魔王陛下はきゅうりに夢中 それは、洛冰河と共に街歩きをしていた時のこと。
少し喉でも潤そうかと、通り沿いにある店が外に出している腰掛けを借り、お茶と一緒に注文した甘いものを摘んでいたときの事だった。
街の賑わいなどについて他愛もない話をしながら、何とはなしに通りを眺めていると、両脇に出店が立ち並ぶ大通りの人混みの中をくぐり抜けながら、幼い子どもたちが歓声をあげて走ってくる姿が見えた。
兄妹なのだろう。彼らの顔立ちはよく似ており、上二人の兄たちが、少し歳の離れた弟と妹の周りをケラケラと笑いながらぐるぐると走り回っている。弟と妹は一緒に手をつなぎ、近くに来た兄を掴まえようと、これまたキャッキャと楽しそうに駆け回っていた。
その一団は、しばらく沈清秋の眼の前でじゃれ合っていたが、やがて下の弟がふらりと大人にぶつかって叱られると、上の兄が「ごめんなさい」と頭を下げて、今度は皆で手をつないで家があると思われる方角へと走り去って行った。
(うちと同じ兄妹構成だったなぁ・・・・・・)
まぁ、あんなに小さい頃の事は憶えていないけれど。
沈清秋は少し懐かしむような気持ちで、子どもたちの背を見送った。
その姿が見えなくなるまで、見送り続けた。
「師尊にも、ごきょうだいがいたのですか?」
師の様子は少しも見逃さない洛冰河が、柔らかな口調を使い尋ねてくる。
「・・・・・・まぁ」
沈清秋は、少し迷ってから曖昧な返事を返したが、洛冰河はそれを肯定と受け取ったようだった。
「では、以前“きゅうり”と名乗られていた時のお姿は・・・あれは、ご兄弟のお姿を借りられていたのですか?」
「ん?」
また、意外な時に意外な事を訊いてくるものだ。
「何故、急にそんなことを?」
「いえ、以前から伺ってみたいと思ってはいたのですが、なんとなく口にする気分になれず・・・・・・」
(ううっ・・・それはそうだろうなぁ)
その出来事は、洛冰河にとってトラウマ級のメンタルダメージであったろう。
口論の末に想い募った相手を襲ったら、その相手がのたうち回って苦しんだあげく魂が抜けてしまい、数日に渡って蘇生を試み続けたにも関わらず、結局、眼の前で萎びていってしまった────なんて。 更に言えば、洛冰河にはそれ以前にも、5年に渡って魂の無い沈清秋の身体に招魂を試み続けた経験があるのだ。あの際も、己に拠って師を死に至らしめたとの悔恨があった筈。
すべての誤解が解けた今となっては、返す返すも洛冰河に対して申し訳なさばかりが湧いてくる沈清秋である。
「無理にお話しいただかなければならない程の事でもないのですが・・・ご自身が使う姿を作られる時、どんな理由があってその姿を選ばれたのか、気になってしまって」
いや、単に転生前の自分の姿にしとくのが一番しっくり来るかなと思っただけなんだけど、素材に『沈清秋』の身体の一部を使ったから三、四割程似た姿になっちゃったんだよねー・・・などと正直には言えない。
ここはひとつ無難にと「よく気付いたな、弟の姿だ」と出任せを言ってみたところ、冰河はその華やかな美貌に明るい笑みを上らせて、「やはりそうでしたか」と言ってから、心底安心したとでもいうようにホッとため息を吐いた。
「よく似ていらしたから、もしかしてそうではないかと思っていたのです。・・・・・・ああでも、伺ってみてよかったです。もしも想いを寄せた方の姿だったりしたら、妬いてしまうところでした」
