うちの降谷さんは赤井さんの部屋に居候してるらしい「それで、どうして私が引っ越しを手伝わなくちゃいけないのかしら!?」
仕事終わりに僕の元自宅まで呼び出されたたジョディさんは腰に手を当てて僕を見上げた。
「お疲れのところすみません……」
と言っても、彼女に引っ越しの手伝いをしてもらうことを提案したのは僕じゃなくて赤井だった。赤井の元恋人に、仮住まいとはいえ赤井の部屋へ引っ越すのを手伝ってもらうのは、二人が今はただの同僚だとしても大分気まずい。
それなのに、ジョディさんは赤井から何の説明も聞いていないと言うのだから、本当にあの男は……!よくFBIの面々は赤井について行けるものだと逆に感心してしまう。
「ご迷惑だとは思ったのですが、赤井が……」
「シュウが何か言ったの!?」
「え、えっと、ジョディさんは信頼できる方なので手伝っていただけるんじゃないかと……」
「もう、シュウったら……そう言われちゃったら断れないわね。手伝うわ」
「ありがとうございます」
「この辺の生活用品を段ボールに纏めたらいい?」
「はい」
僕がそう応えると、ジョディさんはてきぱきと段ボールに荷物を詰め始めた。
実のところ、どうして赤井が彼女を誘ったのか、僕もまだ聞かされていない。人手が多いほうがいいのはわかるが、場所が場所だ。霊道に建てられているこのマンションに出入りして何かあったらと思うと僕は気が気じゃなかった。
「他に運ぶものは?」
「えっと、布団類をお願いします……でも、その前に」
「ん?」
僕は赤井を誰もいない部屋まで引っ張った。
「積極的だな……」
「は?」
「家まで待てなかったのかな?」
赤井は僕の後ろにある壁に手をついた。無遠慮に近づけられた顔をぐっと押し返すと、赤井はくっくと笑った。
「馬鹿言ってないでちゃんと教えてください!どうしてジョディさんに声を掛けたんですか?」
「それは……いや、見た方が早いか」
「見る?」
赤井はそう言うと僕の手を掴んだ。何を考えてるんだ、と振り払おうとする前に、僕は部屋の中の異変に気が付いた。
「……幽霊がいない?」
この前は五体も僕の部屋でたむろしていたというのに、今日は赤井の手を掴んでも異様なものは何も見えない。赤井があらかじめ払っておいたのかと尋ねたが赤井は首を横に振った。
「ジョディだよ」
「えっ!?」
「あいつにはどんな幽霊も近づくことができない。そういう体質の人間が稀にいるんだ」
「……すごい」
「だろう?」
赤井が自慢気にそう言うので僕は思いっきり肘鉄を食らわせてやった。
ジョディさんを誘った理由がそれなら、赤井が彼女と交際しようと思ったのもそうなのだろうか。人ならざる者が見えてしまう赤井にとって幽霊を寄せ付けないジョディさんと過ごす時間がどれだけ安らいだものだったかは、見えない僕にも想像もできる。もちろん、それだけじゃないだろう。彼女は美人だしスタイルもいいし、人を思いやる心と行動力がある。赤井が彼女に惹かれた理由を考え出すと、胸がちくんと痛んだけれど、それ以上に彼女を恋人に出来た赤井が羨ましいと思った。
「ああ、僕にもそういう出会いがあったらなあ……」
引っ越しを手伝ってくれたジョディさんや風見たちに食事を御馳走した帰り道。僕は赤井の車の助手席に体を預けながら愚痴をこぼした。
「出会いか」
「ええ……赤井がジョディさんに出会えたみたいに、僕も素敵な人に出会えていたらなあって」
「……そんなことを言ったら、君の元恋人たちが悲しむぞ」
「まだ言うんですか?飯島とはそういうんじゃないってば」
赤井と花火を見た夜、飯島が僕のことを『好きでいてもいいか』と赤井に尋ねたことはあったが、それは僕に対する赤井の気持ちをはっきりさせるために吐いた嘘だった。そのことは赤井にも説明したのだが。
「飯島くんの件については俺の思い違いだったと聞いたが……他にいるだろう?」
「え、えっと……」
「いや、いい。言わなくて」
赤井はそう言うと僕の頭とポンポンと撫でた。
「碌な奴に出会えなかったんだな、可哀想に」
