六花の夢 ミールの暴走。話には聞いたことがあったけれど、まさか自分がその現象に巻き込まれるなんて夢にも思わなかった。
マリスはきょとんとこちらを見上げる少年を見て頭を抱えた。
「マレスペロ…なんだよね?」
「そうだよ」
見た目の幼さにそぐわないしっかりとした返答に少しだけ安堵する。どうやら不安定になったのは肉体だけで精神は無事なようだ。
「困ったな…とりあえず、元に戻るまでは姿を隠すしかないか」
視覚情報というのは人間の判断に置いて大きな役割を果たす。だからだろうか。マレスペロだと分かっているのに、脳が心細そうな顔をしている幼気な子どもとして認識してしまう。
「……僕の部屋に居たらいいよ」
ぱっとこちらを見上げた大きな瞳が、小さく揺れていた。
それから二日間は、実に平和だった。久しぶりの小さな身体に苦戦するマレスペロをからかいながら、笑ってしまうくらい普通に過ごした。
異変が起きたのは三日目のことだ。肉体だけだと思っていた変化が精神にまで及びはじめた。
先ずはじめにベノンのことを忘れた。次に敵の存在を忘れた。
そして。
「おはよう、マレスペロ」
「……まれすぺろって、誰?」
彼は、自身に課した存在意義すら忘れた。
「何故もっと早く言わなかった」
ケイオスの静かな声にマリスは返す言葉が無かった。
あの姿を誰にも見せたくなかった。あの時間が思ったよりも心地よかった。
心に絡み付く憎しみから、一時でも逃れられたから──―。
「それだ」
「!」
心臓が跳ねた。ケイオスの言わんとしていることを瞬時に理解してしまった。
「今のマレスペロからは、『憎しみ』を感じない。つまり…」
「言わないで」
思わず言葉を遮った。そんなマリスを蒼の瞳が静かに射抜く。
「このままでは、マレスペロの存在が消える」
「………そんなことはさせないさ」
要は彼に憎しみを思い出させればいいのだ。そんなこと、エスペラントの力を使えば造作もない。
「……やれるのか?」
思考を読んだであろうケイオスの問いかけに頷き、マリスは足早に自室へと向かう。
早くしなければ。決意が、揺らがない内に。
「おかえり、まりす!」
ベッドに座って退屈そうに足をぷらぷらとさせていた少年は、扉の開く音に顔を輝かせて駆け寄ってきた。抱き着いてきた小さな身体を反射的に抱き締め返しそうになり、ぐっと堪える。
マリスの様子がおかしいことに気付いた少年が、こちらを見上げて小首を傾げる。
「まりす?」
あどけない顔。すっかり見慣れてしまった彼の一面。これを今から消すのだ。この手で可能性を潰す。
ベノンのためではなく、彼のためですらもなく。
ただ、彼を喪いたくないという我が儘のために。
「どうしたの? どこかいたいの?」
「……何でもないよ」
膝を折って視線を合わせ、安心させるように微笑みかける。彼に向ける最後の笑みだ。
「まりす……?」
自分は今、うまく笑えているだろうか?
「……眠って。余計な記憶は、全て消すから」
「まり……」
少年が何かを言いかけていたことに気付かないフリをして力を行使した。倒れ掛かってきた小さな身体を優しく抱き留め、その背を撫でる。
「おやすみ。……さよなら、ミコト」
「ねぇ、ケイオス。ここ半月の記憶がないんだけど、何か知ってるかい?」
「さあ。疲れているのではないか?」
「僕が? 人間じゃあるまいし。ああでも、睡眠ってものが少し分かった気がするよ」
「睡眠?」
「夢を見ていた気がするんだ。───とても、あたたかい夢を」