青天に紅潮 折からの長雨がようやく止み、雲ひとつない青空が広がっている。戸を開けば心地よい風が抜けてゆき、閉めきってよどんだ空気もさらっていってくれるようだった。
やるべきことはいくらでもある、次にいつ晴れるかわからないのだから、この貴重な日を無駄にするわけにはいかない。そんなわけで、長屋の住人たちが忙しく働きまわる間を、同じようにちょろちょろと動きまわる影がひとつ。
「土井先生、洗濯はぼくがやっておきますから。先生は子守り、お願いしまぁす!」
「きり丸、お前は一体いくつかけもちしてるんだ」
「どうせうちのこともやるんだから、ついでに儲かるならいいじゃないですかぁ」
「そういう問題じゃない!」
背中に乳飲み子を背負い、どう見繕っても二人分ではすまない洗濯物を抱えながら、きり丸の目は銭の形のまま戻ることはなかった。
まだ日ものぼりきらぬうちからぱっちりと目を覚まし、雨が止んでいることを確認すると早々に行動を開始した俊敏さはぜひとも学園でも発揮してほしいところなのだが、聞く耳など持っているはずがない。当然のように頭数に入れられていることを今更咎めるつもりもないが、たまの休みなのにと思う気持ちがないわけではなかった。
まったく、とため息をついたところで不意に手を引かれて下を向いた。見知った長屋の子がいつの間にかしっかりと自分の足で立てるようになり、大人の手を引くほどに成長している。ほかにも何人かが足元をうろちょろと遊びまわっているが、皆そう遠くまでは行かないようにとの言いつけを守れるほどになったらしい。
こちらを見上げて笑ってみせるから、つられて思わず笑みがこぼれた。これまでことあるごとにきり丸に預けられてきたからか、手伝わされている半助にもすっかりなついていて可愛いものだ。
「きり丸、私も手伝うから――」
「子どもたちを連れたままでは難しいでしょう。私が手伝いますよ」
「利吉さぁん!」
喜色をあらわにして、きり丸は待ってましたと言わんばかりに声をあげた。
半助の背後から、苦笑しながらも挨拶をする利吉の様子に、まさか呼びつけたのではないだろうなときり丸へ視線を向けるも、頭のなかで利吉の分まで銭勘定をはじめたようで、とてもじゃないが気づくことはなさそうだ。
「私がご予定を聞いていたんですよ。今日はこちらだと教えてくれただけですから」
ぐいと袖をまくりながら、代わりに利吉が答える。
それならば、と本日何度目かのため息をつきつつ、おぼつかない足取りで歩いている子を抱き上げると、きり丸、と半助は呼びかけた。
「私はこの子たちと散歩でもしてくるから、利吉くんも手伝ってくれるんだしその間に終わらせなさい。せっかく来てくれたんだから、それ以上は働かせないように。いいな?」
「……はーい。あ、散歩ならついでに――」
「きり丸!」
不承不承返事をしながらも抜け目なく追加を言い渡そうとするきり丸を一喝して、半助は背を向けた。その背にもう一度、不満たらたら返事をするきり丸はさすがというかなんというか。
その見慣れた様子に再び苦笑しながらも、ほらやろう、ときり丸を促す。この分だと天気が崩れることはないだろうが、乾かすためにも早く終わらせるに越したことはない。
きり丸に背負われた赤子はよく寝ていて、その体温はぽかぽかと心地よかった。
「……ぼくが呼んだわけじゃないなら、なんで来たんだろうって考えないんですかね」
ぽつり、そうつぶやくきり丸に、利吉の手が瞬間止まる。取り繕うように咳払いなんかしてみせているが、学園内外での様子をみているうちに自ずとそういうことなのだときり丸が気づいてしまったのはわかっているだろうに。
まだ自分にはわからない感情――己を律するためには持たぬ方がよいと言われてしまいそうなそれを、利吉は持っているのだと知ったのがいつのことかははっきりわからないが、そのときの驚きは今なお忘れられない。
