ご都合〜で猫になった七海と事情を知らない灰原くんのラブコメの冒頭*
クソ。
本日何度目か分からない悪態が口からこぼれそうになり、七海は代わりに深いため息を吐いた。
日が沈む前に終わるはずだったよくある四級呪霊の一掃任務は、蓋を開けてみれば呪詛師が絡んでいる案件だった。呪詛師は七海よりも格下だったが、面倒なことにそれなりに多くの呪霊を使役していたおかげで時間を食わされた。
結局、全てが片付いたのはすっかり夜が更けてしまっていた。然るべき機関へ呪詛師を引き渡しに行く補助監督とはその場で分かれ、なんとか終電に滑り込んで高専の最寄り駅へ着いた時にはもう日付が変わる頃だった。
本当に人使いが荒すぎる。自ら選んだとはいえ、学生をこんな時間まで働かせるこの業界に対しては文句しか出てこない。
「クソッ」
ぽつりと鼻先で弾けた雫に、七海は反射的に声をこぼした。
ここ数日曇り空が続いていたが、どんより重たい空はとうとう泣き出したらしい。まだコートがいるような季節ではないが、秋の夜は昼間と比べたら格段に冷える。服が濡れてしまえばなおのことだ。七海は仕方なく獲物の入った薄い鞄を頭の上に掲げたが、しとしと降りだした雨の雫は着実に黒い制服を重くしていった。
こうなったら走った方がまだマシかもしれない。
そう思い、七海は高専へ続く暗い山道を走りだした。だが、しばらく進んだ辺りで七海は小さな違和感に気がついた。
雨水を吸った革靴が異様に重く感じる。左手に持っている薄い鞄もずっしりと腕を引く。ゼイゼイと息が切れ、徐々にスピードも落ちていった。
一体、どうしたというんだ。任務は滞りなく終えた。
なんとか歩みを止めずにいると、山道の向こうに大きな鳥居が見えてきた。階段を登り切れば完全に高専の敷地だ。最悪、敷地内に入ればなんとかなるだろう。
しかし、いつも以上に長く感じる階段を登り切った時、七海は濡れた地面に手をついていた。もう立っていることすら難しい。出来るだけ人のいる場所へ向かおうと、七海は獲物が入った鞄を置き去りにして四つ這いでのろのろと進んだ。
全身ぐっしょりと濡れているのに、なぜか異様に熱く感じる。サイズがぴったりのはずの制服もやたらと身体にまとわりついてきて、腕や足の動きを遮られるようだった。
上手く力が入らない。視界もぼやけていく。
気がつくと七海は濡れた地面へ倒れこんでいた。
ここまでか。
死ぬことは怖くなかった。まだ何も知らなかった幼い日。初めて呪いというものを見た時から、恐怖という感情が少しずつ鈍っているように感じていたからだ。
呪術師という道を選んだ時から、ベッドの上で穏やかに死ねると思ってはいなかった。雨が降っているが身体に痛みはないし、このまま意識が途切れていくのならまだ楽な方なのかもしれない。それなりにやれることはやったから、まあ別にここまででもいいだろう。
そう思ったところで、七海はギリっと奥歯を噛み締めた。
違う。心残りはある。正確には、ここへ来てからできてしまった。
灰原。
たった一人の同級生。そして、初めて恋をした相手。
呪いが見えるようになった幼い日から、周りとは一定の距離を保って生きていこうと思っていたのに。こっちのことなどお構いなしで、灰原はするりと壁を乗り越えてきた。
気付けば当たり前に側にいて、それが不思議と心地よくて、いつのまにか好きになっていた。
灰原へ想いを伝えたかった。
ちゃんと、きみが好きなんだと言葉にしたかった。
なんとか腕に力を込めた七海は、地面に這ったまま進んだ。どのくらい時間が経ったかは分からない。霞む視界の向こうにぼんやりと映ったのは見慣れた寮だった。
向かうのは庭に面している一室。灰原の部屋。玄関に回るより窓を叩いた方が早い。まだ明かりはついているから、きっと灰原は気付いてくれる。
