あと一粒、あと一歩 ふわふわとアルコールの波間に漂っていられればよかったが、時折吹くキリリと冷えた夜風がそうはさせてくれなかった。そもそもがあまり乗り気でもなかったのだ、どこかでブレーキをかけながら飲んでいたのでは酔うはずもない。
二月十四日、バレンタインデー、金曜日。
子どもたちを見送りさっさと学校を出てしまおうという画策は、さすが高学年を束ねるお局様とは同僚の言だが、とっくに見抜かれており、見事に先手を打たれてしまった。早朝、出会い頭にシングルなんだから予定もないでしょ、なんて勝手な言い分で強制参加を宣言されてしまった飲み会は、それはもう面倒くさいなんてかわいいものじゃなかった。
意中のひとはいるのか、最後に恋人がいたのはいつか、出会いがないだの誰が好みだの——出るところに出ればどうにかしてしまえそうな質問の数々をどうにかやり過ごし、脱出の機会を虎視眈々と探し、ようやく抜け出せたときには思わず胸をなでおろした。
普段はいいひとたちだとわかっているからまだいいが、ストレスを飲み会で発散させねばならないような状態はやはり健全ではない。その矛先にされるのは自分のような若手だとはわかっているが、だからといっておとなしく聞いていられるものでもない。
ましてや今日のような日なんか、妙な気を起こすひとがいないともかぎらない。――実際、ちょっとした紙袋を持ち帰らされそうになったが、なんとか丁重にお断りしてきたのだから笑えない。
つい先ほどまでのあれやこれやを思い出しては何度ため息をついただろう。こんな有り様では酔えるはずなどない、すっかり冴えた――なんなら冷めた頭で、アパートの階段をのぼってゆく。まだそれほど遅い時間ではないから足音を気にするほどではないけれど、冷えた夜の空気にやけに響くような気がした。
どうせなら、と思い浮かんだ顔を頭を振ってかき消すと、どっと疲れが押し寄せてくるのを感じた。どうせなら、毎年なんだかんだと贈り物を用意してくれる利吉に会いたかったが、今年はいまだに連絡すらきていない。大学受験を目前に控えたこの時期にそんなことをしている場合ではないのだからそれも当然なのだが、ついに愛想を尽かされてしまったのか、なんて考えてはずしりと気が重くなる。
そうだとしても、今の自分にはそれを見送ることしかできはしない。せめて高校を卒業するまでは。そう自らが勝手に引いた線の手前で足踏みするばかり、物わかりのいい大人のふりも、こんな夜にはうらめしいだけの代物でしかない。
「――あっ。土井先生、おかえりなさい」
そんなどうしようもない思考をかき消そうと少し強めに踏みこんでのぼりきった先、自室の前にいた人影はわずかに白い息を吐き出しながらそう言った。唐突に聞こえた声に驚いて体は揺れたが、それくらいで抑えた自分を褒めてやりたいくらいだ。
「えっ、利吉くん?! なにしてるの受験生がこんな時間に……! もしかして連絡くれてた?!」
鬱屈した考え事など瞬時に消え失せ、足音のことなども意識の外、半助はすぐに駆け寄ると自身のマフラーを利吉に巻き付けた。そうしてあわててスマホを取りだすも、通知を知らせる表示はなにもない。
「連絡は、していないです……」
ぐるぐると勢いよく巻かれたマフラーに顔を埋めながら、利吉は視線をそらした。言い淀む姿に黙って言葉の続きを待ってやる。こんな風にわざわざ訪ねてくるなんて、なにか悩みでも——家族のことか、それとも受験のことか。
「今年もチョコをお渡ししようと思って来たんですけど、どなたかとご一緒だったら申し訳ないと、そう思いまして……」
「そっ……んなひとはいません! たまたま、たまたま同僚と飲み会だったから、遅くなっちゃっただけです!」
まったく的外れだった思考はまたしても吹っ飛んでいった。胸をなでおろすような、むしろもっと深刻なような思いに言葉はつまってしまう。
わたわたと言い訳でもするように言い募る半助をみつめながら、利吉はぱちぱちと数度瞬くと、
「……そうですか」
そうして心底安堵したように笑う、その表情は決して意図してみせているものではないのだろう。むしろ成長するにつれみせないようになってきたそれは、だからこそ利吉の本心なのだとわかる。
ああもう、ひとの気も知らないで。まだ言うわけにはいかないそんな言葉を頭の片隅でごちながら、半助は両手でそっと利吉の頬をはさんだ。
「一体いつから待ってたの、受験生さんは」
「……そんなに長くは待ってないはず、ですよ?」
「君って子は……遠慮なんてしなくていいから、次からはすぐに連絡すること」
「はい、土井先生」
くすくすと笑いながらそう返す利吉は、もういつもの大人びた顔に戻っていた。それを少し残念に思いながら、半助は鍵を取りだすと玄関扉を開く。
多少、いやかなり散らかっているが、いつも通りお小言を言われるくらいどうってことはない。
「あとから送っていくけど、まずはあったまっていきなさい。インスタントだけどコーヒーでも淹れるから」
「いえ、受けとってもらえたら帰ります」
「じゃあ入らないと受けとりません。おうちには私が連絡しておくから」
ほら早く、と急かされてしまい、利吉は観念したのかお邪魔しますと素直に扉をくぐった。
とはいえこの時間まで暖房などついていなかったのだ、外よりはましというだけのこと。いつもより設定温度をあげてエアコンをつけて、同時に湯を沸かす。
適当に荷物をどかしながら座った利吉に苦笑を返しながら、大事そうに抱えた紙袋に別の意味で頬がゆるみそうだった。
例年通りならば、きっと中身はわけあえるようなもののはずだ。早速開いて一緒につまんでいれば、そのうち冷えた頬もあたたまるだろう。
受験シーズンまっただ中だというのに、律儀に当日に渡しにきてくれるなんて。まったく、と呆れる気持ちはもちろんありつつ、どこかでそれをよろこんでしまっているのだから強く怒ることもできやしない。
せめて風邪など引かないように、春には笑っていられるように。そう願い、今はまだ向かいに座りながら、半助はいつものマグカップを利吉に差し出すのだった。