離したなと、僕の口角はさらにニッコリと弧を描く。
テーブルの下で足を軽く持ち上げ、正面にあったスノーブーツの先をコツンと蹴り、ようやく見せた綻びへ足を挟み込む。
「さっきも、まさか鳴海さんに『お前はボクのや』て言われながら、人前で独占欲発揮されるとか思っとらんかったからなぁ。さすが、僕の彼氏は男前やわ」
「急に饒舌になりやがって……何が言いたいんだ」
「別に意味なんてないで。言いたなったから言うただけや。そうそう、一応伝えとくけどな」
「? なんだよ」
「さっき僕が喋っとった女の人、鳴海さんが牽制しとった人はパティスリーの店員やねん」
「……は? パティスリーの店員?」
「そうやで。今日の、鳴海さんの誕生日ケーキ注文しとる店のな」
目が点になっているとは、今まさに正面で繰り広げられている感情を表わすのだろう。
動かんくなっただけやなくて、口まで開いとる。目の前に座っているのは、ホンマに日本最強の戦士と同一人物なんだろうかと首を傾げたくなるわ。
「わはは! なんちゅう顔しとんねん」
ゲームを操作する指の動きが止まったのを合図に、無防備になった左手首にそっと手を添える。手首から手の甲、指の根元へと体温を撫でるように手を滑らせ、自然体を装ってするりと指を絡める。関節が目立つ指は男そのもので、皮膚も固く厚い。
同時進行で反対の手でゲーム機を回収すれば、予想通り前髪の奥からジトリと強く睨まれた。
無言の威嚇を真正面から笑顔で向かい打てば、逆Uの字に曲がっていた口端がさらにキツく結ばれた。それでも、絡めた指が振り払われることはなかった。
「おい、店の中だぞ」
「こんな角席まで見とる人なんておらんやろ。みんな自分のことでいっぱいやて」
「チッ。都合良く捉えやがって」
返答そのものは素っ気ない言葉が並んでいた。だが残念なことに、あらゆる怪獣と高く同調できる第1部隊の隊長であっても、自身の血流はコントロール不可な領域だったらしい。
耳真っ赤にして言われてもなぁ。まったく説得力ないねんけどな。クスクスと込み上げる笑いを隠しつつ、僕は会話を繋いだ。
「あ、心配せんでもチョコプレートもちゃんと頼んどいたで。『弦くん誕生日おめでとう』てメッセージと一緒にな」
「!? そもそも頼んでねぇわ! このクソオカッパがぁ、舐めてんのか!?」
「僕は大真面目やで。鳴海さんの前ではいつだって誠実な男や」
「はっ、ボク様のスカウトを断った分際でデカい口叩きやがって」
「急に何年前の話蒸し返しとんねん」
「事実だろ」
「まぁ、そこだけ切り取ればそうやな。……それってつまりは、弦の方が先に僕に惚れ込んだって言い換えることもできるな」
口端を軽く持ち上げながら正面にある顔を悠然と見つめれば、見る見るうちに分厚い前髪の下にある目が吊り上がった。
「おい! 家以外で名前で呼ぶなと何度も言ってんだろ! 貴様の記憶媒体の要領は、その目と同じでミクロンサイズらしいな!?」
「人聞きが悪いなぁ。ルールもちゃんと覚えてんで。そっちこそ、家だけやなくてホテルと執務室もオッケーやて言うとったクセに、さっき入れるの忘れとったやろ」
「ぐっ……。――! 細かいことをつらつらと喧しいわ!」
「そない怒鳴らんでもええやろ。2人の時限定とはいえ、名前で呼ぶようになってからもう半年も経ってるんやから。な?」
そうやろ、と低めたトーンでゆったりと頭を撫でるように声を掛ければ、弦はおもしろくなさそうに口を歪めたままではあったが、前のめり気味になっていた身体をソファに深く沈め直した。指はまだテーブルの上で絡んだままだ。
あぁ、愛おしいなぁ。
僕も恋愛面が敏い方やないけれど、今自分の中に広がっている感情があって当然のものやないことくらいは分かる。だから、一緒に居りたいて思うたんや。今よりもほんの少し、ちょっとだけの時間でもええから。
指と指の間を辿るように静かに絡みを解き、再び上から手を重ねる。まだ何もない、他の指と変わらない薬指の根本を優しく擦る。