なんでもそつなくこなしてしまうひとがこんな表情をするのかと、しばらくはそれが焼きついていたものだった。
「早く気づいてくれるといいですね」
「……きり丸くん、今日もお土産を持ってきているからね。あとで食べるといいよ」
「いつもありがとうございますぅ」
なんともばつの悪そうな顔をしながらも、利吉は再び熱心に手を動かしはじめた。
くれるというならなんだってありがたくもらうが、口止めのつもりなのだろうか、そんなもの用意しなくたって言いふらすような真似をするつもりはないのに、ときり丸は思う。必死な誰かを笑うようなことなどしたくないし、そもそも馬にだって蹴られたくはないのだ。
さて、と心中でつぶやいて、きり丸も利吉に倣って働きはじめる。まだまだやらなければならないことは残っている、大事な大事な銭のため、いつまでもおしゃべりをしているわけにはいかなかった。
山のような洗濯物を片付け、ほかにもこまごまとした用事を終え、子どもたちとも手を振って別れた。あとには小銭を握りしめて笑っているきり丸と、その様子に呆れている半助と、そんな普段通りの二人の様子を見守る利吉がいた。
日はとうに天辺を過ぎ、この分なら一日晴れが続くだろう。いつもとはちがう仕事の数々に疲労は感じているが、礼を言われたりなどどこか気持ちは軽かった。
「いやぁいい日だなあ!」
「はいはいよかったな……」
「みんな大きくなってましたね」
「……そうだな」
うれしそうにそう言う、きり丸の着物も少し丈が合わなくなってきているだろうか。それを指摘してしまうと、まだ着れるだとか気にしないだとか、おそらく明後日の方向からの抗議が飛んでくるように思えて、半助は黙ってきり丸の頭を撫でた。
「あの子たちもだが、二人も大きくなったなぁ」
うんうんと頷きながらそう言う半助に、きり丸と利吉は思わず顔を見合わせてしまう。
「土井先生、疲れてます?」
「なんでそうなる! あの子たちを抱き上げた感じが懐かしかっただけだよ」
「私まできり丸くん側ですか。私はこの通り大きくなりましたので、抱き上げるならきり丸くんを……」
「そうかい? まだできると思うけど、」
ほら! と軽快な声とともに視界がぐんとあがった。
妙な感慨に苦笑しながら、今まさしく成長しつつあるきり丸を半助と同じ側に立って見守っているつもりだったのに。思ってもみなかった行動に、ぽかんと見上げるきり丸と目があうと途端に羞恥がわき起こってきた。
「な、なにしてるんですか!」
「うん、やっぱりできた。利吉くん、きみちゃんと食べてるかい? 軽いなぁ」
「食べてますよ! いやそうじゃなく……!」
「本当かい?」
抱き上げるだけじゃ飽き足らず、あやすように揺すられてしまえば己で制御できない動きに思わず半助の肩に抱きついてしまう。
赤くなったり青くなったりと忙しい利吉の様子にきり丸は思わずうわぁ、と声をあげてしまった。
「次はきり丸の番だからなー」
「げっ! ぼくはいいですよぉ……」
「げ、とはなんだげ、とは。遠慮するな!」
ほがらかに笑って楽しそうにしている半助にはもうなにを言っても届かないのかも知れないが、黙りこんでしまった利吉のことももう少し考えてやったらいいのに、と距離をとりながら思う。
あんな表情、もう二度と見ることはないだろうが、伝えるべきひとに伝わっていないなんて気の毒なのでは。これはまだまだ当分先は長そうだ、ときり丸は内心嘆息した。早くあの顔を見てやればいいのに。
「ぼく、まだアルバイトが残っているので!」
付き合っていられない、とばかりに宣言すると、逃げの一手を決める。懐の銭を撫でながら、きり丸は制止する声を無視して走り出した。