水平線の彼方 意識を取り戻して最初に目に映ったのは、穏やかに笑っているマレスペロの姿だった。
「やあ、マリス。随分こっぴどくやられたものだね」
「………、……」
口を開こうにも腹部からの出血が酷くて力が入らない。言葉で話すのは諦め、身体の力を抜く。
《セレノアとレガートは》
「エレメントにやられた。君が皆城総士に手こずってる間にね」
《……そう》
読心での問い掛けに返ってきた答えは想定の範囲内だったのに、目頭が熱くなった。何とか涙だけは流さないようにと堪えていたら追い討ちを掛けるように現状を共有された。
グリムリーパーがニヒトの手で海に沈められてからほどなくしてセレノアが消え、群れを呼べなくなったことでただでさえ劣勢になっていたレガートが消えた。ケイオスが善戦しているが戦況をひっくり返すことはほぼ不可能だろう。
「僕も力を使いすぎた。このままだと消えてしまう」
ああ、なるほど。どうしてそんな戦況にも関わらずマレスペロが自分の元に来たのか疑問だったが、死に損ないにもまだ使い道はあるということか。
《僕を、同化して、マレスペロ》
腐っても優秀なエスペラントだ。そこら辺のソルダートやフェストゥムを取り込むよりは糧になる。
「君ならそう言うと思ったよ」
笑みを浮かべたまま、マレスペロがそっと頬に手を添えてきた。こんな時まで人間ごっこをするなんて、呆れながらも笑ってしまう。
「ねぇ、最期に教えてくれるかな。……君は、僕が憎い?」
《…………》
「君の家族を、居場所を奪った僕が憎いんだろう?」
まるで誘導尋問のような言葉が引っ掛かり、残っていた気力を振り絞って瞼を持ち上げる。しかし視界はぼやけ、すぐそばにあるはずのマレスペロの顔すらよく見えなかった。
「……僕はね、マリス」
唇に軽い衝撃を感じる。一瞬前まで見えなかった彼の顔がようやく見えた。見える距離まで、近付いたから。
「ぇ、」
キスを、されている。何度も身体は重ねたが決してそれだけはしてこなかったのにどうして。
意図が分からずに困惑していると、そっと離れたマレスペロが照れたように笑う。
「これでも君のことは気に入ってたんだ。だから、君の願いは叶えられない」
「どう、いう…」
そこまで言って、自分の身体の変化に気付いた。
事切れる寸前だった肉体に生命力が溢れてくる。霞んでいた視界がはっきりとした輪郭と色彩を取り戻す。
そうしてはじめて、マレスペロの身体が消えかかっていることに気付いた。
「まれ、す、ぺろ…?」
「マリスはソルダートだからね。僕の命を分けてあげられた」
「は……?」
何を言っているのか分からない。命を分けた? マレスペロが? 自分に?
「なんで、そんな…」
「理由ならさっき言ったよ」
「っ、ふざけるな…!」
力が入るようになった手でくすくすと笑うマレスペロの胸倉を掴みあげる。言いたいことはたくさんあるのに思考が心に追いつかず何ひとつとして言葉にならない。
「なんでこんなことしたんだ! 君を喪ったらベノンは負けるんだぞ!」
「もう勝てない。なら、せめてマリスを助けたかった」
「そんなこと頼んでない!!」
惨めに生かされるくらいならマレスペロに同化された方がマシだ。そんなこと、言うまでもなく分かっていると思っていたのに。
「知ってる。だから、これは僕のエゴだよ」
そんな言葉を何処で覚えた。余計なことばっかり学ぶコアめ。
激情は今も尚胸の内で暴れ回っているのに、反して段々と頭が冷静になってきた。
言ってやらなくては。さっきの答えを。
「……君が憎いよ、マレスペロ」
初めてマレスペロの顔から笑みが消えた。金の瞳が揺らぐのを認めて、言葉を続ける。
「これだけ傍にいたのに何も分かってない君が憎い」
だから教えてあげる。君が終ぞ獲得出来なかった人間の心ってやつを。
「僕の居場所は、ここだ。それを奪う君が憎い」
消えかかっている腕を掴めばマレスペロが目を丸くした。本当に何にも分かっていないんだなと思うといっそ笑えてくる。
「……僕を置いて逝くなよ……っ」
腕を引き寄せ、胸元に顔を埋めて掠れた声で本音を零す。戸惑った気配がしたあと、躊躇いがちに背中に腕が回された。
「もしかして、僕のこと好きだった?」
「……憎いって言ってるだろ」
「嘘吐きだなぁ。…ありがとう、マリス」
嬉しそうに、噛み締めるように呟いて、マレスペロの身体は光の粒となって消えていった。
「……そう言うところが嫌いだっていうんだよ」
一人だけ満足そうに逝くなんてさ。
「ほんとに、最低な奴」
小さく笑って認証コードを口にする。カウントダウンを聞きながら空を仰ぐが、海の中からでは赤い月は見えなかった。
「これでおあいこだね、マレスペロ。――――――」
最期の言葉は爆音に呑まれ、深海へと消えていった。