言葉と好意は同情的だが、その口元が笑っていたのはばっちり見えた。勝手に憐れむなと言い返さなかったのは、本当はそんな奴は存在しないからだ。
高校一年生にして恋の呪いにかかった僕は、誰とも交際しないままこの歳になっていた。でも、そんなことを言ったら、僕がずっと赤井のことを忘れられなかったと白状するも同然だ。僕は「誰のせいだよ」と内心で赤井を罵って窓の外に目を向けた。
赤井の部屋に着くと廊下に置かれた段ボールを避けながら歩かねばならなかった。荷物は少ない方だと思うが赤井の部屋を間違いなく圧迫している。どうしたものかと見下ろしていると、赤井が僕に声を掛けた。
「荷解き手伝おうか?」
「いえ、どうせまたすぐ引っ越すんだからこのままでいいです。どこか邪魔にならないところに運ばせてもらってもいいですか?」
「寂しいことを言わないでくれ」
赤井は眉間に皺を寄せ、僕の体に腕を回した。部屋の中には僕と赤井とハロしかいない。ハロは今日は少年探偵団にたっぷり遊んでもらったようで、もうベッドの上で丸くなっている。引っ越しの作業があってバタバタしてしまうからと僕から彼らに依頼したのだ。
つまり、実質、赤井と二人きりだ。
僕はぎこちなく赤井のほうへと顔を向けた。赤井はやたらと甘い視線で僕を見ている。僕もいい大人だから、このあとの展開がわからないわけじゃない。
「キ、キスしたいんですか……?」
「ああ」
「あ、えっと……そうだ、回数を決めていませんでしたね。前と同じように……」
僕の口は赤井の煙草臭い唇で塞がれていた。突然のことで目を閉じ忘れた僕はばっちり赤井のキス顔を見てしまった。まつ毛が下瞼に影を作るのは高校生の時と変わらなかったけれど、その目尻と眉間にはあの頃にはなかった皺が刻まれていた。
大人になったんだな、赤井も。
「足りない」
「えっ」
「十回じゃ足りないよ。焦らしてるのか?」
「してませんっ」
「それならそろそろ許してくれよ。君だって俺のことを忘れずにいてくれたんだろ?」
「そんなこと言いましたっけ?」
「言った。寝落ちる前に。誰と付き合っても俺のことが『ずっと』忘れられなかったって」
「ふんっ、嘘ですね」
「言い切れるのか?君はあの時喋りながら寝てしまったじゃないか」
「ええ!そういう状態だったからこそ、わざわざ嘘を言うわけがない。だって、僕は誰とも交際したことがありませんからね!」
僕がそう言い切ったあと、気まずい沈黙が流れた。
最高機密を言ってしまった……。特に赤井には絶対に知られたくなかったのに……!
「……嘘だろ?」
「はい!嘘です!じゃあ、僕これを片付けますね!!」
床に置かれた段ボールに手を伸ばそうとして、その手首を赤井に捕まれてしまった。
「ちょ、ちょっと」
「きちんと話し合おう。これ以上遠回りしたくない」
赤井が僕をダイニングに座らせると、じっと僕の目を覗き込んだ。
「誰とも付き合わなかった理由は?」
「えっ、別に、大した意味は……」
「まさか。君みたいな美人を周りが放っておくわけない。言い寄られても断った理由は?」
「な、なんで、そんなこと……赤井に話さないといけないんですかっ」
「俺だけ手の内を明かしているのが面白くないからだ。君のことを忘れられず、目的を達成する前だというのに君会いに行こうとした。そのうえ、君が他の男と付き合い始めたと思い込んで安酒に酔って、ジョディに打ち明け話までした」
赤井は羞恥心を押し隠すように眉間に皺を寄せた。
「フィフティ・フィフティと行こうじゃないか。さあ、君の番だ」
「……はあ。わかりましたよ。確かにフェアじゃありませんね。僕は……といっても話すことはほとんどないんですが……誰とも付き合ったことがありません。あなたを忘れられなかったのもあるけど、そんな暇もなかったんです」
「というと?」
「僕がテニス部だったのは覚えてますか?」
「もちろん。女装してテニスの練習してるのを見て頭に来たのをよく覚えてるよ」
「そんなことは忘れていい!」