その「もしも」について、どうしてそんな発想になるのかは問わないこととしたい。
洛冰河の嫉妬深さについては最早標準装備と理解しているが、そんなことばかり言われ続けていると、実はライバル探しが趣味なんじゃないかとさえ思えてきてしまうからだ。他人に迷惑をかけなければ、それでいい。
洛冰河は「ああ、本当によかったです。長のつかえが取れた思いです」などとまだ言っているが、その横顔が言葉どおりに晴れ晴れとしたものだったので、もう気が済むまで浸らせておこう・・・と、そう沈清秋が思っていると。
「師尊。実はこの弟子は、ひとつどうしても叶えたい望みがあるのです」
急に真顔になった洛冰河が、正面から真っ直ぐな眼差しで見つめてきた。
そろそろ陽も落ちてゆく頃合いで、茜ゆく空を背にし、少し逆光気味に映った顔はその陰影も美しく、キラキラと輝く瞳もまた希望の光を宿していた。
そんな夢見る少女のような表情をしてどんな楽しい事を思いついたのやらと、沈清秋の口許も思わず苦笑で綻んでしまう。その想い人の笑みを拾って、洛冰河は少し恥ずかしそうに願いを口にする。
「────聴いて、いただけますか?」
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夢の中に於いて、五年もの間亡くしてしまったと思っていた師の生存を確信した後、目覚めた洛冰河の行動は早かった。すぐさま魔界の軍勢を率いて、蒼穹山を包囲したのだ。
少し突付けば、山に迷惑をかけてまで大人しく隠れていられるような師ではない。
そして実際、彼は現れた。
柳清歌との間に割って入ってきた彼が、心魔剣に掛けていた己の手に、体温を感じられる彼自身の掌を添えて押さえてきた時・・・・・・あの時の歓喜と興奮を、何と言い表したら正しく伝えることができるだろうか。洛冰河には思い当たる言葉を見つけることが未だにできない。
けれど、全身が打ち震えるような、そんな感激は一瞬のことで。
「お二人とも、あれはただの死体ですよ! たかが死体に、そこまでする必要はないでしょう!」だなんて。
まだ他人のふりを続けるつもりかと思ったら、その高まりは瞬時に昏い影を帯びた。
彼の手首を掴んだ途端、ビクリとその身体が震えたのを覚えている。
「────師尊、捕まえた」
瞬間、怯えの混じる眼差しを向けられて酷く傷ついたけれど、だからといってもう離すことなんてできなかった。
貴方にどんな風に思われようと、俺には貴方しか・・・貴方だけ、なのだから。
魔界の地下宮殿に作った竹舎に軟禁した。
本当はもっと自由を与えて寛いでもらいたかったけれど、貴方にまた逃げられるのが怖かった。
「なるべくそなたに会いたくない。なんなら会わずに済めば一番だ」
何故そんなにも忌み嫌われ、避けられてしまうのか解らなかった。貴方を捕まえるために貴方を騙しはしたけれど、貴方だって俺を騙したでしょう?
俺が魔族だったから? 俺が復讐をするとでも思って怖れているから?
貴方に復讐なんて、そんな・・・・・・そんなこと。
姿を見せなければ、落ち着いてくれますか?
穏やかに、時間をかけてここに馴染んでいけば、いつか、俺が変わらず貴方にとって無害な存在だとわかってくれますか?