七海は必死に窓へ腕を伸ばした。だが、何故か窓が異様に高い場所にあるように感じた。すぐ庭に出られる掃き出し窓のはずなのに。まるで自分が縮まってしまった感覚に陥った。
灰原。
最後の力を振り絞って名前を呼んだ。しかし、聞こえたのは細い猫の鳴き声だった。
猫なんか、どこに。
単純な疑問が浮かんだが、七海の意識はそこでぷつりと途絶えた。
*
温かくて柔らかい。
雨に濡れた地面の上にいたはずなのに、どうして。
瞼だけでなく全身が重くて、身をよじることも目を開けることもできない。だが、自分の身体が優しいものに包まれていることだけは不思議と理解できた。
「気がついた?」
聞き慣れた声が耳に届く。なんとか瞼を開けると、すぐ真上に微笑みを浮かべた灰原の顔があった。
「もう大丈夫だよ」
ああ、よかった。またきみの顔を見ることができて。
どうやら灰原の腕の中にいるらしく、灰原の体温がじんわりと伝わってくる。自分は全身ずぶ濡れになっているはずだが、今はただ灰原の優しさに身を委ねていたかった。
「もうすぐきみを診てくれる人が来てくれるからね」
灰原の向こうに見える天井は、寮の個室ではなく何度もお世話になっている医務室のものだった。
家入に連絡したうえに、わざわざここまで運んでくれたのか。いくら術師として日々鍛えているからといって、意識のない人間を運ぶのは骨が折れただろう。
すまない。ありがとう。
そう口にしたつもりが、上手く喉を震わせることができない。代わりに手を伸ばそうとしたが、それに気が付いたのか灰原はにこりと笑って頭を撫でてきた。
そっと手のひらが触れて、頭全体を包み込まれる。不思議と灰原の手がやたらと大きく感じたが、撫でられる心地よさに七海の瞼はまた重くなっていく。
「家入さんはすごい人だから、人間じゃなくてもちゃんと治してくれるから安心してね」
だが、灰原の言葉に微睡んでいた七海の意識は引き戻された。
……人間じゃなくても?一体なんのことだ。
まだおぼつかない頭に疑問が浮かぶ。その時、医務室の扉が開く音がした。
「あ!家入さん!朝早くにすみません!」
「いいよ。徹マンしてたから。で、診てほしいってのはコイツか」
「はい。朝起きたら庭に倒れてて。外傷はないんですけど、なんか弱ってるみたいで……」
気怠げに寄ってきた家入が顔を覗き込んでくる。その時、七海は違和感を覚えた。
家入はこんなに背が高かっただろうか。それに、自分を抱えている灰原の腕もここまで太くはないはずだ。
頭は徐々にはっきりとしてくるが、それと比例して疑問は増える。
「電話でも言ったけど、私は人間以外の解剖に興味はないんだけなぁ」
人間以外?
「すみませんっ。でも、家入さんなら猫も大丈夫かなって」
猫?
「まあ、生きてるなら猫でも犬でも反転術式は有効だと思うけど」
やっぱり、猫と言ったか?
「よかった!ありがとうございます家入さん!」
二人がなにを言っているのか理解できない。だが、混乱する七海をよそに、家入は処置用の薄い手袋をつけ始めた。
「じゃあ診てみるから、とりあえずそっちの机の上に置いて」
「はい!」
家入が指したのはベッド横の簡易テーブル。
あんなとこに乗るわけないじゃないですか。
慌ててそう口にしたつもりが、七海の耳に届いた声は全く違っていた。
「にゃあ」
にゃあ?にゃあ、とは。
「あ!鳴いた!」
「鳴く元気はあるみたいだな」
「ほんとですね!」
嬉しそうに笑う灰原の手から降ろされた時、七海はやっと自分の身体の変化に気が付いた。
ストンとテーブルの上に着いた手と足。泥だらけではあるが淡いクリーム色の少し長めの毛に覆われていて、手先はきゅっと丸まっている。恐る恐る裏側を見てみると、そこには薄いピンク色をした柔らかそうな肉球が付いていた。
まさか、そんなことが……?
