ひねもす【深夜の話】
『そわそわ』という擬態語が視覚的に見えそうだと思ったのは、約十六年生きてきてはじめてだった。
「総士!」
擬態語を纏った男は、僕の姿を認めるや否や、ぱぁっと顔を輝かせて走り寄って来た。
「仕事、終わったか?」
「ああ、本日分は先程つつがなく終了した」
隣に来た一騎は「そうか」と笑うと僕の左手の袖を掴む。何か言おうとしているのは顔を見るまでもなく分かった。そもそも今日が十二月二十六日である時点で、こいつの用件は大方見当がつく。
「あのさ、総士……」
「お前の家には行かないぞ」
「えっ」
途端に周囲の空気が重くなる。『そわそわ』という擬態語は『しょんぼり』へと変わり、ついさっきまできらきら輝いていた瞳は翳って廊下を見つめるばかり。たった一言で左右され過ぎではないだろうか。さすがに心配になるのだが。
「そ、か……そうだよな、お前忙しいもんな……ごめんな、邪魔して、」
「待て……!」
そのまま走り去ろうとする右手を慌てて掴む。話を最後まで聞かないのは一騎の悪い癖だ。それと同じくらい、説明が下手なのも僕の悪い癖なのだが。
「そうじゃない。……僕の部屋に来て欲しいんだ」
「へ……? 総士の部屋?」
「そうだ」
「……なんで?」
「何故って……」
お前が僕のところに来たのと同じ理由に決まっている。決まっている、のだが。一騎は本当に分かっていないようで、不思議そうを通り越して不安そうな顔で僕を見てくる。ああ、どうしていつもそんな顔をさせてしまうのだろうか。
多分、こうして色々と考えてしまうのがいけないのだろう。いくら思考を巡らせたところで、言葉にしなければ相手には伝わらない。とっくに身に染みているはずの事柄を改めて噛み締め、咳ばらいをひとつ。そして、僕の言葉を今か今かと待っている一騎の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「明日は、僕の誕生日だろう。だから、お前とゆっくり過ごしたいんだ」
「え? だったら俺の……」
「だから……その…………ふたりで、過ごしたいんだ」
「………っ!?」
一拍置いてから僕の言葉を理解したらしい一騎が、ぼふっという音が聞こえてきそうな程顔を真っ赤にするものだから、釣られて僕の顔も熱くなった。
―――というのが、約十時間前の話。
現在の時刻は午前三時過ぎ。僕は自室のベッドの上で、一騎の腕の中におさまっている。一騎の誕生日のときもだったが、一騎は僕と一緒に就寝するのが好きらしい。曰く『総士がここにいるって実感出来るから』だそうだ。……これは遠見に聞いた話だが、一騎は今でも僕を失う夢を見るらしい。どれだけ言葉を尽くしても、触れ合う時間を持っても、傍にいなければ僕が存在していると確信が持てなくなるようだ。
一騎が悪いわけではない。必ず帰ると誓っていたとはいえ、喪失を経験させてしまった僕の落ち度だ。たとえあの日、他に選択肢がなかったとしても、それは言い訳に過ぎない。
どうしたらいいのだろう。どうすれば一騎の心に深く突き刺さった棘を取り除いてやれるのだろう。
考えて、考え抜いて、今日という日を利用しようと決めた。問いの答えは依然として出ていないが、何もしないよりはマシだろう。
「ん~……そうし……」
ふにゃふにゃとした声が耳元で僕の名を呼ぶ。余りにも愛らしくて、それまでの真面目な思考が一瞬で飛んでいってしまった。尤もらしい理由をつけてはいるが、僕自身、誕生日という特別な日を一騎とふたりで過ごしたいと思っているのも紛れもない本心なのだ。
夜も大分更けた。今日はせっかくふたりきりで過ごせるのだから、寝坊して時間を無駄にしてはいけない。そう結論付けた僕は、世界で一番安心できる場所で瞼を閉じた。
【昼間の話】
―――夢を見る。何度も何度も、あの日の罪(ゆめ)を見る。
手の中であいつが砕け散る。一瞬前まで確かにここにいたのに、もう、何処にもいない。
ヒュッと喉が鳴る。空気が喉奥に絡まって上手く呼吸が出来ない。まるで溺れているようだ。