「了解。きっと一生忘れないと思うがな」
なぜか自信満々にそう言う赤井に、僕は深くため息を吐いた。
赤井が留学したあと。僕は大きなテニス大会の後に肩を壊した。根を詰めて練習した甲斐あって大会では結果を残すことが出来たが、それ以上にもうテニスができなくなってしまったことは僕にとって大問題だった。
当時、スポーツ特待生でもあった僕は、テニスを続けられなくなった以上、寮を出て行かなければならなかったからだ。帰る家がない僕を追い出そうとするひとは誰もいなかったが、寮費を自分のバイト代だけで賄えないことは自分が一番よくわかっていた。
そこから僕は色んなスポーツを試した。陸上、剣道、弓道、馬術……。学校で部活動として行われているスポーツを手あたり次第試して、これならいけると思ったのがボクシングだった。色んなフラストレーションを拳に込めてサンドバッグを叩くと気持ちもすっきりした。そのあとすぐにあった学生ボクシング大会で優勝し、僕はなんとかスポーツ特待生として首の皮を繋ぐことができたのだった。
それでもボクシング部の練習は、子どもの頃から続けていたテニスよりも体が慣れていない分ハードだった。学校、部活、勉強、寝る。ごくたまに友だちと遊ぶ以外はずっとその生活だった。
おかげで大学も奨学金生として入学して、公務員試験に合格して、警察学校に入学することができた。
「そこからは、あなたはもう知っているでしょう?」
「ああ……」
赤井は頷きながらも、その表情は渋いままだった。
「大変だったな……」
「まあ……でもそのすべてが今に繋がってますから」
あの時頑張ったおかげで、多少の無理は効く体を作ることができた。残念ながら、赤井のような筋肉は付かなかったが。体質ばかりはどうにもできない。
「やはりあの時、君から離れなければよかった」
「何を言ってるんですか……あなたとあなたの家族にとって一大事だったんでしょう?」
赤井が傍にいてくれたらと思ったことは何度もあったけど、だからといって赤井の決断を恨んだことはなかったし、当時の判断を後悔して欲しいとも思ってない。
「お互いにベストを尽くした。そうでしょう?」
そう言って肩をぶつけると、隣に座っている赤井も「そうだな」と言って表情を緩めた。
「しかし」
「え?」
「それなら、どうして君は後ろを使ったセックスを好むんだ?」
赤井の言っている言葉の意味が理解できなかった。セックスを好む??後ろってなんだ?僕は思わず後ろを振り返った。椅子の背もたれと僕のお尻が見える。背中?お尻?……あっ。
「は!?なんで、それを!?」
僕が実はアナニーにハマっているが、今まで誰にも話したことはなかった。友人たちにも、もちろん職場に人間にも。墓場まで持っていくつもりのトップシークレットを突如として暴かれた僕は盛大に慌てた。椅子から立ち上がり、本当はどこかに逃げたかったけど赤井の情報源が気になってしまって、もう一度椅子に腰を下ろした。
「冷静になるのが早いな。さすがだよ」
「……どうして」
「君の部屋の幽霊に聞いた。というか聞かされた」
「はあ……くそっ」
僕は天井を仰いで両手で顔を覆った。
「最悪……えっと、その顔は説明しないと納得しない顔ですね?」
僕がそう尋ねると赤井は難しい顔で頷いた。そんな顔をされると余計に話しにくいんだけど。
「実はベルモットからの命令で……」
「なんだと……?」
赤井は僕を睨みつけると、強い力で引き寄せた。
「すまない……君に辛い記憶を思い返させてしまった……」
「ちょっと、勝手に話を組み立てないでください!」
そう言いながら赤井を押し返した僕だったけど、赤井が想像したであろうことを、当時の僕、いや、バーボンも覚悟していた。
僕が接触するように言われた男はかなりの遊び人だった。気に入った相手とは彼が所有する特別な部屋でセックスを楽しむのだとベルモットから聞いていた。組織が求めている情報もその部屋に隠されているとのことだった。