状況を飲み込めないでいると、家入に淡々と腕や脚の動きを確認された。触れる家入の手は明らかに大きくて、さっきの違和感は間違いではなかったのだと受け入れざるを得なかった。
どうやら、本当に猫になっている。原因は分からない。だが、直近の出来事で考えると、ついさっきの任務が関係していると考えるのが妥当だろう。
なんとか伝えなければ。
そう思い口を開くが、出るのは「にゃあ」という鳴き声だけだ。それでもひたすら鳴いていると、家入にグイッと顔を上げられた。
「ん?」
「どうかしましたか?」
「いや……」
小さく首を傾げた家入は、訝しげな顔をしながらジッと見つめてくる。もしかして、気が付いてくれたのだろうか。
「灰原、ちょっとコイツ預かってもいいか。ちゃんと診てみるから」
「え!?どこか悪いんですか!?」
「いや、たぶん大丈夫。とりあえずお前は部屋に戻ってな。終わったら連絡するから」
「わかりました……じゃあ、またあとでね」
少し不安げに眉を下げた灰原は、そっと七海の頭を撫でて医務室を出て行った。そして、灰原の気配が完全に遠ざかったところで、家入は珍しく小さく声を漏らして笑い始めた。
「お前、七海だろ」
タバコに火をつけた家入は、七海の顔を掴んでもう一度ジッと見つめてくる。
「随分面白いことされたね。確か昨日は単独任務だったな?ここまで帰ってきてるってことは任務自体は終わったんだろうけど、発動するまでちょっと時間がかかる術式ってとこかな」
家入に気付いてもらえたことは助かった。だが、どうして灰原は気付かなかったのかが少し腑に落ちない。ここで一番一緒にいたのは灰原だというのに。
そんな七海の疑問を察したのか、家入は楽しげに口を開いた。
「姿形が変わっても奥底の呪力の気配は同じだけど、それを判断するにはコツと経験がいるんだよ。私は何回かお前に反転術式してるから分かったってだけ。だから気にするな」
別に気にしてなんかいません。
七海は咄嗟にそう返しかけたが、どうせ鳴き声にしかならないのだからと頷くだけにとどめておいた。
「まあ、時間が経ったら戻るやつだよ。五条に見てもらえばある程度の時間も分かると思う」
六眼とかいう目のことか。時間経過で戻ることには心底ホッとしたが、最強と言いわれる術式の代わりに遠慮もデリカシーもどこかに置いてきてしまった五条にこの状況を知られることは正直避けたい。
しかしちょうどその時、医務室の扉が勢いよく開いた。
「まだかよ硝子!お前勝ち逃げする気じゃねーだろうな!」
「私もあのまま終わって問題ないけど」
「それじゃあ俺が負けっぱなしだろ!」
なにやら不機嫌な五条がツカツカと詰め寄ってきて、その隣には夏油もいる。
それにしてもタイミングが良すぎる。まさか気付かぬうちに家入が連絡していたのだろうか。
「また巻き上げてやろうか?ていうか、手間が省けた」
「何がだよ!」
「コイツ」
「ああ、この子が灰原の言ってた猫か。で、当の灰原は?」
「ちょっと部屋戻らせた」
「別に大丈夫そうじゃん。灰原に返して続きやろうぜ」
小さな簡易テーブルの周りに集まった三人に、七海は内心たじろいだ。
七海も平均より体格は良い方だが、夏油も五条も七海より上背に加えて厚みもある。しかも、猫になっているせいかいつもの何十倍も圧を感じてしまう。
「まあとりあえずさ、五条、コイツちゃんと見てみてよ」
「あ?ちゃんと?」
家入の言葉に五条は怪訝な顔をしたが、サングラスをずらして青い瞳で七海をジッと凝視した。
「……は?え?コイツって」
「そう」
「マジで!?これ、ちょっ、ブハハハッ!!」
「いやー、私も久々に笑ったわー」
「私だけついていけないんだが」
また小刻みに肩を震わせている家入と腹を抱えて爆笑する五条。そして、そんな二人を見て困惑している夏油。
ここから逃げ出したい。しかし、後ずさった七海は家入に首根っこを掴まれていた。
「これ、七海なんだよ」
