【保鳴】37.6℃のバースデーつまらん約束をした。そう思っていたのも本当だ。だというのに、なぜだかあの日見たアイツの顔が離れない。
「次は鳴海さんの番やな」
やけに嬉しそうな声で、ゆったりと笑った保科の顔が――。
目を覚ませば、療養室は薄暗くなっていた。
飾りのない壁は影に覆われ、出入口を照らすライトだけが淡々と点灯している。
暗いな。夕方、それか一周まわって早朝か……。いや、夜も朝もどうでもいいか。どうせ終わった話だ。不条理なんてガキの頃からの腐れ縁だからな。
別に今さら。なんてことはない。
まぁ、不可抗力とはいえアイツに借りを作っちまったのだけは面白くないが。
体温をたっぷりと吸収した布団を引き寄せ、隙間なく身体と密着させる。身体から排出される二酸化炭素が熱い。
…………ヒマだな。
廊下も人気がないのか喋り声どころか足音すら聞こえない。
ゲームは長谷川の奴が、オーバーヒートが収まるまで目を休めろとか言って持って行きやがったし。
ボクの部屋じゃないから時間を潰せるモノもない。マンガもテレビも、当然ゲームも。
チッ。長谷川の奴ゲーム持って行きやがって。なにが、「オーバーヒートが収束するまで預かっておく」だ。
外傷はなし。眼球も神経も集中治療は不要。
活性化している筋細胞のクールダウンさせるための療養だと、医療班の奴らからも報告があっただろうが。
識別クラスが出現しない限りは出撃もなし。どうせ要安静なんだからゲームぐらいいいだろ。石頭め。
ゲームもない。予定もない。ヒマだ。
まぁ、予定を蹴ったのはボクだが。
……はぁ、やることもないし仕方ない。寝るか。
といっても覚醒したばかりだ。
確かに身体は、発熱の影響で倦怠感がある。厄介な討伐現場だったのもあり、それなりに心身の疲労感も蓄積はしている。
だが一度目を覚ました脳は、そう簡単に思考を遮断するつもりはないらしい。
鼻先まで布団を引き上げ、瞼を閉じる。一方で視覚情報こそ入ってこないが、睡眠を意識すればするほど思考は開いていく。昼間の討伐現場の生々しさを再加熱しながら。
瓦礫と化したコンクリートの残骸。痛みを訴える呻き声。災害の到来を知らせる激しい咆哮。
頭を掠めるのは、昼の記憶の断片。
今の防衛隊のあり方を体現しているような現場だった。
前々から懸念はあったが、やはり銃に頼る討伐はダメだな。怪獣が出現するエリアによっては全く使い物にならん。
今日の作戦もそうだ。
銃、剣に限らず基礎は日々の訓練であらかた叩き込むとはいえ、実践では銃火器を選ぶやつが多すぎる。視界が開け、足場になる建物が少ない郊外ならまだいい。だが、都心はダメだ。人が多すぎる。特に医療施設や教育機関が密集するエリアは。
避難経路の確保、人命救助が滞る現場での怪獣討伐ほど、非効率で隊員が神経を擦り減らすものはない。
だからこそ扱える武器は多いに越したことはない。
任務の最優先事項が討伐ではなく、人命救助のケースなら尚更だ。
怪獣の脅威を斬り避ける人材。指導者として最適な人材――といえば保し…………。って、~~クッソ。またアイツのこと思い出しちまったじゃないか。
じわり。滲み出た汗が首筋を伝う。
あぁ。喉が、乾いた。
スポドリ、あれで最後だったか。あとでコンビニ……いや、外に出るのは面倒だな。下の自販機でいいか。
ピー、カシャン。不意に人工的な高音が療養室に響いた。
目を閉じたままでもハッキリと拾えるレベルの解錠音の後、ドアが開いた気配がした。ドアが閉まり、規則正しいリズムの足音が続く。
ボクが療養室にいるのを把握している隊員は多くはない。長谷川が様子でも見に来たか。普段は小言ばかりうるさい奴だが、こういうタイミングの良さは大歓迎だ。
「長谷川、良いところに来たな。スポドリがなくなりそうだ。自販機で調達してこ――」
「残念、長谷川さんやなくて僕でした」
副隊長なのは合ってるけどなぁ、と続いた関西弁につられパチリと目が開く。
は? 保科?