……嗚呼、そっか。ここはあの暗い海の中か。見上げれば揺らめく水面があり、その彼方には灯りの群れがある。でも―――俺には、もう関係ない話だ。だって俺は、
「一騎?」
プツンと、映像が途切れる。代わりに目に入ってきたのは総士の顔だった。なんだか、眉間に皺が寄ってる。
「……総士? 俺、寝てた、か?」
「ああ、器用にも立ったままな。……疲れているのか?」
「そんなことないよ」
嘘を、吐いた。最近ぼうっとしてることが多いって、この前遠見に指摘されたばっかりだ。その理由が睡眠不足だってこともわかってる。あまり俺に薬を勧めない遠見先生が、薬を出そうかって言うくらいの。
薬に頼って眠れるなら、それもいいかと思った。みんなに迷惑かけたくないし。でも、それは逃げなんじゃないかと思ったら、素直に頷けなかった。
「一騎、」
すごい近くで名前を呼ばれた。えっと思ってそっちを見たら、ぶつかるんじゃないかって距離に総士の顔があった。視界が、総士で埋め尽くされてる。
心臓が、痛い。嬉しさと苦しさで、バクバクと音を立てる。そんな俺に気づいてないのか、総士はすごく真剣な顔で俺のおでこに自分のおでこをくっつけた。
「……熱があるわけではないか」
「っ、あるわけないだろ。俺は平気だ」
「お前の『平気』は信用出来ない」
「お、お前が言うなよ……!」
俺なんかよりよっぽど無茶する癖に。口にはしなかった不満が伝わったのか、総士は「無茶なんてしていないさ」と笑う。
「してるだろ」
「僕が無茶をするのはお前がいるときだけだ」
「は……」
どういうことだって聞こうとしたのに、部屋に響いたチャイムに邪魔をされた。「少し待っていろ」って言った総士は相手を確認することなく部屋から出て行く。
「…………それ、無茶してるってことじゃん…………」
だから、呆れ混じりの文句が総士に届くことはなかった。
―――夢を見る。その度に思い知らされる。
総士が帰ってきたからって、俺の罪が消えることはないんだと。
【続・昼間の話】
扉がしっかりと閉まったのを確認して、詰めていた息を吐き出す。一騎の胸の内に渦巻く感情にうっかり呑まれるところだった。訪問者がいなければ危なかった。
「皆城君と一緒でもつらそうなんだね、一騎君」
心の整理をし終えたところに悲しげな声が届く。今し方僕の窮地を救った人物――遠見が、痛みを堪えるような表情で部屋の中へと目を向けていた。岡持を持つ手にきゅっと力が込められたのが見て取れる。
「ああ。というより、これまで僕の前では取り繕っていたのだろう。一騎の誕生日を除けば、これ程長時間共に過ごすことはなかったからな」
「うん……」
「時間はある。色々と試してみるさ」
すっかり気を落としている遠見の肩を叩き、岡持を受け取る。少しでも長く一騎とふたりきりでいるための出前だ。きっと一騎は「俺が作りたかったのに」と言うだろうが、誕生日だからで押し通すつもりだ。
「ありがとう、遠見」
「お礼を言われることじゃないよ。わたし、何も出来てないし……」
「何を言っているんだ。君が気付かなければ、対処をする算段さえつけられなかったんだぞ。だから……なんだ、その顔は」
もう一度感謝の言葉を口にしようとしたのだが、遠見が呆気に取られたように見つめてくるものだから、つい問い掛けてしまった。
「いやぁ……皆城君、随分はっきり言うようになったよね」
「そうか……?」
「うん。いいことだと思うよ。わたしは嬉しかったし」
遠見の表情が明るくなる。彼女は彼女で、この数ヶ月悩んでいたのだろう。その負担を少しでも軽減出来たのなら何よりだ。どうしてなのかは、よく分からないが。
「一騎君のことお願いね、皆城君。あと、」
穏やかに微笑んだ遠見が、言葉を切って何かを考える素振りを見せる。そしてどうしたのかと首を傾げる僕に、神妙な顔でこう言った。
「まだ言ってないなら、ちゃんと言ってあげてね」
「おかえり、総士。仕事か?」
「いや、昼食だ」
「えっ、出前頼んだのか?」
予想通り不満げな顔をする一騎を宥めてソファに座らせる。尚もぶつぶつと文句を言っている横顔は普段通りに見えるが、心の奥底には先程垣間見えた『何か』が眠っているのだ。それの正体が少しでも分かればもっと建設的な対策が取れるのだが。いっそクロッシングをすれば、などと言う思考が未だに浮かぶ自分が恨めしい。