いつか、普通に話をしてくれるようになるでしょうか。
いつか・・・
いつか────
*:*:*:*:*
紗華鈴を呼びつけた。
当初は適当に聞き流していた、彼を辺境の地で見つけた時のことを、もう一度詳しく報告させた。
姿を変えていたとはいえ、それなりに師の面影も残していた彼を見定められなかったのは痛恨の極みだった。貴方はそこに居たのに、貴方と気づけず、危うく三度も殺しかけた。
供物として連れてこられた彼を、師に似た顔の別人と思い込み、怒りが湧いて血蠱を発動させた時。
魔気を落ち着かせるための器として、彼から膨大な霊力を吸い上げ、ありったけの魔気を遠慮なく注ぎ込んだ時。どういった訳か、あの時の彼は異常なほど霊力の回復が早く、さしたるダメージを受けたようには見えなかったが、並の修真者であれば一度で廃人にしてしまう行為だったのだ。
それから、幻花閣に襲撃をかけてきたあの負け犬に師の身体を奪われた怒りから、奴と結託した彼に対して、再び血蠱を発動させた時・・・・・・
────危なかった。
幸いにも未遂に終わったけれど、一歩間違っていたらと思うと今でも心臓が凍る思いがする。
師と認識していなかったからとはいえ、そんな扱いをされたのでは、危険と怖れ避けられるのも致し方ないようにも思えた。
「最初の接触はどのような経緯だったのだ?」
跪いた紗華鈴は緊張した面持ちで答える。
「誓って申しますが、あやつ・・・いえ、あの方のほうから赤雲窟に乗り込んで来たのです。器候補として捕らえていた修真者たちを逃がす目的で。むさ苦しく髭などを付けていたので、わたくしも本当に、君上のあの方に似ているなどとは気付かなかったのですわ。酒場では“きゅうり”などと名乗っておりましたし、さすがに品性を疑いましたもの」
「きゅうりの何が問題なのだ。師尊を侮辱する気か?」
瞬間、主君の声に冷ややかなものが混じり、うっかりしたことを言ってしまった・・・と紗華鈴は肝を冷やす。
「滅相もございません。失礼致しました」
洛冰河にはこういったところがある。
“きゅうり”が男性器の俗語であることは紗華鈴のような魔族聖女でも知っている事だが、長く修真界に身を置いていたためか、洛冰河はあまり俗語というものを知らないようなのだ。威圧的な物言いをすることはあっても、汚い言葉を使う場面には出くわしたことが無い。
それとも、知ってはいるが敬愛する師の面目を慮って知らないふりを決め込んでいるのか・・・・・・
「────きゅうり殿・・・か」
誰もが見惚れるその美貌に深い憂いを湛え、切なく零れる君上の、その台詞の残念さといったら・・・・・・
早くこの時間が終わらないかしら と低い位置で目を泳がせながら、紗華鈴は次の主君の言葉を待つのだった。
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翌日から、洛冰河は仕事をしなくなった。
そして、人界から攫ってきた料理人を解放した。
人と魔族は好んで口にするものが全く異なってはいるが、高位の魔界貴族ともなると腐肉嗜好からは解放され、人間のように手間暇をかけた料理を好む者も多い。紗華鈴もそのひとりで、群れるばかりで弱く脆い人間全般を蔑んではいたものの、魔界産の食材すら努力と工夫で美食と成せる腕利きの料理人については非常に目をかけており、厚遇を惜しまなかった。それなのに・・・・・・
わかっている。すべてあの男のせいなのだ。
万が一攫った人間があの男の目に入り、機嫌を損ねることがあっては と、君上は怖れているのだろう。
魔王ともあろう御方が何を弱腰な・・・と忌々しく思っていた紗華鈴だったが、実のところそれは目的の副産物的善行に過ぎず、洛冰河の本意は別のところにあった。
昼前にたまたま厨房の前を通りかかった紗華鈴は、無人となった筈のその場所から何やら物音がするのが気になって、思わず足を止めて覗き込んでみた。その気配を感じた厨房の中の人物も、すぐさまこちらを振り返り、思わず二人は目が合ってしまう。
