夕凪 人間は身勝手だ。自分の都合で周りを利用する。
島を奪われてからの日々は、地獄という言葉でも生ぬるいものだった。対話することさえ許されない牢獄の中で、自我を切り取られては喪失の痛みを刻まれる。いなくなった方がマシだと何度思ったか。
だから思い知らせてやろうと思った。僕が受けた憎しみを、人間たちに。
《やめろ!》
聞こえた声に手を止める。マリスの必死な顔が、赤い鏡像として浮かび上がった。
《美羽もアルヴィスも僕たちが止める。アルタイルは君のものだ!》
胸を搔きむしられるような焦燥が伝わってくる。僕に対して常に平静を装っていたマリスらしくない必死さに、彼がどれだけ本気なのかが伺えた。
それは、一体何に対する焦燥なのだろう。日野美羽を僕に同化されることか、あるいは―――感情を獲得したこのフェストゥムの存在が消えることか。恐らくどちらもだ。
消耗品のように利用して、使い切ったら捨てればいいのに。たかだか三年、時を共にした程度の個体に執着して、わざわざ僕の機嫌を取ってまで生かそうとするなんて。
「……君は変な人間だ」
あいつらと同じ、人間なのに。
胸の奥に開いた洞で、微かな火花が散った。
それから三十分と経たずに、グリムリーパーが戦闘不能になったのが気配で分かった。ノイズのような泣き声が聞こえてくる。未来を消すために直走っていた哀れな子どもが、本物の絶望に触れて涙を流している。
可哀想なマリス。君の願いは、彼女には決して届かない。
「結局失敗したね、マリス」
まあいいや。全てが終わった後で、もしもまだ彼が存在を保っていたら回収してあげよう。今度は本当の部下として、新しい世界を一緒に生きるのも悪くない。
《あなたは私、私はあなた》
声が、響いてくる。柔らかくも芯のある声は、無遠慮に僕の内側に踏み込み存在を掻き乱してくる。
苦しい。気持ちが悪い。やめろ。
「僕は対話さえ許されなかった!」
人間が今更、僕に触れるな。
「お前に何が分かる!!」
憎しみ以外の感情が溢れ出す。気が付いたときには、自爆装置を起動させていた。所詮器に乗るための身体だ、失くしたところで困りはしない。目障りな少女を道連れに出来ればそれで良かった。
そうだ。何もかも、消え去ればいい。
《―――マレスペロ!!》
誰かが、僕の名前を呼んだ。
刹那、器が水面へと叩きつけられた。そのまま暗く冷たい水底へ沈んでいく。消し去りたかった忌々しい器も、消えるはずだった身体も、何故かまだここにある。
何が起きたのだろう。確かに自爆装置を起動させたはずなのに。とにかく海上へ戻ろうとして、そこではじめて器の動力が奪われていることに気付いた。この感覚は、グリムリーパーのSDPか。
気配を探ると、そう遠くない地点に沈みゆく器を見つけた。目も当てられない程の損傷具合だ。両腕なんて完全に捥げてしまっているじゃないか。手心を加えるからそうなるんだよ。本当に、どうしようもないくらいお人好しな子だ。日野美羽を助けるためだけに、そんな状態でここまでやって来るのだから。
気配で探るのを止め、クロッシングに切り替える。SDPを止めさせないと動けない。
「僕を止めたところで無駄だよ、マリス。彼女じゃ僕らの器、には……」
敵わない。そう続けようとした僕の目に映ったのは、今にもいなくなってしまいそうなマリスの姿だった。胸から下を真っ黒に染め上げているのはソルダート特有の同化現象だ。器に、命を食われている。
「……どうして君はそこまで出来るんだい」
日野美羽にマリスの言葉は届かなかった。彼女のために費やした時間も、削った命も、全部無駄になった。それなのに、どうして折れずにいられるのか。
俯いていたマリスが顔を上げた。焦点の定まらない瞳が何かを捉え―――その瞬間、安堵の光を湛える。
《……よ、か……た……ま、だ……そ………こ……に……い、た……》
「え?」
存在が食われかけているせいで声がよく聞こえない。仕方なく心を直接読み取ると、それを察したマリスが小さく笑って心で話しかけてくる。
《まにあって、よかった》
「……何の話?」
《はやく、それをすてて。しずんでしまうまえに》
まるで会話が嚙み合わない。というより、マリスが僕の質問に答えてくれない。散々邪魔をしておいていい度胸だ。
「君はどうするつもりなの? もう指の一本さえ動かせないだろ」
《そうだね。だから、ぼくはここまでだ》
いつの間にか随分と深いところまで沈んできてしまった。遥か遠くにあるはずの光が届かない深海で、マリスはその蒼白い顔に見たことのない笑みを浮かべた。
《きみは、いきて》
「―――」
理解、する前に、マリスのところへ跳んでいた。崩れかけている身体を抱き上げオリンポスの甲板まで跳ぶ。腕の中で、息を飲む音がした。
「な、に……して……」
「僕の台詞なんだけど。……日野美羽を助けに来たんじゃないの?」
「……っ、……」
口を開くことを諦めたマリスが、音にならない声で言葉を継ぐ。
《みわのことも、たいせつだけど……きみがきえるのも……みたくなかった、から》
まさか、僕のためにいなくなるリスクを冒してまで無茶をしたっていうのか? なんで?
思っていることが顔に出たのか、マリスはおかしそうにくつくつと喉を鳴らした。崩れかけた手が持ち上がり、僕の頬に触れる。すごく、冷たい。君の手、そんなに冷たかったっけ?
《いったでしょ。きみのつくるせかいに、きたい、して……》
声が途絶えた。両腕に抱いた存在が掻き消えていく。
いやだ。
「ま、りす、」
いやだ。
「マリス……!」
消えないで。
―――唐突に、この身を駆け巡る憎しみの理由を思い出した。
僕はただ、大切な誰かにいなくなって欲しくなかった。たった、それだけだったんだ。
「……僕が作る世界を見る前にいなくなるなんて許さないよ、マリス」
冷や汗のせいで張り付いてしまった前髪を分けてやり、そこに自分の額を合わせる。可能な限り繋がりを深めて、僕の存在をマリスに渡す。
これまで散々我儘を聞いてあげたんだ、最後くらい僕の我儘に付き合ってもらう。
「マリス、」
きっとこの声も言葉も君には届かない。
それでいい。それがいい。
「 」
空気を震わせることのなかった言の葉が風にとけていく。
それは僕の、最初で最後の祝福。