ひねもす【前日の話】
三度目の再会は、晴れ渡る蒼穹が頭上に広がる夏だった。
色を取り戻した視界に映った姿に、一瞬何が起きたのかわからなかった。夢かと思った。思考が追いついたときには涙が溢れていた。他の全てが耳に入ってこなくなるくらい、目の前に総士がいるという事実が嬉しかった。
触って、言葉を交わせる。それがどれだけかけがえのない奇跡だったのか、嫌というほど思い知ったのは二度目だ。一度目のときに出迎えられたのは一騎の方だった。総士の元に帰れたのが嬉しかった。
だから、今度は自分が待つ番だと、心に決めていたのだ。
「―――一騎」
柔らかな声に名を呼ばれ意識が浮上する。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。ここはどこだったかと記憶を手繰りながら目を擦ると、やんわりとその手を掴まれた。
「あまり素手で擦るな。眼球を傷つけたらどうする」
「………そうし」
数回瞬きをして鮮明になった視界が、呆れたように笑う総士を捉える。ろくに思考が回らないまま、衝動的に掴まれた手を引く。そして予想外のことにバランスを崩した総士の身体を抱き留め、腕の中に閉じ込めた。
「っ、一騎、何を……」
「悪い。……少しだけ」
「………」
総士はそれ以上何も言わなかった。黙ったまま一騎に身を委ねてくれる。合わさった胸元から聞こえるふたつの鼓動が、徐々にひとつになっていく。その感覚が心地よくて、そっと目を閉じた。
「……!? おい一騎……! 寝るな……!」
「ん、む……」
「こんなところで寝たら風邪を引くだろう……! 誕生日を布団の中で過ごすつもりか……!」
もぞもぞと暴れる身体を抑え込んでいたら、思ってもみなかった単語が聞こえた。
誕生日。……誕生日?
―――ああ、そうだ。明日は一騎の誕生日だ。だから頼みごとをしようとアルヴィスに来て、総士の検査が終わるのを待っていたのだった。その間に寝てしまうなんて、らしくないことをしたものだ。
「なあ、総士」
「なんだ」
「誕生日だからさ、頼みたいことがあるんだ」
「………」
無言で続きを促される。途端になんだか言うのが怖くなってしまった。困らせたりはしないだろうか、そもそも断られるかもしれない。そう思ったら、口が縫い付けられたように動かなくなってしまった。
「一騎」
しばらくの沈黙の後、耳元に総士の声が吹き込まれた。呆れたような、それでいて安心させようとするような、不思議な声だった。
「言ってみろ。僕にできることならば、叶えると約束する」
「―――……」
胸につかえていた重しが消えていくのを感じる。口も、自由に動かせる。
嗚呼、総士には敵わないな。
「あの、な、総士」
深呼吸をして、一騎は願いを口にした。
「明日一日……一緒に、過ごしてくれ」
【朝の話】
トントントン。
規則正しくまな板を叩く音が聞こえてくる。まるで歌を歌っているようだと、浮上したばかりのぼんやりとした意識で思った。
数年ぶりの真壁家の天井は、小さい頃の記憶と何ら変わりなく感じた。随分と昔のことなのに不思議なものだ。
顔を動かして隣を見ると、数十分前まで一騎がいたであろう布団が目に入る。あの頃はひとつの布団でも十分だった。互いに大きくなったものだ。七年も経つのだから当たり前だが。
七年。その空白の大半は総士に原因があった。一騎に救われたのに、そのことを当人にきちんと説明しなかったせいで、目には見えない溝を生んでしまった。
言わなくてもわかってくれるだろうなんて、とんだ思い上がりだ。言葉を駆使したとしても自分の気持ちを正確に伝えるのは困難だった。そしてそれは、受け取る側でも同じことだ。
『誕生日だからさ、頼みたいことがあるんだ』
そう言って口ごもった一騎を思い出す。勢い良く手を引いて抱き締めて来たのに、何故そこで言葉に詰まるのかわからなかった。総士を腕の中に収めて尚、一体何を躊躇う必要があるのだろうか。