密着させていた布団ごと反対側へゴロリと身体を捻れば、ポケットに両手を突っ込みながらボクを見下ろしていた保科と視線がぶつかった。
相変わらず薄暗い療養室は、出入口上だけ照明が点灯しているせいもあり、ベッドサイドに立っている保科のシルエットが逆光で黒くて濃い。普段よりも髪型の丸みも際立っている。
「なんや、飲みもんなくなったんか? 買うてきて欲しいもんがあんなら連絡すればよかったやろ。普段はあれ買うてこい言うて自己主張しまくっとるんやから」
「なんでお前がいるんだ」
「恋人からいきなり『今日の予定はなしだ』って一言だけ連絡あったんやで? そんなん来るに決まっとるやろ。電話も出えへんし」
「寝てたから知らん」
「ま、そんなとこやろて思うとったけどな」
ゆるく笑いながら保科は軽口を切り上げ、ポケットから手を出しながら軽く身体を前傾させた。顔と顔の距離がほとんどなくなり、眼前には開眼した赤い瞳。心臓が聞いたことがないような変な音を立てながら肋骨を叩いたのがわかり、堪らずグッと歯を食いしばる。
目の前にあるのは、ただの保科の顔だろ。至近距離だろうと見慣れた面だ。今さら近況もクソもないだろうが。
乱れる拍動に向かい落ち着けと言い聞かせていると、前髪が揺れ、額が何かで覆われた感覚があった。
コイツの手、熱くもないし冷えてもなくて中途半端だな。けど……まぁ、不快ではないが。
「熱はだいぶ落ち着いたみたいやな。そんで、身体の方はどうなん?」
「……なんの話だ」
「何とぼけとんねん。長谷川さんに全部聞いとるで」
クソ、筒抜けかよ。
今回のオーバーヒートの件はすべて把握済みだという保科の言葉に、ギクリと鼓動が波立つことはなかった。
代わりに自身の直属の部下に向かって盛大な舌打ちを放つ。
保科がやって来た時点である程度は予想していた。が、長谷川の奴なんでもかんでも共有しやがって……。全快したら守秘義務ってやつを頭に叩き込んでやる!!
「それでなんだ? オーバーヒートでダウンしたと長谷川に聞いて、自己管理がなっていないと笑いにきたのか?」
「なんでそうなんねん。まったく、鳴海さんは僕のこと何だと思うとんのや」
「糸目のクセにあれこれ把握しているドスケベ野郎、だろ」
「ひどい言われようやな。それに男が下心持っとんのと糸目は関係ないやろ」
保科は呆れ混じりに笑い、ベッドの端に腰を下ろした。大した厚みのないマットレスが簡単に沈んだ。
「昼間にあった討伐作戦、軽傷者こそおったが全員無事やて」
「あぁ、らしいな」
「ドライな反応やなぁ。鳴海さん、避難し遅れた子供を守りながら怪獣を斬ってたんやろ? 一人二人やなく、何十人も。それも瓦礫だらけの閉鎖空間で」
「長谷川がそう言ったのか?」
「いや? 長谷川さんから聞いたのは、鳴海隊長がスーツと無茶な同調しはってオーバーヒートを起こしたこと。それと、真昼間の小学校に怪獣が出現したってことくらいやで」
「なら、今の話はお前の妄想ってことだな」
「報告書と救助された子供の声聞いとったら、その場に居合わせとらんくてもそれくらい想像できるわ。目が細いからいうて甘くみられたもんやなぁ」
考える素振りを見せたと思えば、強張りのない眼差しが降りてきた。何かを企んでいるような意地悪いような、けれどもそれらとはまた違う何かを含んだような目が。