……解決の糸口なんてとっくに見えている。一言、一騎に問えば良い。「一体何を気にしているのか」と。答えるかどうかは一騎次第だが、こうして手をこまねいているだけより好転の兆しが見えるだろう。
「総士っ」
弾むような声が思考を断ち切る。続きは後で考えようと決めて隣を向くと、目の前に黄色い何かが差し出されていた。状況を把握するべくテーブルへと滑らせた目が削られたオムライスを見つけ、目の前にあるのがスプーンに乗ったオムライスだと理解する。
「……なんだ、これは」
「何って、オムライスだろ?」
「そうではなくて、何故僕にスプーンを差し出している?」
瞬きをすること数回、一騎が何かに気付いた顔をした。
「総士、口開いてくれ」
「口?」
「そう。あーん、って」
「……? あー……」
「ん」
「んむ!?」
言われた通りにしたらスプーンごとオムライスを口に入れられた。驚きながらも反射的に咀嚼する僕を、一騎はにこにこと見守っている。……何がそんなに嬉しいのか。
「うまいか?」
「……ああ」
お前の料理には負けるがな、と付け加えるか迷ったが、余計なことを言うのはやめておいた。
一騎の笑顔が好きだ。見ているこちらの心を照らす、陽だまりのような笑顔が大好きだ。それを翳らせるものはこの手で取り除きたい。
改めて心に決めたところで再びスプーンが差し出される。訳も分からないまま先程のように口を開くと、一騎がまた笑った。
焦っても仕方がない。話を切り出すタイミングはこの後もあるだろう。思考を切り替えた僕は、しばしの間、普通に誕生日を謳歌することにした。
【夜、夢と罪の話】
ベッドに横になった総士が当たり前のように掛け布団をめくって俺を呼ぶから、さすがにちょっとどきどきした。俺の誕生日も総士が泊まっていってくれたから、俺も泊まっていいんだろうなとは思ってたけど。
総士が何をどこまで許してくれるのか、だいたい分かるようになったのはここ二か月くらいのことだ。自惚れてるかなって思うときもあるけど、いざとなったら総士に聞けばいいやって思ったら自然と気にならなくなった。
だから、なんだろうな。あの夢を見るようになったのは。
『一騎』
俺を呼ぶ声が聞こえる。すぐそこに総士がいる、はずなのに。
『……か………き……』
ノイズが声を掻き消す。傍に感じていたぬくもりが消えていく。手の中で、総士が、砕け散って、
「一騎!!」
身体がびくりと跳ねた。心臓がうるさいくらいバクバクと音を立ててる。何が起きたのかも、ここがどこなのかもわからない。おれ、なにして……?
「僕が分かるか、一騎」
こえ。声、が、聞こえる。ずっと聞きたかった、声が。
「……そう、し?」
「ああ、僕だ」
「なんで……おまえが、」
ここにいるんだ、そう言い終わる前に痛いくらい強く抱きしめられた。
……思い出した。総士は帰ってきたんだ。今日は総士の誕生日で、総士がふたりきりで過ごしたいって言ってくれたから、ずっと一緒に居て。それで、そろそろ就寝するぞって総士がベッドに呼んでくれて。
耳元で呼吸が、胸元で心音が――総士がここにいる音が、聞こえてくる。
「……落ち着いたか?」
「ん……」
腕を回して俺も総士を抱きしめる。包まれてるときとはまた違うあたたかさを感じて目が痛くなった。気を抜いたら泣いてしまいそうで、気付かれないように総士の肩に顔を押し付ける。
総士が、ここにいる。俺にとってこれ以上ないくらいのしあわせだ。なのに、息が詰まりそうなくらい胸の奥が痛い。頭の片隅で「忘れるな」って声が響き続けてる。
「一騎」
とん、とん、と背中が叩かれて、優しい声が俺の名前を呼んだ。もっと呼んで欲しい。他の声なんか聞こえなくなるように。
「一騎、話してはくれないか」
「はなす、って……」
「何がお前を追い詰めているのか。お前が……何を怖がっているのか」
……ああ、そっか。この痛いの、恐怖か。名前が付いたら、ざわついてた心がちょっと落ち着いた気がする。
「僕にも背負わせろ、一騎」