何となく、不安なのかと思った。わかった気になるつもりなんて無いが、それでも、一騎のことを誰よりも見てきたという自負はある。
安堵させるように声を掛ければ、身体と表情を和らげた一騎が頼みを口にした。
『明日一日……一緒に、過ごしてくれ』
そばにいて欲しい。それが、一騎が託してきた頼みだった。せっかくの誕生日にいいのかと問えば、だからだよと言われた。
嬉しかった。特別な日に、一騎からそばにいることを望んでくれたことが。このままでは総士にとっての褒美になってしまう。
だから、そう。今日は精一杯、一騎を祝ってやろうと決めていた。いつまでも布団にくるまっているわけにはいかない。
「総士、朝……なんだ、起きてたのか」
丁度よくエプロンを着けたままの一騎がやって来た。総士は立ち上がると、不思議そうな顔をしている一騎を正面から抱き締める。
「そ……っ!?」
名前を呼ぼうとしたらしい一騎は、驚きのあまり声を裏返させてぱくぱくと口を震わせた。総士から抱き締めるのは、もしかしたら初めてだったかもしれない。なら、これがひとつめの誕生日プレゼントになるのだろうか。
抱き締める腕に力を込めれば、一騎がそこにいるのだと強く感じることが出来た。同時に、自分がここにいるということも。
「誕生日おめでとう、一騎」
耳元で息を飲む音がする。何かを堪えるように声にならない声を漏らす一騎に思わず苦笑してしまった。祝いの言葉ひとつでそんな反応をされても困る。
誕生日は、はじまったばかりなのだから。
【夕方の話】
「一騎、予定より三度も高いぞ」
「大丈夫だよ、もう止めるから」
まだ何か言いたげな総士を宥め、鍋の火を止める。ぐつぐつと音を立てているのはホワイトシチューだ。
朝食を食べ終えた総士に「昼食は僕が作る」と言われたときは心底驚いた。お前、料理できるんだな、という言葉を飲み込んで昨日から作っていた煮物を見せると、総士が目に見えて落ち込んだので、夕食は一緒に作ることになったのだ。総士に思う存分手料理を食べて欲しかったのだが、あまりわがままばかり言うのも良くない。
「……本当に、上手くなったな」
エプロンを外しながら、ぽつりと総士が呟いた。なんとなく寂しそうに聞こえたのは気のせいだろうか。
「そうか……? あんま変わらないと思うけど」
「お前が料理をしているところを間近で見るのは、初めてだ」
それはそうだ。帰ってきてから約一か月、総士はほとんど外に出ていない。自分の存在が島の脅威にならないという確証を得るために、自らアルヴィスの中に籠っていた。その間も作った料理を持って行ったりはしていたが、ただ料理を食べるのと手際を見るのとでは感じ方が違うという。そういうものだろうか。
離れていた二年間、総士は一騎と常にクロッシングで繋がっていたと聞いていたが、そのときに見たりはしなかったのだろうか。
聞こうと思って、やめた。クロッシングで共有するのと実際に自分で感じるのとでは理解度が違ってくる。それを一番よく知っているのは、きっと総士だ。
「それにしても、この量で足りるのか?」
「え?」
「夕食は楽園に行くんだろう?」
「行かないぞ」
「は?」
総士が呆けた顔をする。見たことのない表情がおかしくて思わず笑うと、少し焦った様子で両肩をがしっと掴まれた。ちょっと痛い。
「どういうことだ? 誕生日会をするんじゃないのか?」
「遠見たちに頼んで明日にしてもらった」
「それでは意味がないだろう……! 何故、」
言葉が途切れる。総士の左頬に触れた唇をそっと離すと、大きく見開かれた夜明け色の瞳と目があった。
「言っただろ。今日は一緒に過ごしてくれって」
「だ、から、って……」
「お前とふたりがいいんだ」
祝おうとしてくれていた友人や後輩には悪いと思う。父にも家を空けて欲しいとわがままを言ってしまった。
それでも、せめて今日だけは、総士の時間を自分だけのものにしたかった。
