桜の森の 頂上決戦で疲弊し満足に体を動かせぬクロムをよそに、青年は椅子に座りただじっと本に視線を注いでいる。クロムが一旦意識を取り戻して既に二日が経つ。寝台に横たわるだけの生活に飽き、クロムは何気なく青年に向けて口にした。
「お前はいつも本を読んでいるな」
背を向ける青年が穏やかだが目は笑っていない微笑で振り返る。嫌な男だ、と、クロムは出会った当初から変わらぬ感想を胸に湧かせた。
クロムの身辺を世話する男は暇さえあれば読書している。クロムの位置からは文字を判別できないが、縦にびっしりと書かれた文章は読了にそれなりの時間と気合を要するそれに思われた。青年は本好きを通り越して活字中毒とも言えるほど読書に時間を注いでいる。何がそれほど面白いのか、余暇をトレーニングに費やすクロムには青年の嗜好が理解出来なかった。
「お読みになりますか?」
「興味ない」
「面白いですよ。
今読んでいるのは坂口安吾の『桜の森の満開の下』……美しくも恐ろしい、幻想的な短編小説です」
物語を要約すれば斯くの如きだ。ある日山賊は日課として山に入った夫婦のうち亭主を殺し、殺された男の伴侶たる美しい女性を女房とした。女はひどく残酷な性格であり、男は女と暮らすうちに嫌気が差した。女の命に従い都で暮らすようになった山賊は帰ろう、と、自身の根城たる山に女を連れて戻る。男は豪胆な男だったが唯一つ、桜の森の花の下のみ恐怖した。
女を負ぶって山へと帰る男が桜の森の下に差し掛かったとき、美女が鬼のような老婆に変貌する。恐ろしくなった男は鬼女の首を絞めて殺すが、男が我に返ったとき男の眼前には美女が死体となっていた――青年は頼まれもしないのにあらすじを語り、ふと得体の知れぬ笑みを浮かべる。クロムが訝しがったとき、青年は身動きとれぬ彼に近づき、ベッドの傍らに立った。
青年の細くしなやかな指がクロムの首に触れた。
青年の指先はぞっとするほど冷たく、温度が殺意を想像させる。憎悪も怒りもない、戯れに起因する殺意だ。邪気はないがだからこそ恐ろしい振舞いに、クロムは眉を吊り上げて低い声を発した。
「何の真似だ」
「首を絞めれば締まると思いまして」
何が、と問うのは野暮な話だ。クロムとて成人男子であり、夜の営みの知識はあった。下品な話だ。だが手を払いのけ男を制し、その場を脱する術を彼は持たなかった。
クロムはつくづく、己が何の庇護もない、無防備な有様であると自覚した。
体は未だ思い通りに動かず、意識を取り戻した場所はまったく見覚えがなく。逃走も闘争も不可能な状態を彼はこの場の誰よりもはっきりと理解していた。もし目の前の青年がその手に力を込めればクロムは成す術もなく殺される。相手の思うがままにされる現状を、クロムは首に触れる指先で痛感した。眼鏡越しに怜悧な双眸を向ける青年は口角を吊り上げ、愉悦の滲む微笑でクロムの顔を凝視している。男の氷の目に湿り気を帯びた熱が――情欲、とおぼしき熱が、じんわりと滲んでいた。
忌々しい。
抵抗出来ぬ相手を抱こうと婉曲に言ってのける男に、クロムは凄味のある表情を浮かべる。彼は絶体絶命の状況下で恐れを覚えはしなかった。並の人間ならばおののくだろう、しかし龍宮クロムという男はXタワーのチャンピオンであり、尋常ならざる精神の持ち主だった。凡人の反応たる恐怖の代わりにドス黒い笑みを見せる。彼の凄絶な笑い顔に圧倒的優位に立つ男は目を見張った。
「やりたければやればいい」
喰らい尽くしてやると言わんばかりの表情でもって、クロムは相対する青年を凝視する。青年――露地ランツが“ひゅう”と口笛を吹きたい気分で、覇者たる男を見つめ返した。
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ランツさん=読書家、は私的な設定です。今後もちょくちょく本を読んでいたらそうなのでしょうが、現時点では不明です。