スパイごっこ with 猫 ヘアフィールド邸のリビング・ルーム。ソファには屋敷の主エードリアンと、今夜の客人ノーマンの姿があった。
「なあ、エードリイ。あの猫の首輪、何かついてないか?」
ワインのグラスを傾けながらソファにもたれていたノーマンが、暖炉の前を歩く猫を顎で指した。黒く柔らかな毛並みの、美しい雌猫だった。
「マダム・グレースのことか?」
エードリアンは読書を中断して本を膝の上に置き、猫をちらと見る。
「首輪の飾りが揺れているだけだろう」
「いや、見ろ。あれはどう見てもマイクか発信器だ。僕の目に狂いはない」
「君は何でもそういうものに見える病気なんじゃないか?」
ノーマンはにやりと笑って立ち上がった。
「尾行してみよう」
「……バカげてる」
「君の国の安全保障にかかわる事態かもしれないぞ。いいから、来たまえ。退屈しのぎさ」
エードリアンは本を閉じ、顔をしかめながらも立ち上がった。
かくして、二人の“スパイごっこ”が始まった。
マダム・グレースには彼女なりの巡回路があるらしく、リビング・ルームから廊下、キッチン、書斎、そして寝室へと、悠然と歩き回る。その動きを物陰から覗き見る侯爵とピアニスト。
「……旦那様」
夜勤のメイドが偶然二人を見つけてしまったときの、あの声は一生忘れられそうにない。
「旦那様……なぜ、床を這っておられるのですか……?」
「気にするな、リジー。体操だ」
「夜中に?」
「英国式だ」
「はあ……」
リジーは納得していない様子だったが、それ以上は追及せず去っていった。
マダム・グレースは夜明け近くまで巡回を続けた末、飽きたようにリビング・ルームのバスケットに戻り、丸くなった。
ノーマンとエードリアンは、暖炉の前に座り込んだ。エードリアンが呆れたように問いかける。
「……で? 何かあったか?」
「いや、何も」
「通信を傍受している者の気配は?」
「ゼロだ」
「つまり?」
ノーマンは肩をすくめ、エードリアンはため息を吐いて額に手を当てた。
「バカなことをしたな、僕たち」
朝食の後、紅茶がちょうど半分になった頃、メイド長が控えめに報告してきた。
「旦那様、例の猫の首輪の件ですが……」
「うむ?」
「どうも、先日泊まりに来ていた私の孫が、科学クラブで作った装置をこっそり取り付けたようでして」
「何だと?」
「『猫の行動パターンを観測する実験』だそうです。『猫ってどこ行くかわからないから、電波で追跡できたら面白いって思って』などと……。申し訳ございません。あの子、変わったことが好きでして……」
ノーマンが苦笑して呟いた。
「つまり、昨夜の僕たちは——」
「小学生の科学的好奇心に翻弄されていたわけだ」
「てっきり、あの猫はどこかの情報部の訓練を受けてるのかと思ったよ」
「いかに人手不足でも、まさか猫まで動員はすまいよ」
マダム・グレースは、二人の足元で伸びをして、大きなあくびをした。首輪が、朝日を受けて静かに光っていた。