「学校の倒壊に巻き込まれたからな。メンタルケアは必須。やけど、怪獣に関しては深く傷を負ってる子は少ないらしいで」
「あ? なんでだよ? 間近で怪獣と遭遇したんだぞ?」
現に、あの時ボクの鼓膜を揺さぶっていたのは、泣き叫ぶ声と恐怖に支配された悲鳴だった。背後にあった子供の顔も絶望に染まっていた。
あの状況で怪獣に恐怖心を抱かないはずがないだろ。
疑いの目で保科をジッと睨み上げていると、返ってきたのはボクとは真逆の確信に満ちた目だった。透き通った膜に覆われた瞳は、遠くの照明を受けてきらきらと細かな光を散らしている。
瞳に滲ませた強さと同じ声色で保科が続ける。
「みんな口を揃えて言うとるらしいで。鳴海隊長が怪獣をやっつけてくれた、カッコ良かったってな。スッカリ子供らのヒーローやな」
「……ふん、救助されるまで泣き喚いていたクセに、調子のいいガキどもだ」
「まっすぐな感情くらい素直に受け取ればええのに、ホンマ意地っ張りやなぁ。今さら僕の前でカッコつけてどないすんねん」
肩あたりで布団がポンポンとゆったりとしたリズムで上下する。
ガキ扱いするな、とプライドが眉間を寄せた一方で、胸のあたりが意志に背いてきゅっと甘く締めつけられた。
わかったようなセリフを並べやがって。クソ。
保科と顔を合わせれば、感情が逆立つのは初対面からずっと変わっていない。
だが、それでも、胸からのあたりを中心に充足感が全身へ広がるのを止められない。
平時よりも速いテンポで脈を打つ鼓動に合わせ、毛細血管を経由して足先、内臓へとめぐっていくむず痒さを。
あぁ、だから嫌だったんだ。コイツに会うのが。
予定調和で感情がかき乱される。そんな腹立たしい未来が決まっていた時点で、勝者が確定していたからだ。
黙り込んでいると、ベッドサイドに座っている保科が小さく息を吐いた。
「けど、人の気配があったら休もうにも休めんか」
子守唄のような手の動きが止み、保科の気配が遠ざかる。
「僕はスポドリ買うて来るから、鳴海さんは寝とってな」
ボクは最善を尽くした。
療養中だと保科には伝えなかったし、予定はなしだと連絡も入れていた。
それを、せっかくのボクの気遣いを無視して、療養室のドアを開いたのはコイツだ。
ボクは悪くない。
悪いのはそう、オーバーヒートを起こしている筋細胞と図々しいオカッパ頭だ。
「おい」
布団から手を伸ばし、立ち去ろうとしていた保科の隊服の裾を掴んだ。目から下を布団で覆っているせいか、鼻の頭も、口元にも平熱以上の呼気が籠る。影が落ちている療養室の床を見ながら言葉を続ける。
「飲み物は、別に今じゃなくてもいい。それと……抱き枕要員としてなら使ってやらんでもない」
保科が動かない。声を発するどころか微動だにしない。
床へ落としていた目線をそろりとズラしてから、今まさに放ったばかりの自分のセリフを呪った。
わかり切っていた答え合わせをわざわざした気分だ。あぁ、記憶を抹消したい。
顔だけでなく身体の隅々まで赤く染めていく、怒りと親戚みたいな感情に襲われながら素早く布団に潜り込む。が、固く錠をしていたはずの入口はあっさりと突破されてしまった。
なんなんだ、その締まりのない顔は。いつも以上に糸目を細めやがって!