鍋と菜箸を手にしたその人物は、普段は垂らしていることの多いクセのある艶髪を高い位置で1本に纏め、長い袖も邪魔にならぬようたすき掛けにした姿の、彼女の主君だった。
鍋からはほわほわとした湯気とともに、紗華鈴が嗅いだことも無い滋味に溢れた匂いが漂ってくる。
「ちょうど良いところに来た」
洛冰河はそう言うと、紗華鈴をその場に待たせ、お盆の上に鍋の中の汁物とご飯と数種類の副菜を入れた小鉢を綺麗に乗せて、紗華鈴に差し出した。
「あの方に持っていってくれ。私はこの後、部屋に戻る」
そう言うと、使った調理器具を自ら洗い始める。
呆気にとられた紗華鈴が何か言おうとする前に、洛冰河は
「冷めないうちにお出ししろ。誰が用意したものかは答えるな。ただ、今日明日あたりまでは手をお付けにならないかもしれないから、その時はしつこく勧めずに捨てていい」と言うと、再び顔を伏せて洗い物に意識を戻した。
それ以上何か言っていいような雰囲気でも無かったため、紗華鈴は「御意」とだけ答え、言いつけどおりに沈清秋が居る地下宮殿の竹舎へと向かった。
洛冰河の予想通り、軟禁を余儀なくされていた沈清秋は当然上機嫌なわけもなく、最初はろくすっぽ返事も寄越さなかったが、彼に対して遠慮する義理の無い紗華鈴が食べものを筆頭とした諸々の恨みを込めて「あんた、本当に見つかりたくないと思ってたんだったら何でそんな中途半端な顔にしたのよ!」「本当は君上にご機嫌取りされて満更でもないと思ってるんでしょ」「食べずに弱ったところで帰してもらえるとは思わないことね」などと一方的にぎゃあぎゃあ騒ぎ立てると、さすがに煩わしく思ったのか、「辟穀を習得済ゆえ食べずとも無様を晒すことはない。放っておけとそなたの主に伝えろ」とだけ言うと結跏趺坐の姿勢をとり、それ以降は紗華鈴が何を言っても瞑想を装い無視し続けた。
腹を立てた紗華鈴が膳を下げに厨房に向かうと、すでに洛冰河の姿は無く、彼の洗っていた調理器具類も綺麗に仕舞われた状態になっていた。捨てていいとは言われたが、わざわざ君上が手ずから用意した食事をごみとして扱うのも忍びない。少し冷めて湯気はもう落ち着いてしまったものの、器はまだほんのりと温かかった。紗華鈴は少し迷ってから、汁物を一口含んでみた。単にどんな味がするのか興味があったのだ。
だが────
紗華鈴が我に返ったときには、すでに目の前の膳の中身をすべて完食した後だった。
それは洛冰河が心を捧げた師に久しぶりに味わってもらうために、敢えて素朴な具材を丁寧に丁寧に煮炊きした最上級の“洛冰河ごはん”だったのだ。照り艶は美しかったものの、ジャンルとしては明らかに家庭料理の範疇を超えたものではない。なのに、絶品としか言いようのない美食の誘惑に、抗おうという意識すらのぼらせることも無いまま、紗華鈴は完全に屈服していた。
大丈夫、だいじょうぶよ。「捨てていい」とは言われたけれど「捨てろ」とまでは言われていない。
(あの様子では、きっとあの男はしばらく食事などしないわね)
そして、それがわかっていてもなお、洛冰河は手を付けられることのない食事を丁寧に作り続けるだろう。
(なんて馬鹿な男たち・・・・・・)
そんな心の呟きとは裏腹に、紗華鈴の口許は正直に、うっとりとした笑みを形作っていた。
夕餉前にも素知らぬふりをして厨房の前を通りかかることを決意すると、午後の仕事を片付けるべく、紗華鈴はその場を後にした。
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しかし、彼女の幸せな食生活はそう長くは続かなかった。
それから二日を過ぎたあたりで、厨房に居る以外のほとんどの時間を自室に籠もることに費やし、他者を寄せ付けなかった洛冰河に久々に呼び出されたと思ったら「以後配膳は別の者にやらせる」と宣言されてしまったのだ。
「貴様は我が師に嫌がらせのような態度をとっていたな」
残念ながら言い逃れはできない。心当たりは大有りだった。