もちろん、ベルモットの話を鵜呑みにしたわけではない。自分でももう一度調べ直して、誤情報であるように願ったけれど、結局はベルモットの情報の裏が取れたけだった。
「それで、君はそのターゲットと……」
膝の上に置いた手を組んだ赤井は、まるでこれから誰かを殺しに行くかの用な怖い顔で自分の左手を見つめた。
「物騒な顔しないでくださいよ……ターゲットはとっくに捕まえましたし、そいつと僕はなんにもなかったんですから」
「なに……?」
「恥ずかしながら……これ、本当に誰にも言うなよ?」
「もちろん」
「早とちりしてしまったんです……彼とそういう関係になるためには後ろを使えるようにしておかないとって。でも、相手も」
「ボトムだったのか!?」
「はい……って、人の黒歴史を聞いてそんなに嬉しそうにするの、人としてどうかと思いますよ?」
「すまん。不謹慎だった」
「いや、そこまでは言いませんけど……」
そもそも、そういう関係になるのは最後の最後の手段にするつもりだった。だってリスクが大きすぎる。でも結局はターゲットと同じボトム同士として話が盛り上がり、お気に入りのディルドを見せたいからと向こうから例の特別な部屋に招いてもらうことに成功した。
しかし僕は、結局出番のなかったソレに、不覚にもハマってしまったのだ。前で得る快感よりも数段気持ちよく、非日常的行為を楽しむとストレスを発散することもできた。
「というわけで、僕はひとりで楽しんでいただけで、誰にも体を許したことはありません」
「あー……うん、わかった」
「誤解が解けたようで何よりです。じゃあ、引っ越しの片づけを……」
「ちょっと待ってくれ。そうはならないだろう」
ソファから立ち上がった僕の手を赤井が掴む。でもさっきのような強さはなくて、迷子になった子どもが母親を見つけた時みたいな、縋る様な握り方だったから、僕は逆に振りほどくことができなかった。
「なんですか……」
「君がもし許してくれるなら……」
「赤井」
「降谷くん……俺は」
「二度も僕を置いていくつもりですか?あなた、アメリカに帰るんでしょう」
あの教会で赤井は僕に「どんな状況でも君を選ぶ」と言った。でもそんなこと不可能だと、大人になればなるほど痛感した。だから、僕はあの夜を何度も思い出したけれど、その一方で再会できなければいいと思っていた。あの約束を破られるぐらいなら、いっそ二度と会えない方がよかったんだ。
「そんな顔しないで」
僕は赤井の真似をして彼の顎を掬いあげると、その唇にチュッと音を立ててキスをした。そういえば、本当の意味で僕からキスをしたのはこれが初めてかもしれない。自分から唇を重ねたことはあったけど、赤井からそう迫られた時だけだった。
「キスまでにしておきましょう。あの頃と同じように」
「……わかった」
赤井は眉間に皺を寄せて考え込んでいる様子だったが、結局それ以上は何も言わなかった。
「赤井~~朝ですよ」
「んん……」
唇の隙間から唸り声を上げるだけで瞼が開かない赤井に、昨日よりも強めにキスを送る。赤井は驚いた顔で目を開けた。それを見た僕は声を上げて笑ってしまった。
「あはは、そんな顔初めて見た!」
「君なあ……」
「ふふ、キスしちゃいけないタイミングがあるなんて聞いてせんけど?」
「……ああ、君からのキスはいつだって歓迎するよ」
「そう?じゃあ、顔洗ってきてください。寝起きのあなたもセクシーだけど、髭がチクチクする」
「オーケー……」
赤井はそう言ってベッドから起き上がると、洗面所に向かってヨタヨタと歩き出した。
十年以上経った今も朝が弱いのは変わらないらしい。今喧嘩を吹っ掛けたら勝てそうだな、なんて物騒なことを考えながら僕は食卓に朝食を並べた。
「朝からこんなに作ってくれたのか?」
「たいしたことありませんよ」
口ではそう言ったが、本当は結構張り切っていた。居候しているんだから料理ぐらいは、という気持ち以上に、赤井に成長したところを見て欲しかったのが本音だった。
高校生のころの僕と今の僕では、料理の腕前は比べるまでもない。もう、あの頃の料理ができるフリをしていた僕ではないのだ。