「……それを先に言え」
総士がふいっと顔を背ける。絹のような髪から見え隠れする耳が真っ赤に染まっていて、総士も満更でもないのかななんて、自惚れたことを思った。
【夜、そしてこれからの話】
一日というのはこうも短いものだっただろうか。昨日の夕方に一騎と会ってからとっくに丸一日が経過しているのに、全くそんな気がしない。不思議なものだ。
「総士、ちゃんと髪乾かしたか?」
「お前は僕を何だと思っているんだ……」
風呂から上がって一騎の寝室に入ると、部屋の主はいそいそと布団を敷いていた手を止めて振り返った。その顔に驚きの色を見つけて首を傾げる。
「いや……長いともっと時間かかるんじゃないかと思って」
ああ、と納得した。確かに以前竜宮城で共に風呂に入ったときは、もっと時間がかかっていたかもしれない。
「お前に比べればそうだが、慣れればどうということもないさ」
「そっか」
「……どうした。随分嬉しそうだな」
「だって、また総士のことを知れたから」
そう言った一騎は心底幸せそうに笑った。そんな顔をするようになったことが、何より、それを向ける相手が自分であることが、とても嬉しい。
一騎は総士を知れたと言ったが、総士もたくさん一騎について知ることができた。誕生日という特別な日に共に過ごす相手として選んでくれたことを、改めて感謝したいと思うほどに。
一日以上一緒にいても尚話したいことは尽きないが、そろそろ寝なくては。明日になったらまた忙しない日常が帰ってくる。いつまたフェストゥムの襲来が来るとも限らない以上、常に備えていなくては。
手伝うために畳まれている布団に手を触れると、横から一騎の手が伸びてきて躊躇いがちに手首を掴まれた。どうしたのかと隣を見ると、琥珀色の瞳が気まずそうに泳いでいる。
「まだ言いにくいことがあるのか?」
司令をアルヴィスに泊まらせるだけの度胸はあるのに何を今更。本当に一騎の考えはいまいち読み切れない。
「え、っと……さすがに、嫌かなって……」
「むしろ気になるな」
「……っ、あ、あの……」
掴まれた手首が熱い。一騎の体温が上がっているらしい。照れている、のだろうか。ますます見当がつかなくなった。
なんでもない顔で抱き締めたり頬にキスをしたりするくせに、それ以上の何を望むというのか。
―――まさか、という考えが頭を過る。一騎も健全な青少年だ。有り得ない話ではない。もしそうだとしたら、なんて答えるべきだろうか。
違う。考えるべきは、どう答えたいかだ。
持ち前の並列思考を駆使するまでもない。役目を抜きにした、ただの『皆城総士』としての答えは、帰る約束をしたあの日に出している。
「一騎、僕は……」
「……に」
「ん?」
ぼそぼそと何か聞こえた。俯いていた一騎が、意を決したようにこちらを真っ直ぐ見つめてくる。
「昔、みたいに……い、一緒の、布団で、寝て、くれないか……?」
「…………」
そんなことか、という言葉を何とか飲み込んだ。勝手に先走ったことを考えていた己が恥ずかしくて思わず顔を背けたら、ショックを受けたような気配が伝わってくる。はっとして向き直れば、一騎が耳をぺたりと倒した子犬のような顔をしていた。
「やっぱり、嫌だよな……」
「ち、違うんだ一騎……! 今のはその……っ」
上手く言葉が出てこない。もしかしたら、本心を隠していたあの頃よりも口下手になっているかもしれない。伝えたい想いの半分も伝えられていない気がする。
でも、それで構わないのだろう。一度で伝わらなければ、伝わるまで話せばいい。何度でも、何度でも。今の総士と一騎には、それが出来るのだから。
そんなことを頭の片隅で考えながら、落ち込んでいる一騎への釈明を必死で考えるのだった。
気が付けば日付は変わっていて、何でもない日がはじまった。たとえ特別な日ではなくても共にいられる幸せを噛み締めながら、狭い布団の上で身を寄せ合って、二人は目を閉じた。