食事を持ち込むたびに紗華鈴は、相手をうんざりさせるような言葉を投げかけ、最後に「またどうせ食べないのでしょう」などと言うが早く退出することを繰り返していたのだから。当然、その手のつけようもない状況に持ち込んだ食事を、彼女が自らいただくためであった。
自室に籠もった洛冰河は、紗華鈴自身に用意させた水晶球で師の部屋を眺めて過ごしていたため、音声までは拾えないもののその様子から大方を察するに至ったのだ。
後任に選ばれたのは、腐肉食を好む中級魔族の侍女だった。
見目は悪くないが、それと知られれば人間から忌避される食習慣を持ち、当然人間の食事にも興味が無い女である。
愛想の良い彼女は、悪態ばかりつく紗華鈴の後もあってか師の頑なな態度を少なからずほぐし、食事をする気にさせることにまで成功した。
自分の作った料理を師が口にする瞬間を、洛冰河は水晶球越しに固唾を飲んで見守る。
米の匂いを嗅いでから、少し口に含んで咀嚼すると、師は「お?」といったような表情を作り、口許を緩めてそれを呑み込んだ。
(食べてくださった────)
嬉しくて。なんだかとても嬉しくて、洛冰河は鼻の奥にツンとした痛みを感じる。いやいや、まだほんの一口目だから・・・・・・
今の師の姿は、元々の姿によく似たところはあるものの、完全に同じではなく、もう少し庶民的な顔立ちと雰囲気になっていた。元の顔立ちは端正かつ優美であり隙無く整っていたことで冒しがたい雰囲気をも纏っていたが、今の顔立ちはそれよりも少し緩く甘く幼く見えた。一度死んだという事で峰主としての責務から解放された思いもあるのだろうか。なんだか少し、振る舞いにもくだけた様子が見て取れる。
洛冰河に見られているとも知らず、彼は目尻を下げて嬉しそうに何口かを口許に運んでいたが、やがて少しずつ表情を無くしていくと、一度箸を置き、侍女に何かを話しかけた。侍女はにこやかに何言かを返し、師は一瞬目を丸くしたが、再び箸を手に取ると、微妙な顔つきのまま食事を進め、結局完食をするに至った。
おそらく師は、その食事を作ったのが誰であるか気付いた筈だ。にも関わらず、最後まで食べてくださった。
(俺の作ったものを・・・残すこと無く・・・・・・・・・)
膝に置いた両手の平を思わずぐっと握り込む。
胸が、どうしようもなく疼く。
目頭が熱く滲んでいくのを感じ、瞼を閉じて項垂れた洛冰河の姿は、まるで・・・水晶球に向かって深く叩頭しているかのようだった。
*:*:*:*:*
師が少しでも気持ちを解いてくださったのなら、この機を逃す手など無い。
すぐさま尚清華を呼び付けると、完璧に修復を果たした修雅剣を持たせ、師兄と世間話でもして来い と言いつける。
いいか、できるだけ和やかにだぞ と。
洛冰河が清静峰に居た頃、師と安定峰主が親しく話している姿を見かけたことは無かったし、先だっての穹頂峰襲撃の折にはむしろ険悪な様子ですらあった。だが、そもそも一緒に日月露華芝を探す旅に出た挙句、あの身体を秘密裡に用意するという重大計画を手伝ったこともある仲なのだし、このような状況に於いては同門のよしみで、師の気持ちを更に解きほぐす一助となるかもしれない。
そう意図してのことだったが、部屋の扉の簾を上げて尚清華が顔を覗かせた途端、怒り狂った師が暴撃を放つのを目にして、「しまった、逆効果だったか!?」と洛冰河は青ざめた。
師はしばらく興奮した様子で何かを叫んでおり、普段から面の皮の厚い尚清華はヘラヘラとした態度で宥めすかすように何言かを返していたが、あまりの図々しい態度に絶句した師の隙を突き、堂々と腰を下ろした尚清華が卓の上に師の愛剣を置くと、師の意識はもう修雅剣にしか向かわなくなった。
かつての姿のままその手に戻った修雅剣を、感慨深げな面持ちで見つめる師の様子を見て、洛冰河はホッと胸を撫で下ろす。
やがて気持ちを落ち着けた師は、愛剣の手入れを行いながら、今度はやけに砕けた様子で尚清華と話しはじめた。洛冰河の知らない謎の仕種を交えながら、やけに表情豊かに、だ。和やかにと注文はつけたが、こうなると要望以上に親しげな様子に見えて、なんだか非常に面白くない。