――、ふざけやがって。クソ。
ゆるりとした曲線で目と口を描いた保科が、定員に達しているシングルベッドに侵入してきた。
迷いも遠慮もなしに身体をねじ込ませてきやがった。そうと思えば、筋肉だらけの腕に肩――を通り越して、顔をまるごと正面から抱き込まれた。
密着した保科の胸が、深呼吸のペースで静かに膨らんでは縮んでいる。
どうやら力は加減しているらしい。圧迫感を抱かないレベルの腕の力なのもあり、息苦しさはない。
肺の細部一つ一つにまで保科の匂いが浸透する。コーヒーと不純物を含まない汗の匂いが。
「今日の鳴海隊長は甘えたさんやなぁ」
鼻歌が混ざっていそうな声が首筋を掠める。
「別にボクは甘えてなんかいない。お前が構って欲しそうな目をしていたから、仕方なく声をかけてやっただけだ」
「ふーん。そうやったんかぁ。ほな、遠慮なく鳴海さんの好意に甘えさせてもらわんとなぁ。……やっぱ、身体いつもより熱いな」
保科が声を発する度に、心地良さを覚える低音が身体の深部を静かに揺らす。共鳴するように内臓が小刻みに震えているが、不思議と不快感はない。
どちらかといえば逆の、鬱陶しいまでの存在感というか安心感というか……って、何を考えているんだボクは。
「誕生日おめでとさん、弦。お祝いはまた日改めて、別日にやろうな」
まるい声が鼓膜をそっと撫でた。満足そうに微笑む保科と目が合う。前髪が捲られたと思えば、額に柔らかな感触が押し当てられた。
だらしない顔しやがって。……だが、幸せっていうやつは、今のコイツみたいな腑抜けた面を指すのかもしれない。
「もし出撃要請が入ったら僕が行くからな。鳴海さんはなんも心配せんで、ゆっくり寝とき」
頭を二回軽い力で押され、チラリと保科へ視線を流す。細い目から覗く瞳は、自身の強さを証明する真っすぐな光を放っていた。
「これでも僕けっこう強いからな」
そんなのとっくの前から知ってんだよ。
お前の強さを、磨き込まれた強さをこの目に映したあの日から。
塗り替えても、塗り替えてもボクの近接記録を上書きしてくるクソ生意気な隊員――何度も何度もボクの視界をうろつきやがって。
おかげでガッツリ焼きついてるんだよ。脳裏にも、ボクのこの目にも。お前の鬱陶しいまでの実力が。
それに、お前が人を煽って面白がってるだけのふざけた野郎じゃないってことも。
顔を取り囲んでいた腕を外し、数センチ上に身体をズラして顔同士の位置を揃える。視線が直線で繋がった先で保科が口端を持ち上げた。
「ん? どないした?」
不思議そうに訊く保科の声は無視をして、目の前にある顎をガシリと掴む。そして、合図なしに隙だらけの口へ唇を押し付ければ、保科が「⁉︎」と驚きを交えた濁った音を上げた。
「今ので借りは返したからな。それと誕生日も別にやり直さんでいい」
コイツのマヌケ面も見れたし気が済んだ。気分は爽快。オーバーヒートはまだ続いているが、今ならいい感じに眠れそうだ。
「は⁉︎ 借りってなんの話や。それに誕生日もやり直さんでいいってどういう……」
「思い当たらないなら別にそれでいい。満足したし、ボクは寝る」
「おい、何勝手に話し終わらせとんのや。あー、クソ。僕が貰うてどないすんねん」
布団の中へ身体を潜り込ませていると、保科が納得いかなそうに呟いた。悔しさを紛らわせているのか、肩にまわった腕の力がさっきよりも強い。
身体を閉じ込めてくる力だけじゃない。鎖骨を叩く鼓動もさっきの比じゃない。
心臓の音、めちゃくちゃ走ってるな。
ハハッ! いつもお前が勝ち星を上げられると思ったら大間違いだからな。
小刻みに肩を上下に揺らしながら笑えば、保科の腕の力がさらに強まった。
療養させる気があるんだかないんだか。
……なんだよ。ボクより先にお前が寝るのかよ。そういえば、連勤だとか言っていたか。ボクの誕生日に休みを取ったと笑顔で報告した後に。
まぁ、ヒマは潰せたから今日のところは目を瞑ってやるか。
ケーキは一口も食っていない。だというのに、甘ったるいものが身体中を巡っている気がするのはなぜだろうな。