さやけきひとみにご用心 明くる月曜日、山田くんはめずらしく遅刻ギリギリで教室に入ってきた。いつもは私が登校するころにはもう当然のように自席にいて、さわやかに挨拶してくれるけれど、あの日はそうはならなかった。
だからじゃないけれどいつものお返しのつもりでこちらからおはようと声をかけると、少しだけ目を丸くしながらいつもよりは小さな声でおはようと返してくれた。
なにか下手なことを言えばまわりで耳聡く聞いているだろう誰かにツッコミを入れられかねないから、余計なことは言わず、声と目に敵意はないよ~、なにも聞かないよ~って気持ちを込めたつもりだ。それがちゃんと届いたのかはわからないけれど、山田くんはちいさくうなずいて席に着いた。
それからはやっぱり前よりは会話するようになって、ありがたいことに授業とか過去問とか、わからないところがあると頼らせてもらったりしてる。もちろん、教えないとあのことバラすぞみたいなヤナヤツにはなりたくないから、そこだけは気をつけているつもりだけど。
でも多分、あれがきっかけで山田くんも心を開いてくれたというか、こいつは無害だなって思ってくれたっぽいとは思ってもいいはずだ。
どこにでもよくいるお調子者のバカが最近二人仲いいじゃーんとかひやかしてきたりしたときにも、すぐに友達になったからねって言ってくれたし。私はといえばこっちには他意なんか一切ないのに教室中から一斉に向けられた視線を背中にぐさぐさと感じて、やめろバカって喉元まで出かかっていたのに。
へ~? なんてバカがまだなにか言いたげだったけど、ちょうど戻ってきたバレー部主将が追い払ってくれたおかげでみんなの注目も消えていった。うんやっぱりバレー部主将やってるだけあって頼りになる、最高。
まぁそれはいいとして。
友達。友達だって。
別にこれまでもクラスメイトとして必要なときは会話してたし、互いに可もなく不可もなく、関わりもなくって感じだったから仲がいいとか悪いとかそういうレベルでもなんでもなかったんだけど、今はちがう。
特別に仲良くなりたがってる子たちのようなギラギラさがないから山田くんもきっととっつきやすかったんだと思うけど、私としてはこう、孤高の猫ちゃんがなついてくれた、みたいな感動があったりしたわけだ。これ言うと山田くんは嫌がるだろうけど。
なにがきっかけで友達ができるかなんてほんとわかんなくて、それはうれしいんだけど、そのせいと言うべきか、これでもうあのお兄さんについて山田くんに聞けなくなっちゃったな……
聞き出してやろうとか思ってたわけじゃないけど、全然まったく気にならないとは口が裂けても言えないんだよねこれが。
それでもせっかくできた山田くんとの友情の方が大事だから、向こうから言ってくれない限りは聞かないぞと心に決めたのがだいたいひと月くらい前だったっけ。
――玄関のチャイムが鳴って、お母さんにせっつかれながらリビングを出る。部屋に戻るついでに先生お連れして、なんて人使いが荒すぎませんかね。
家庭訪問なんてまだあるんだなーって感じだけど、小学校ならそんなもんだったっけ?
ちょっと調子に乗っちゃうこともある弟だけど、お母さんが学校に呼び出されるような事態になったことはない。学校での様子は、とか、ご家庭での様子は、とかそういう当たり障りのない会話だけしてすぐ帰っていくんだろうな。
だけどそのためにいつもはお目にかかれないようなお茶菓子をわざわざ用意しなきゃだし、それをついでにおやつにって私にもくれるからわりと好きな行事だったりする。そのお駄賃代わり、じゃないけどお茶を淹れているお母さんのために玄関に向かう。
はいはーいって声を出しつつ、そういえば女子高生が急に出ていってびっくりしないかな。やけに若いお母さんだなーとか思われてもちょっと嫌かも。
そんなことを考えながら扉を開けて、開けたところでなにも言えないまま動けなくなった。びっくりさせたらどうしようどころじゃない、お互いに驚いてかたまってしまうことになるなんて予想できるわけないじゃん。
あのとき見たことあるなって思ったのはまちがいじゃなかったんだ。そうだよ、このひと去年の弟の運動会で見たよ! 二年連続同じ担任なんてめずらしいねって話してたのも思い出したけど、顔まではさすがに覚えてなかったって!
「……この間の子だよね?」
「は、はい! そうです!」
表札を確認して、お兄さん――弟の担任の先生はおおきな目をパチパチしながらああなるほど、とぽつり。あ、納得したんだ。納得できるとこあった?
「世間はせまいねぇ」
「……そうですね」
あはは、と笑いながら先生は驚いたなぁなんてのんきに言いながら頬をかいている。見た目通りの、やさしいほがらかなひとなんだろうなぁ。
小学校の先生ですって感じのその仕草をしばらく眺めちゃったけど、はっと気づくとどうぞ、と招くように体を動かす。
「お邪魔します」
軽く会釈をして近づいてきた先生に、封印していた好奇心がむくりと起きあがる。山田君にはもう絶対無理だけど、このやさしそうな先生ならこっそり教えてくれたりするんじゃないかって、そう思ってしまったわけだ。
「あのー、つかぬことをお聞きしますが、山田君とはどういう……」
ちょっと気になって、とつけ足せばきょとんとした顔がこちらをみつめてくる。踏みこんだのまずかったかなーと思いつつその視線を受け止めていると、先生はにっこりと笑ってくれて。お、これなら、なんてみんなが思うような笑顔。
そのうえウインクまでついてきて、ってウインク?!
「……内緒♡」
「そ、うですか……」
「利吉くんに聞いてみるといいよ」
「……それは、聞けない、ですね」
「じゃあ私からはやっぱり言えないな」
ごめんね、とつけ加えながら先生は室内へと進んでゆき、私はその背中を口をぽかんと開けたまま、それはもう誰にも見せられないような間抜け面で見送った。
なに今の。え、夢でも見てた?
聞かないでおこうって思ってたのに欲が出た罰? いや罰というよりはある意味ご褒美みたいなものだった気がするんだけど、一体なにを見たのかもう記憶が定かじゃなかった。
利吉くん、って名前で呼んでたな……
山田くんが教えてくれるわけないってわかった上で、聞いてみたらって言ったよねあの先生。
わー、もう、わー!
なんだかいろんなことがわやくちゃになって、勢い込んで階段を駆け上がってしまった。バタンと音を立てて扉を閉めてしまったことも、きっとあとからお母さんにこういうときくらい静かにしなさいって怒られるんだろうな。
でも悪いのは、今お母さんの目の前できっとにこにこしながら元気でいいですね、なんて言ってるその先生だから!
これ山田くんあの先生に騙されてないよね……? でもあんなにうれしそうな顔で出迎えてたくらいだから大丈夫なのかな……もうなんにもわかんない。
明日山田くんに会って、あの先生のことを聞けたらどれだけいいかって話だけど、そんなことできるわけない。
それどころかしばらくは山田くんの顔を見るたびにさっきの先生のあれこれを思い出しちゃいそうで、まともに顔を見られるかも怪しい気がする!
あの日、山田くんもこんな気持ちで次の月曜日を迎えたのかな。こんな追体験するとは思ってなかったよ……
ごめんね、山田くん。明日はなるべく普通の顔して会えるようにするからよろしくね……