そもそもあの二人の関係は、一体どういう前提の上に成り立っているのか。
師は、皮肉な面持ちになったり、眉を顰めたり、イラ立った様子を見せたりと、楽しげとは言い難いものの、洛冰河が見たこともないくらい早く口を動かしながら、コロコロとその表情を変えて話している。なんだか知らない人を見ているような気分になる一方で、これも師の持つ一面なのかと、思わぬところで宝物を見つけたような興奮も湧き上がってくる。
いずれにしろ、その相手が自分ではないことが洛冰河には悔しくてたまらない。
やがて、峰主二人はそれまでとは打って変わった真面目な面持ちになると、お互いに少し前のめりになり、相手の表情をしっかりと窺いながら話し始めた。
(そんなに顔を近づけて、何を話しているのですかっ!)
洛冰河の苛立ちは、やがて不安へと転じる。
話が長い。
何か密談をしているのかもしれない。
今回の日月露華芝の件のように、何か・・・なにか、洛冰河には思いもよらないような、特別な何かについて。
ついに耐えきれなくなった洛冰河は、会いたくないと言われた師の部屋へと足を向けた。
扉の外にいた数名の侍女たちに恭しく迎えられ、緑色の簾を持ち上げて中に入ると、すでに尚清華は姿を消していた。
師は何事もなかったかのような表情を作ってはいたが、話を中断されたためかその顔には不快な色が浮かんでいた。
その後のことは・・・・・・
誤解から拗れた話は収拾がつかず、悔しさともどかしさから洛冰河は想い募った師を襲ってしまった。
無体は未遂に終わったが、洛冰河はまた愛する師を自らの手で追い詰め、その身体を損なわせてしまった。
それは今でも時折洛冰河を苛む、悲痛な記憶だ。
誤解は解かれ、寄り添って生きることを約束してくれた師は、もう忘れなさいと言ってくれる。
けれど────
その記憶には、想い人たる彼には言えぬ昏い愉悦が付随しているのだ。
俺の情念を感じ取って、怯える貴方の顔を
膝を割られて、信じられないという表情を浮かべ、俺を凝視してきたあの顔を
貴方を組み敷いた俺を、組み敷き返して見下ろしてきたあの時の顔を
完全に頭に血をのぼらせて、引き抜いた修雅剣を俺の首筋に当ててきた時の、あの貴方の顔を
両手首を押さえられ、がむしゃらに抵抗してきた時のあの顔を
取っ組み合いの末、本気で俺に暴撃を当ててきた時の貴方の顔を
覆い被さられ服を裂かれたのに、俺の放った捨鉢な台詞に一瞬憐れむような表情を浮かべ、抵抗を止めてしまった貴方のあの顔を
俺に向かって「ケダモノめ!」と叫んだあの時の顔を
貴方の、貴方の貴方の、貴方の、あの顔を、
あの時の、貴方のあの顔を────
忘れられない。
忘れたく・・・・・・ないんです。
ごめんなさい。
俺は本当にケダモノみたいです。
だから、
だからどうか────
────────5─────────
「きゅうりとデートがしたい」
まーた、この子は何を言い出すやら・・・・・・
沈清秋は思わず額に扇子の先を当てて天を仰ぐ。
全く意味がわからない・・・と思ったが、話の流れからして、嗚呼、あの“きゅうり”のことかと思い至った。
たぶん、恐らく、間違いなく、日月露華芝で作ったあの身体のことを言っている。
「はい、“でぇと”を“ふるこーす”でお願いします!」
長いこと一緒に居ると、相手の前でも、つい前世の単語が口を突いて出てしまうことがある。賢い冰河は、忘れてくれない。それは何のことでしょう、どういう意味ですか?としつこく聞いてくるから答えているうちに、つまらない単語を使いこなすようになってしまった。
デート。フルコースね。
あーはいはい・・・・・・って、んんっ
「冰河よ、できることなら叶えてやりたいところだが、アレはその・・・・・・そなたの眼の前で枯れ果ててしまったのだろう?」
おまえはミイラとデートしたいのか? いや、そもそもアレって、枯れた後に消滅したんじゃなかったっけ?