「しかし、この部屋の冷蔵庫には大したものがなかっただろう?」
「ハロの散歩をしながらスーパーで買い物して来ました」
「そうか……」
赤井は僕が作ったサンドイッチをゆっくりと口に運んだ。
「なんですか……そんな恐る恐る食べて。潜入先の喫茶店では結構評判良かったんですからね!」
「いや、警戒してるわけじゃない」
じゃあ、どうして。そう問いかける前に、朝が弱い赤井は朝食を食べる習慣がなかったんじゃないかと思い至った。
「あ、あの、食べるのがしんどかったら、残していいですからね?」
今更ながらにそう言うと赤井は首を横に振った。
「うまい」
「そうですか……」
張り切りすぎて余計なことをしてしまった。そんな後悔を噛みしめながら食べても、隠し味の聞いたハムサンドはやっぱり美味しい。これを赤井にも味わってほしかったんだけどな……。
「誰かに教わったのか?」
「え?」
「料理。潜入先で?」
「あ、あー……いえ、公安に配属されてすぐに、外食は控えるように言われたので自炊を覚える必要があったんです。だから……ヒロに教えてもらいました」
その名前を誰かの前で口にしたのは本当に久しぶりだった。
僕に料理を教えてくれた時、ヒロはあまりの知識のなさに「よく今までやって来られたな」と目を丸くしていた。そんな僕が喫茶店の看板メニューを作るほどになったと知ったらさぞ驚くだろう。
「なるほど……そういえば諸伏くんは料理が得意だったな」
「はい……」
赤井がヒロを、スコッチではなく、彼の本当の姿を覚えていてくれたことが嬉しくて、僕は自分のぶんのハムサンドを黙って食べた。
あの屋上での出来事について、僕たちは団参者を交えて話したことはあったけど、二人きりで話したことは一度もない。でも、状況からヒロが自決したことは明らかだった。それなのにライがまるで自分が殺したかのように嘯いたのは僕に真実を悟らせないためだったのだと思う。でも……
『幽霊を殺したみたいで気味が悪い』
あの言葉の意味を、僕は今もどう受け止めたらいいかわからずにいる。
「降谷さんには本当に驚かされます……」
「ん?」
風見は眼鏡越しにじとっとした視線を僕に向けていた。彼を困らせるようなことをしただろうかと思い返してみたが心当たりはない。
「何かあったか?」
「昨日の件ですよ。引っ越しを手伝って欲しいと仰るから伺ってみたら、まさか赤井さんと同棲されるためだったなんて……」
「なっ」
部下からの思いがけない言葉に、頬がカッと熱くなる。こんなわかりやすい反応をしたら示しが付かない。でも、僕が赤井のこととなると冷静ではいられないのは前からだ。今更かと諦めてため息を吐いた。
「同棲じゃない……居候だ」
「え?」
「前に住んでいた部屋でちょっとした問題が発生してな……」
「ええ!?何があったんですか!?」
その部屋をピックアップした手前、風見は前の部屋で何があったのか気になっている様子だった。しかし、霊道が貫通しているせいで幽霊の溜まり場になっていると言っても彼には理解できないだろう。しかも、その幽霊を赤井が退治してくれたなんて言ったりしたら、心配されてしまうのがオチだ。
「いや、ハロにはちょっと合わなかっただけだ」
「そうでしたか……」
ハロのせいにしたことを心の中で謝りつつ、僕は風見が納得してくれたことに胸を撫でおろしたのだった。
その日、僕の仕事が終わったのは昨日よりも遅い時間だった。
赤井は本国との会議があるとかで、早い時間に捜査本部を後にしていた。十年以上ぶりに交換した私用の連絡先にはハロの散歩に行ったとメッセージが入っていた。
「ただいま帰りました」
「おかえり」
僕が『居候先』のリビングに帰った時には、ハロは赤井とボール遊びをしている真っ最中だった。
「ハロ、すっかりあなたに懐いてますね」
「ああ、君もこれぐらい素直になってくれるといいんだがな」
赤井は僕の方を見ずにそう言った。ふうん、言ってくれるじゃないか。僕よりハロの方が可愛げがあるって?