人知れず幾度と訓練を重ねてきたことを物語る固い肌。その厚い皮膚から伝わってくる体温。
どれもが自分にしか触れることが許されていないと実感する度に、想いが募り、どんな言葉を尽くしても足りない感情が込み上げてくる。
この人はいつだって今と、少し先の未来を見ている。
それが鳴海弦の強さに繋がっている。それもわかっとる。けど、きっとイメージできへんのやろな。家族だけやなくて、誰かと暮らしている自分自身の姿を。
やけどな。今だけやなくて、レティーナの観測外の未来にも目を向けたってええんやで。第1部隊の隊長でもなく、防衛隊の一員としてでもなく、ただの鳴海弦として。
見ようとしてへんだけで、存在しない未来ちゃうねんで。
だからな、弦の性格わかっとるから悪いとは思うとるけど……先に動かしてもらうな。
僕、待つより追いかけたい派でな。あと黙っとんのは性に合わんねん。
恋人の指を撫で続けながら、僕はゆっくりと口を開いた。
「第1に誘われた日から今日まで、鳴海さんのいろんな顔見てきたなぁ」
「なんだ、ボクの活躍を思い出して惚れ直したか?」
僕が感慨深く呟いたのに対して、自信家の某隊長はニヤリと得意げな笑みを浮かべている。
この人はどうしてこうも迷いなく自信満々に、僕の脳内を読み取ってやったと発言できるんだろうか。
まぁ、言うて完全に外しとる訳でもないけれど。愉快な人やな、ホンマ。
「せやな。心臓が擽ったくてしゃーないくらい鳴海さんのこと大好きやな」
面と向かってサラリと好意を口にすれば、前髪の奥にある目が明らかに大きくなった。
そして見開かれた目はすぐに元の大きさに戻り、軽く顔を伏せるようにして視線が逸らされた。
「心臓がいかれてんなら医療班に診てもらうんだな」
ぶっきら棒な返答やな。そうと思えば、指先に今までとは違う感覚が訪れた。
弦が、僕の指先を掴んでいた。自分でもどうしたいのかが曖昧なのか、僕の反応を伺うようなギコチない力加減で。
触れ合っている面積は、指の第一関節分程度。それでも熱は感じ取れた。しっかりと確実に。一滴程度の汗の滲みもすべて。
耳の先まで真っ赤やん。
あ――、アカンな。せっかくの準備全部パァにしてしまいそうや。
きっとリアリストの恋人が見せるリアクションは大きく変わらないだろう。カフェの一角やハイグレードホテルの室内、もしくは焼肉を堪能している最中だとしても。
場所やタイミングといったシチュエーションより、僕が発した言葉に意識を向けるだろう。
それでも、僕がそうしたいんや。
ロマンティックまでとは言わんでいい。せめて思い切り抱き締めながら、腕の中に全部を閉じ込めて体温を噛み締めながら口にしたい。
――なぁ、僕と結婚してくれへん?
喉元までせり上がっていた愛の言葉をコーヒーでなんとか飲み下す。鼻から抜けた香りには、ほのかな甘みが宿っているような気がした。
「そうやな。一度バイタルチェックを頼んでもええかもなぁ。そん時は、鳴海さんにも協力要請せんといかんな」
「ふん、ボクには関係ない。お前一人で勝手に受けてこい」
「わはは。冷たい彼氏やなぁ」
離れた指を捕まえ、もう一度するりと指同士を絡めれば、すかさず鋭い眼光が真正面から飛んできた。
「おい、変態オカッパ。触り方が厭らしいんだよ……!」
「ん―? そういう気になってしもうた?」
「は!? んなこと一言も言ってねぇわ!」
「気分が上がってるところ悪いんやけど、夜まで待ってや。あとでゆっくり相手してやるから……な」
唇の前で指を立てて内緒話の合図を出せば、「一人で勝手に盛り上がってんのは貴様だろが!」と真っ赤な顔に噛みつかれた。
「そりゃあ、今日は大事な恋人の誕生日やからな。張り切るにきまっとるやろ。ええホテル予約したんやで。大画面付きの部屋やからゲームも捗るやろ?」
「……気味が悪いくらい気前がいいな」
