だってケーキだから きっかけは何だったか。少なくとも、すでに思い出せないほどには些細なことだった。
「ん…っ!」
自分の下から聞こえてくるくぐもった声に満足そうに笑みを深め、一騎は押し付けていた右腕を退かした。
「美味いか? 総士」
「……っ、かず…き…っ!」
紫苑の瞳を金色に輝かせた総士が抗議の視線を向けてくる。どうやらまだ反省していないらしい。はあ、とわざとらしくため息を吐き、再び右腕に作った傷口を押し付ける。さすがに危機感を覚えたらしい総士が足をばたつかせるが、力で勝る上に馬乗りになっている一騎をどうにかできるわけがなかった。
「んー…! んん…!」
「いいから味わえよ」
傷口を左手の親指と人差し指で摘まみ血を絞り出す。輝きを増した瞳が何かを訴えかけてくるが笑顔で黙殺した。
「総士、お前顔色悪いぞ」
久しぶりに見た総士の顔色があまりにも不健康で、一週間ぶりに会ったというのにそんな言葉が真っ先に口を衝いて出た。眼鏡の奥の紫苑が僅かに細められたことには気付かず、一騎は距離を詰めて額に手を当てる。どうやら熱はなさそうだと安堵の息を吐き、店内に入るよう促す。
「ちゃんと寝てるのか? あと飯。ここに来てないときでもしっかり食べて…」
「一騎」
強い語気で名を呼ばれ振り返る。総士は入口から一歩も動いていなかった。纏う空気がいつもより鋭くなっていることに、一騎はこの時初めて気付いた。
「…総士?」
どうしたのかと問うように名を呼べば、総士が小さくため息を零した。呆れたような顔をしているが理由が全く分からない。
「……すまない。今日は帰る」
「えっ?」
言うや否や本当に踵を返したので、慌てて駆け寄り腕を掴む。一週間ぶりに会ったというのにろくに話もせず帰るだなんてあんまりだ。
「どうしたんだよ。…やっぱり具合悪いのか」
「……そうではない」
総士は目を合わせようとしなかった。視界に一騎を入れてはいるのだろうが、覗き込もうとすると逃げられる。一体何だというのか。訳も分からず対話を拒まれて段々腹が立ってきた。
「言いたいことがあるならはっきり言えよ」
不機嫌を隠さずにそう言えば、絶妙に逸らされていた紫苑が真っ直ぐに一騎を捉えた。だがそれも一瞬のことで、すぐに目が泳ぎ出す。何か言葉を探しているようだが、それが気に入らないという話で。
「総士」
催促するように名を呼ぶ。総士はぴくりと反応したが、もうこちらを見ようとはしない。必死に何か、恐らく帰るためのうまい口実を探しているのだろう。
久しぶりに会ったというのに、そうまでして帰りたいのか。それならこっちにだって考えがある。引き留めるために掴んだ腕を引き、ずんずん歩き出した。不意をつかれてバランスを崩しかけた総士から抗議の声が上がったが無視してそのまま二階へと向かう。
それが何を意味するのか、分からない総士ではないだろう。案の定焦ったように名前を呼んでくることに充足感を覚え、一騎は総士にバレないように小さく笑った。
「なんで帰ろうとしたんだよ」
ベッドにぐったりと横たわる白い身体をタオルで拭きながら今更思い出した問いをぶつければ、総士は枕に押し付けていた顔をこちらに向ける。一通り終わったあと抑制剤を飲ませたので、瞳はいつもの夜明けの空のような落ち着いた色に戻っていた。
「……おまえ、に」
「うん」
「…お前に、心配をかけたのが、ふがいなくて…」
「……うん?」
首を傾げると気まずそうに顔を背けられてしまった。それでも根気強く続きを待てば、総士が観念したようにぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始める。
「……お前のために、研究をしているのに……そのせいで、一騎に心配をかけていると思うと、情けなくてな……」
「なんだよそれ。心配くらいさせろよ」
「それだけではない。……お前と、話していると……甘えてしまいたくなるから。いつもなら多少は自制できるのだが、今日は徹夜明けでな……箍が外れそうだったんだ」
「………お前ってほんと………」
不器用だな、という言葉は飲み込んでおいた。
甘え過ぎてしまうのが嫌だなんて。そういうのは普段から甘えることが出来る人間が言うものだ。甘えることを微塵も知らない癖に何を言っているのか。
だが、日頃から己を律している総士が繕うことも出来なくなるくらい一騎に甘えたいと思ってくれたことも、また事実なわけで。
愛しさが込み上げてきて抱きしめると、肌が触れ合う感覚に総士がぴくっと跳ねた。あたたかさに心が満たされていく。でも、まだ足りない。
「頑張ってる総士にサービスしないとな」
「は? 待て、もう…っ!」
逃げようとする細い身体をあっという間に再び組み敷き、一騎はにっこりと笑った。
「たくさん甘やかしてやるからな、総士」