僕はすっかり赤井を虜にしたハロを撫でるために赤井の隣に膝を付いた。モフモフと頭を撫でてやるとハロは僕に冷たい鼻を摺り寄せる。
赤井は、反論しないことを訝しむように僕を振り返った。その不意を突いて頬にキスを食らわせる。
「ただいま、ご主人様?」
赤井は目を丸くしていた。
「なんです、懐いてほしかったんじゃないの?」
「それはそうだが……」
僕からキスされて驚いている赤井の頬、眉間、額、そして唇に小さいキスをまき散らす。そういう遊びだと思ったのだろう。今度はハロが僕をまねて赤井の顔を舐め始めた。
「あっ、ハロくん、やめなさい、わかった、わかったから」
「はははっ」
僕は、赤井とハロがじゃれ合う姿を横目に、赤井から好きに使っていいと言われたキッチンに向かった。帰りに寄ったスーパーで買った食材を冷蔵庫に詰めていく。僕が来たときは牛乳とサラダチキンしかはってなかった。まったくもって冷蔵庫の持ち腐れだ。
「夕飯を作るのか?」
「ええ……すぐに済みます。あ、もしかしてもうミーティング始まります?」
「いや、もう終わった」
「え、そうだったんですか?」
ハロが赤井のミーティングを邪魔しないように、その時間は外に出ているつもりだった。僕が大丈夫だったかと恐る恐る尋ねると、赤井はハロを抱き上げて膝に乗せた。
「とても大人しかったよ。この状態でミーティングをしていたが誰も気が付いていなかっただろう」
「あはは、本当に?」
あの赤井が犬を抱っこして会議に参加してるなんて誰も思わないだろう。偉かったな、と褒められると、ハロは誇らしそうに「アンっ」と鳴いた。
ハロはとても賢い。でもたまに悪戯をすることもあるし、特に食べ物が絡むと本能をむき出しにする。なんて言ってもハロの魅力が増すだけなので、僕は黙って手早く夕食をこしらえた。
今夜のメニューは、スーパーで値引きされていた素麵だ。千切りにした野菜で彩を加え、その上に薄切り肉のしゃぶしゃぶを乗せれば完成だ。
「いただきます」
赤井が座るソファの前のローテーブルに夕飯を乗せた僕を赤井が「おや」という目で見る。ダイニングテーブルで食べればいいと思っているに違いない赤井を僕は上目遣いで見た。
「仕事を終わらせて栄養満点の夕飯を作った僕のことも褒めてくれていいんですよ?」
そう言って赤井の前に頭を突き出すと、赤井はおずおずと僕の髪に触れた。その手つきは優しく、暖かいのに、赤井のくちぶりは不機嫌だった。
「君がそういう態度をとるなら俺にも考えがある……」
「えっ?」
素麺を咀嚼し終えて振り返ると、赤井がやっぱり不機嫌そうな顔で、左手で僕を右手でハロを撫でていた。
「ハロくんが寝たら覚えてろよ」
「……昨日言ったこと覚えてますよね?」
「覚えてるさ。最後までしなければいいんだろ」
赤井の言葉に不穏なものを感じつつ、食器を片付けて、風呂に入る。途中から赤井が入ってくるんじゃないかとドキドキしていたけれど、結局僕が出るまで浴室のドアが開くことはなかった。
僕がドライヤーで髪を乾かし終わって脱衣所を出るとハロはすでに寝息を立てていた。いつもは癒されるその音も今日はちょっと緊張してしまう。
赤井はというと、間違えて買ったというクイーンサイズのベッドの上でタブレットを弄んでいたが、僕を見るとベッドサイドテーブルに伏せて置いた。
「僕のことは気にせず仕事してください。覗いたりしませんから」
「君との時間のほうが大事だ」
「いや仕事しろよ……あ、僕の布団はこの辺に敷いてもいいですか?」
「ダメだ」
「え?」
「君はこっち」
赤井は僕の胴に腕を回すと軽々と持ち上げてベッドに下した。
「え、ちょ、ちょっと……!?」
「俺の部屋にいる間ぐらい一緒に寝よう。知らない仲じゃないんだ……」
「妙な言い回しはやめてください!あなたがそんな風に言うせいで風見から『同棲してるのか』って聞かれて焦ったんですから」
「そうだったらいいんだがな……」
赤井は駄々をこねる子どものように僕の背中に自分の額を押し付ける。その言葉を聞いて僕はハッとした。次の部屋が見つかるまで、と言ったくせに全然物件を探してなかった。
それが答えのような気がして、僕は寝返りを打つと、赤井のほうを向いた。
緑の瞳は僕と目が合うとわずかに細められた。
「あなたがアメリカに帰るまでここにいてもいいですか?」
「……君はそれでいいのか?」
「ええ……せっかく傍にいられるならこうしていたいです」
僕が胸に飛び込むと、赤井は一瞬戸惑ったようだったが、ゆっくりと僕を抱きしめてくれた。
僕はもう迷いはなかった。この胸を掻きむしりたくなるような騒めきの名前はわかっている。僕たちの関係に名前を付けてはいけないことも、この安らぎが期間限定だということも。
大丈夫。
僕はもうあの頃の何も知らない僕じゃないんだ。