「……いいのか。今日、お前の誕生日なのに」
掠れた声で聞いたら、真剣な声で「だからだ」って返された。なんだよ、それ。理由になってないだろ。そう思うけど、総士が「話してくれ」と言うなら断るわけにはいかない。実際、ひとりで抱えてるのはもう限界だった。
「……ゆめ、を、見るんだ」
「どんな夢だ」
「っ………ほっ、きょく、の……」
声が震える。言葉にしようとしただけで一層胸が苦しくなった。何とか話さなきゃって口を動かすけどうまくしゃべれない。
「焦らなくていい。少しずつ、話してくれ」
背中から規則正しい音が聞こえてくる。少し、呼吸が楽になった。
「………おまえが、いなくなる、夢をみるんだ。何度も何度も……助けたはずのおまえが、手の中で、砕けて……っ」
「僕はここにいる。悪夢に怯える必要はない」
「わ…、わかっ、てる」
総士は約束を守ってくれた。ちゃんと帰ってきてくれた。だから、この夢は。
「ばつ、なんだ」
「罰……?」
「お前を、守れなかった罰だ」
過去はなかったことにはならない。あの日の罪は決して消えることはない。
「俺が、もっと早く助けに行ってたら……そもそも、お前を奪われたりしなければ……っ」
総士を苦しめることはなかったのに―――
「……気掛かりはそれか」
身体がぐいっと引っ張られた。え、と思ってる間に抱き起されて、瞬いた目に光が刺さる。反射的にぎゅっと目を閉じたから、頬に触れた手がいつもよりしっかり感じられた。
「そのままでいいから聞いてくれ。お前がそんな夢を見るのは、罰でも何でもない。お前が、自分を責めているだけだ」
「そんな、こと、」
「誰もお前を責めてなどいない。そんな人間がいるなら、僕が許さない」
総士の声が怒ってるように聞こえて慌てて目を開ける。見えた総士の顔はどっちかというと……悲しそうだった。
「お前を責めているのはお前だけだ、一騎」
「だって俺が……っ」
涙が溢れてくる。さっきは我慢できたのにだめだった。泣いたってどうにもならないのに。総士に迷惑をかけるだけなのに。泣き止まなきゃって思えば思うほど溢れてくる。どうしよう。せっかく、大切な日に総士が一緒にいたいって言ってくれたのに、こんなことで困らせるなんて。
焦れば焦るほど堂々巡りになって何も言えなくなる。しばらく俺をじっと見てた総士が、はあ、とため息を吐いた。びくっと肩が跳ねて、総士から逃げるように目を閉じる。
総士に、嫌われ―――
「……お前がいなければ、僕は今ここにいない」
静かな声が思ってもみなかったことを言った。総士との間にあった少しの距離がなくなって、大好きなぬくもりをすぐそばに感じる。また、抱きしめてくれてる。
「僕の帰る場所を守ってくれたこともそうだが、それ以前に、お前が僕を僕にしなければ、『皆城総士』はとっくにいなくなっていた」
「それ、って……」
確か、マークザインにはじめて乗った日に小さい頃の総士が言ってた……?
「北極のことを気にするなとは言わない。言っても無駄だろうからな。だが、その穴を埋めて余りある程に、お前は僕にとって大事な存在であるということを忘れるな」
「……っ」
止まりかけていた涙が再び溢れてくる。でも、さっきまでとは全然違う、あったかい涙だ。
ちゃんとわかってた。俺が総士を大事に想ってるように、総士も俺を想ってくれてるって。わかってても、改めて言われると言葉に出来ないくらい嬉しくて。心の中でぐるぐるしてた悲しみとか、後悔とか、恐怖とか。そういうの全部、塗りつぶされた。
ああ。総士はすごいな。
「……あ、りが…と……ありがとう、総士……っ」
縋るように抱きしめ返したら、呆れたように「それは僕の台詞だ」って笑われた。
***
そうだ。真壁一騎がいなければ、皆城総士はこの世にいない。ならば、本当の意味で僕が生まれたのは、一騎が傷をくれたあの日なのかもしれないな。
「生まれてきてくれて、ありがとう、一騎」
「それこそ、俺の台詞だろ。生まれてきてくれてありがとう、総士」
やっと泣き止んだ一騎が、花が咲くような笑みを浮かべる。僕にとって、生きてきた中で一番嬉しい、なにものにも代えがたい贈り物だった。