どうやら僕のデートプランを不信がっているらしい。前髪の隙間からは疑いの目がジトリと光っている。
自分やって何やかんや理由つけて僕の誕生日には毎年来とるクセに。
いらんとこでは勘が働いとんのに、なんで僕の動機もそれと同じやって見当がつかんのやろ。不思議な話や。
「今年は休みも合うたしな。景気が良いデートもたまにはええもんやで」
「そういうもんか」
「そういうもんやろ。鳴海さんも好きやろ? 盛大にもてなされるの」
「……あぁ、好きだな」
突然のしたり顔に、僕は反射的にぐっと息を詰めてしまう。
直前まで顔だけでなく耳の先っぽまで真っ赤にしていたのはどこの誰だったと……。はぁ。この人はホンマ、この人はホンマ、前触れなくこういう反撃を吹っ掛けてくるから油断できひん。
目を覆いたくなったところを、紙コップの中身を一気に空にしてやり過ごす。
揺らいだ感情を落ち着かせ、バレないよう小さく息を吐いてから口を開く。
「ほな、そろそろ行こうか。せっかく早めに合流したんやし、どっか見てまわろか。それか先にホテルにチェックインしてもええで」
「……いや。ゲームもいいところだったからな。続きをやる。どうせ肉食いに行くにもまだ時間じゃないだろ」
「ホテル行っても今は手出さんで? 鳴海さんから誘ってくれるなら、それはそれで大歓迎やけどな」
「ンなこと微塵も考えてないわ! 煩悩まみれの貴様とボクを同類にしてんじゃねぇ!」
しばらく許されていた触れ合いだったが、とうとう振り払われてしまった。
正面に座る恋人は、呆れたように長い溜息を吐いてからフリーになった両手でゲームを再開した。
少し揶揄い過ぎたか。
ゲームの操作音を聞きながら、二杯目のコーヒーを買いに行こうかと思案していると、不意に「保科」と名前を呼ばれた。
「コーヒーくらいゆっくり飲んでいけばいいだろ。有明に来た時くらいしか足を運ばないと前に言ってただろ。……好きなんだろ、この店のコーヒー」
チラッと画面から持ち上がった目と一瞬だけ視線がぶつかった。そうと思えば、恋人の目線はまたすぐにゲーム画面に吸い寄せられていった。
はぁ――――。普段は適当なクセに、押さえるところは押さえてくるところがホンマずるいわ。
「わはは、鳴海さんに借り作るの怖いわぁ。後でなに要求されるんやろ」
「人のサイフで食う肉は格別だからな」
悪役さながらの笑い声を上げながら、本日の主役はニヤリと口端を持ち上げた。前髪の下にある瞳は爛々と意地悪く光っている。
「いや、どんだけ食う気やねん」
小学生みたいに目輝かせよって。まったく。はぁ、今すぐ抱き締めたいわ。
自然と溢れ出した感情を必死に抑え込みながら、僕は素直に吹き出した。
店を出るまでの約1時間。僕ら2人はいつもと変わらない、他愛のない会話をして限りある時間を過ごした。
僕は二杯目のコーヒーをのんびりと口に運び、鳴海さんはゲームをプレイしながら。お互いの話にツッコミを入れ、時には優勢を謳歌し、そうと思えば劣勢に転じ。そんな何でもないやり取りの合間に笑いを散りばめながら。
感情が迸るようなドラマティックな恋愛も、それはそれで何か得たり育んだりするやろう。
それでも、僕は今みたいな時間を愛おしく想うてしまうんや。
ありふれた言葉を交わすだけで心が甘く染まる、僕らにとって高級ホテルみたいに贅沢な非日常に。
さて、コーヒーも満喫したし、そろそろ時間もいい頃や。鳴海さんもゲームの電源を落とした。ボリュームのあるアウターを着込んだ恋人に手を差し伸べれば、「調子に乗るな」とペシリと手を払われた。
「今からそんなんやと、このあと心臓もたんかもしれんで?」
「大したことない内容を誇張しやがって。肉を食ってゲームをするだけだろ」
「さぁ? それはどうやろうな?」
ホテルに預けた紙袋。四角い箱の中を目にしたあとでも同じセリフを口にするんやろか……楽しみやな。
店の扉を開ける直前。ミルクと砂糖をたっぷり加えたコーヒーの香りが鼻を掠めた気がした。