どだい無理な話である。
だが、洛冰河は夢見るような眼差しで
「いえ、もちろん現実では無理ですが、夢でならいけると思うのです」ときた。
出たな。便利でお手軽な、夢境でなら何でもアリ的発想が!
しかし、と沈清秋は指摘する。
「いくらそなたとて、あの姿についてはそうまともに見てもおるまい? どうやって姿を練るつもりだ?」
洛冰河の操る夢境術は、夢魔の直伝かつ本人の天賦の才を以て神業の域であることは熟知している。だが・・・・・・
(通行人AやBといったモブならいざ知らず、フルコースでデートしようなんて相手を再現するには、よほどじっくりと観察したうえでしっかりとした認識を持っておかないと、流石に難しいんじゃないの?)
あの時分は、沈清秋にとっても大混乱期であり、あまり細かいことは憶えていない。だが、たしかあの姿で初めて洛冰河とまみえた時から幻花閣までは、洛冰河はあの顔について不快と明言し碌々見てもいなかったし、幻花閣ではえらい勢いで睨まれたけれど、顔の作りの細部まで憶えていられる精神状態ではなかった筈だ。あとは、穹頂峰で捕まった時以降の話になるが、まともに顔を合わせたのなんてほんの短時間だったし、その短時間だってお互い睨み合ったり罵り合ったり怒鳴り合ったり殴り合ったり・・・・・・と、とにかくまともなご面相ではなかった筈だ。
(そこからどうやってデートしたくなるような顔や姿が作れるって云うんだ?)
けれど洛冰河は自信たっぷりに「大丈夫です。俺を信じて任せてください」などと言う。
「いちおう試してみるのは良いが、あまり酷いようでは私もいたたまれぬゆえ、帰るぞ」
帰るというのは、つまり起きてやるからなという表明なわけだが、実際にはどうやって帰れるのか見当もつかないただの脅しだ。
「本当に、大丈夫です。ただ、弟君の姿だと仰ってましたね」
御兄弟の姿では気が進まないようでしたら、無理にとは・・・・・・と、こちらを窺うように訊いてくる。
本当に兄弟の姿だったのであれば多少なりとも複雑な気分になったりもするのだろうが、実際あれは三、四割が今の沈清秋の姿で、残りの六、七割については元の自分の姿なのだから、気恥ずかしさはあれど抵抗は無い。むしろ、少し・・・いやだいぶ、嬉しい気持ちになってしまった。
沈九の容姿は誰もが評価する整ったもので、その人柄を知らずとも、姿だけで一目惚れさせるような魅力が備わっていることは分かっていた。沈垣自身が無頓着であっても、自覚を迫られるような出来事は何度かあったから。
けれど、完全とは言えないまでも、より本来の自分に近い、特別な容姿というわけでもなかった姿にまで執着してもらえるなんて────。
(いや、中身が俺ならいいってこの子が思ってくれてることくらいわかってるよ。わかってた・・・けどさぁ)
それでも、嬉しいものは嬉しい。
心の奥底に沈めても消える訳ではない、真実を明かせない罪の意識に突然赦しを得たような・・・本来の自分自身を、存在の根本をも認められ、受け容れられたような・・・そんな恩恵にも似た多幸感が溢れてくる。
「弟は仙師ではないから、もう。それよりそなたこそ、他人の姿などで気にならないのか?」
元々、弟などとその場しのぎの出任せだったので、曖昧な言い方で“居ない”ことを伝えつつ、再度自分が聞きたかったことを・・・ずっとずっと訊いてみたかったことを、口に出して確認する。
