見て/見られて多少は、いやわりと――かなり、甘えた気持ちはあった。
なんだかんだと気苦労の多かった忍務がようやく終わり、気晴らしにと足を向けた町並みには見知った背中。
もしかして、とない可能性を夢想していたところに飛びこんできた光景に、自然と足も速くなる。
「奇遇ですね、土井先生」
「利吉くん!」
振り返ってくれた笑顔にこちらも笑顔を返し、隣へと並び立つ。
よもや本当に会えるとは。
「学園へお戻りですか」
「ああ、用事は終わっていたのだけれど、頼まれていたお土産に苦労してこんな時間だよ」
まったく、なんて口では言いながら、その表情はやさしいままだ。
そんな様子にどこかこちらの肩の力も抜けていくようで、途中までご一緒しても、と自然と言葉は口をついて出ていた。
もちろん、と笑顔でそう言うと、わずかに先導してくれる。
見上げる横顔の先、空は刻々とその色を変化させてゆく。
薄闇が広がろうと困ることはないが、隣のひとを盗み見ることは難しくなってしまう。
通りを急ぐ人々とすれちがいながら、無言のまま歩みを進める。
その無音も苦ではなかったが、せっかくならば話がしたい。
なんでもいい、くだらない話でいいから、と他言できる話題の乏しい頭をひねってみてもめぼしいものはなにも思い浮かばない。
子どもたちの様子でも聞いてみれば饒舌に語ってくれるだろうか。
いささか情けなくはあったが、それでもと水を向けるべく視線をあげると、こちらを見ていた双眸とかち合った。
「あの……?」
「……お疲れだね?」
「ええ、まあ……はい、多少面倒な忍務でした」
素直にそう言って苦笑すると、そっか、と小声でつぶやいてはうんうんと頷いている。
そんなにも表情に出ていたのだろうかと気恥ずかしく思うも、このひとの前でまで常に気を張ってなどいられないのだ。
ほかに誰かがいるのであればその限りではないが、こうして二人だけでいられることなんて次にいつ巡ってくるのかわからない。
そんな思考では甘いのだとわかっていても、今だけは、と誰に聞かせるでもない言い訳がいつまでも聞こえていた。
「このあと、急ぎの用は?」
「いえ、私は別に……」
「じゃあちょっと付き合ってよ」
どこに、と問う間もなく消えた姿に面食らってしまう。
とはいえ素早く駆け出し、道の脇に広がる木立のなかにまぎれていった背中を見失ったわけではないが、突然の行動に反応することはできなかった。
遅れてその後についてゆけば、すぐに追いつく。
街道よりも暗いそこはひんやりとした空気が漂っており、身震いするようだ。
暮れかかる太陽に帰路を急ぐ人々の気配を感じながら、急にどうしたんですか、と声をかける。
「どこかへ行けるほど、時間はないからね。ここなら人目は避けられるだろう?」
おいで、と腕を広げられ、一瞬足が止まる。
衆目に晒されないというだけで、すぐそこは往来である。
だいぶ暗くなったとはいえ、まったく見えないわけではないのはわかっているだろうに。
「……時折、大胆なことをなさいますよね」
ためらいはすれど、だからといってこの腕に飛び込まない理由にはなりきらない。
ゆっくり近づき、そっと肩口に頭をあずけると、それでも言わずにはいられなかった小言のようなものをこぼす。
そうかな、なんて笑いながら、腰にまわされた腕はあたたかい。
「がんばってきた利吉くんを褒めてあげたくてね」
「ふふ、なんですかそれ……」
「お疲れ様」
えらいえらい、なんて子どもにしてやるように頭を撫でられて思わず笑ってしまう。
これは確かに誰にも見られたくはないかもしれない。
己とはちがう香りと体温に包まれ、きっとゆるみきった表情をしているだろう。
「……もっと触れても?」
「? ええ、どうぞ」
耳に寄せられた唇がわざわざ許可を求めてきて、くすぐったい。
すでに触れているではないか、と声に出すよりも先に、ゆるく腰を抱いていた腕が背を強く引き寄せた。
咄嗟に胸に手をついて距離をとろうとしてしまうものの、後頭部にまわされた手がそれを許してくれなかった。
噛みつくような勢いとは裏腹に重ねられた唇はやさしく、何度かついては離れを繰り返す。
うまく呼吸ができなくて、指先に力がこもる。
それに気づいてか、顔を離すと同時にまぶたを開いた瞳がまっすぐにこちらを見ていた。
「土井、せんせ……」
はあ、と熱い息を吐き出しながら名を呼べば、そっと指先が唇をなぞってゆく。
もっと、とはこういうことだったのかとようやく理解は追いついたが、体はついていけないままだ。
頬を撫で、まぶたをなぞり、そうしてもう一度唇に戻ってきた指はそのまま口内へと差し入れられる。
それを拒もうなどと露ほども思わないが、どうするべきか迷い、ひと舐めするのが精一杯。
わずかに見張った目はしかし楽しそうに弧を描いたが、それはすぐに見られなくなってしまった。
抜かれた指の代わりとばかりに差しこまれた舌がぬるりと意思をもって這いまわる。
足りない呼吸を求めて口を開けば、これ幸いとばかりにさらに深く口付けられてしまう。
逃してくれる気はさらさらないようで、耳朶を弄びながらも首に添えられた指先はびくともしない。
加減してくれてはいるのだろうが、このひとは自分の力の強さを正しく把握しているのだろうか。
痛いほどの強さにももう慣れてはいるけれど、こうして押さえ込まれてしまうことが嫌ではないなんて、絶対に口にはできないと毎度思う。
濡れた音の合間に、遠ざかる笑い声や荷車の軋む音が聞こえてくる。
そのどれもがただ行き過ぎるだけのものではあるが、一歩こちらへ踏みこんでくれば簡単にみつかってしまうだろう。
そうでなくとも、こちらから通りが見えるということは向こうからも見えてしまうということだ。
気もそぞろな様子を咎めるように舌先を食まれ、くぐもった声をあげてしまう。
鼻にかかったその甘ったるい音が大層お気に召したのか、何度もゆるく、鋭く歯を立てられる。
ぞくぞくと背中を駆けあがる感覚は首元まで達して、撫でる指によってさらに増幅してゆく。
どこにも逃がせないそのもどかしい熱をどうにかしたくて、ぎゅうと両の拳を握る。
結局は耐えるしかないのだが、その切羽詰まった様子に満足したのだろうか、最後に舌先をくすぐることは忘れなかったが、ようやく離れていった。
わずかな光のなか、浮かびあがる濡れた唇を直視などできず、胸板を叩きながらそこに顔をうずめた。
何度か叩いてやると、痛い、なんて楽しそうに言っている。
こんな力の入っていない拳が痛いはずなんてないのに。
「……ごめんね? あんまりうれしそうに寄ってきてくれたから、つい」
「……私のせいですか」
「うーん、半分くらい? あいたっ」
今度はできる限りの力を込めて。
それでもまったく効いていないことには変わりはないのだけれど。
拘束するようにまわされていた両手はいつの間にか腰へと戻っていた。
もうほぼ日は落ちてしまったのだろう、木々の合間は一層暗く冷気すら漂っていたが、火照った体にはちょうどよかった。
「そろそろ行くかい?」
「……もう少し、このままでもいいですか」
「もちろん」
弾んだ声の振動が、音とともに直に伝わってくる。
背に腕をまわしてしまいたかったけれど、きっとそれをしてしまえば今夜は離れられなくなってしまう。
拳を解いて、手のひらで直に触れるとあたたかさが一層しみこんでくるようだった。