「え?この猫が、七海……?」
*
ひとしきり笑った夏油は教員へ状況を伝えに行き、出張中の担任の代わりに夜蛾がすぐやって来た。夜蛾は渋い顔をしていたが、簡易テーブルの上にちょこんと座る猫(七海)を見るなりへにゃりと目尻を下げたので、五条がまた声を上げて笑っていた。
「補助監督に連絡したら、家入の読み通り時間経過で戻るそうだ。悟、どのくらいか分かるか?」
「あー、たぶん一週間くらいだろ」
夜蛾に教育的指導を受けた五条は不貞腐れながら口を開いた。
一週間。決して短くはないが戻るのだから仕方がない。しかし、元に戻るまで自分がどこでどう過ごすことになるだろう。いま自分を囲むのは、ふざけた先輩×三人と顔に似合わず可愛いもの好きだという教員。正直、どれも願い下げだ。
──灰原なら。
そう思った時、七海は複雑な心境になった。
灰原は同級生であるし気兼ねする必要もない。しかし、自分は灰原に絶賛片想い中なのだ。入学してから辛い場面も悲しい場面も共有してきたが、こんな姿を片想い中の相手に晒す恥ずかしさを完全に捨てることはできない。
一番マシな選択肢は。
七海はパッと夜蛾の方へ向かおうとしたが、また家入の手に捕まっていた。
「先生ー。戻るまでの七海の世話、灰原に任せたらいいと思う」
は?
「まあ、それが妥当だな。俺も任務が入ってるし付きっきりはできないからな」
ちょ、ちょっと待ってください。
意義を申し立てようとしても、口から出るのは鳴き声だけだった。
「七海もその方がいいって」
「硝子は七海の言ってることが分かるのか?」
「なんとなく」
嘘をつくな!
家入を睨みつけても、ただ含みを持った笑みを返されるだけだ。すると、七海は家入の手からヒョイと夏油に抱き上げられ、耳元でそっと囁かれた。
「またとないチャンスじゃないか七海。好きなんだろう?灰原のこと」
どうしてそれを……!
猫になっているから然程表情に出ていないはずが、夏油は全てお見通しかのように微笑んでいる。
一体いつから知られていた。いや、誰まで知られているんだ。
七海が困惑していると、夏油は楽しげに言葉を続けた。
「先生。猫になっていることは、灰原には伏せていてほしいそうです」
「事情を伝えていた方がやりやすそうだが」
「余計な心配をかけたくないらしいです」
「うん……そうか。なら、七海は一週間ほど京都校へ研修に行ったことにしておこう。それなら灰原に心配もかけないだろう」
今の自分に拒否権なんてない。もう好きなようにしてくれ。
七海は半ば自暴自棄になっていた。
それからの流れは早かった。
もう一度体調や呪力の流れを家入に診てもらい、戻るまでの正確な期間をもう一度五条に確認してもらった。ちなみに、荷物や制服は高専の入口近くで夏油が見つけたらしく、灰原にバレないよう保管してくれることになった。
そして、灰原を医務室へ呼び『この猫はとある術師の使役獣で一週間ほど休養が必要になった。しかし、使役主がどうしても任務を抜けれなくて代わりに高専で面倒を見ることになった』という口実を夜蛾が伝えた。
「それで、この猫の世話をお前に任せたいんだが、構わないか灰原?」
「はい!もちろんです!」
元気よく頷いた灰原は、簡易テーブルに座る猫(七海)に目線を合わせるように腰を屈めた。
「あの、この子名前なんて言うんですか?」
「ケントだよ、灰原」
「七海と同じですね!きみかっこいい名前つけてもらってるんだ〜!」
まさかそんなことを言われると思っていなかった。ソワソワ落ち着かないでいると、七海は灰原にそっと抱き上げられた。
「よろしくね!ケント!」
初めて下の名前で呼ばれたのが猫になっている時なんて、不服でしかない。だが、すぐそばに微笑む灰原の顔があり、七海の脈は自然と早足になっていた。
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