「俺は弟君にはお会いしたことがありませんし、あのお姿は貴方だったとしか認識していないので、これからも貴方だとしか思えません」
洛冰河はキッパリと言い切った。
「貴方は貴方ですから。どんな姿に変わろうと、誰のお姿を借りようと」
そうか、そうか。
────うん・・・そっか。
何度か自分を納得させるように小さく頷く師の様子を窺いながら、洛冰河はホッと安堵の溜息を漏らす。
あのお姿については、丁寧に再現できる自信がある。
だって俺は見ていたんです。
貴方をあの魔界の竹舎に置いてから、ずっと。
ひとりになった貴方が、抱えた自分の膝に顔を埋めて心細げにしていたところを。霊力を放って部屋の内部に不審なものが無いか調べた後に、物理的にも何かが仕込まれていないかと、ペタペタとあちこちを手で触れたり首を傾げたりしながら調べ回っていたところを。片手の拳を握ってから勢いよく肘を引いて、なんだか気合のような声を出して自らを鼓舞していたところを。
お一人で服を脱ぎ、身繕いをしてから夜着に着替え、床に着いた貴方のお姿を見つめながら、清静峰に居た頃に任せていただいていたお手伝いを懐かしく思い出して・・・こんなに近くに生きて貴方が居るのに、どうしてこんなにもままならないのか考えながら、一晩中見守り続けた。
竹を植える作業をしている手下の魔族に、気安く話しかけている姿が微笑ましかった。紗華鈴に喧嘩を売られてもスンと無視している貴方のすまし顔がなんだか愛しかった。色気を振りまく侍女の腰つきに目をやる貴方に少しむっとした。
意外とすぐに順応しつつある貴方に感心したのもつかの間、俺とだけはどうしてもうまくいかないのが、哀しくて悔しくて────
「ありがとうございます。凄く、すごく嬉しいです」
「ははは・・・・・・そんなにか?」
照れたように微笑む貴方が、今は側に居る。
「はい。俺はあのお姿の師尊に酷いことをして終わってしまったから、ずっと思い出すのが辛かったけれど、明日からはきっと思い出すたびに幸せになれる気がします」
「────」
少し不思議そうに師がこちらを見つめる。
ごめんなさい。これ以上は貴方にも伝えられない。
貴方にこそ、伝えられない。
あんな暴力的で浅ましい欲を握り込んでいたなんて、手放すことを拒み続けてきたなんて・・・・・・知られたくない。
けれど。
今から言うことが、真実です。
真実、なんです。
「好きだったんです、あのお姿の貴方も。俺とはうまくいかなかったけれど、なんだか俺の知っている師尊より肩の力が抜けて自然に振る舞っておられる感じがして、とても・・・とても惹かれたんです。あんな状況で険悪にしか向き合えなかったけれど、本当は・・・・・・」
本当は。
おかしいだろうか、貴方を貴方として愛してる。
どんな姿でもそれは変わらない。変わらない・・・はずなのに、あのお姿の『貴方』に改めて恋をしたような、そんな気持ちになったことは。
おかしなこと・・・なのだろうか。
本当は・・・本当は、あの顔の貴方の・・・・・・
「────笑ったお顔が見たかった」
今夜は見せてもらえますよね? と、頬を染めながら洛冰河がキラキラとした瞳を向けてくる。
そのはにかんだ笑顔が眩しくて。
頷くしかできなくなった沈清秋の頬にも、夕闇迫る太陽の最後の一閃が朱く・・・明く差し込んだ。