約束ひとつ、召し上がれ 一騎がうちに来なくなった。四年生の夏が終わった頃から少しずつ回数が減ってたけど、六年生になってからは週に一回来るかどうかだ。真壁のおじさん、家から出られないくらい忙しくなったのかな。料理はそんなに得意じゃないって前に言ってたし、一騎もおじさんもちゃんとご飯食べてるのか不安だ。
食べに来れないなら、作って届ければいい。注文は学校で聞いて、帰りに一騎といっしょにうちに寄ればふたり分だってなんとかなる。……父さんは真壁のおじさんのこと好きじゃないみたいだから、いい顔しないかもしれないけど。おれががんばればいいだけだし。
明日になったらさっそく一騎に話してみよう。一騎はいつもうちの料理を美味しそうに食べてたから、きっと喜んでくれる。
「一騎、最近うちに来ないよな」
放課後。いつものようにひとりでさっさと帰ろうとした一騎をつかまえてそう切り出すと、普段は少し前の地面に落ちてる視線が珍しくおれの方を向いた。
「おじさん、そんなに忙しいのか? 食べにくるの大変なら、家まで持ってくぞ」
「………」
一騎が足を止めた。一歩遅れておれも止まる。振り返ると、さっきおれの方を向いてた視線はまた地面に取られてた。
「一騎?」
どうしたんだろう。何かまずいことでも言ったかな。変なこと言ったつもりはないんだけど。気になってそわそわするけど、言葉を急かすのはいやだから首を傾げたまま答えるのを待つ。
五分くらいそうしてたかな。ぎゅっとランドセルの肩ベルトをぎゅっと握りしめた一騎が口を開いた。
「ごはん、おれが作ってるんだ」
「……一騎が?」
思ってもいなかった答えに思わず聞き返してしまう。少し間をおいて、躊躇いがちな頷きが返ってくる。
「父さん、家に帰ってくるのが遅くなることが多くて。だったら、帰ってきたときにごはん出来てた方がいいかなって。……他に、やることもないし」
そういえば、あの夏のあと一騎はみんなと遊ばなくなったな。何かあったのか聞きたかったけど、なんとなく話題を出そうにもきっかけが見つけられなくて、いつの間にか二年近く経ってた。
「……そっか」
一騎を見ていられなくて真似するように視線を地面に落っことす。次になんて言えばいいのかすぐには出てこなかった。ひとりで勝手に盛り上がってたのが恥ずかしくて、それ以上に一騎のことを案外知らないことが、かなしかった。
「一騎はすごいな。怪我とかしないように気をつけろよ」
溢れそうになる感情たちを箱にしまって胸の奥に沈める。この手のものは見なかったフリをするのが一番だ。
一騎を見てぱっと笑顔を浮かべれば、そろそろと顔を上げた一騎がほっと息を吐いた。安心した顔だ。おれの話を断ったから気まずくなってたんだろうな。気にすることないのに。優しいヤツだ。
「……あのさ、甲洋」
「うん?」
まだちょっと言いにくそうな顔をしてるから意識して柔らかい声を出す。心なしか、一騎の表情が和らいだ気がした。
「うまく作れるようになったら、うちに呼んでいいか?」
「えっ?」
「おまえにも食べて欲しいから。……だめか?」
「っ、そんなことない!」
むしろ、おれでいいのかと聞き返したいくらいだ。うれしくて頬がゆるむのが自分でもわかる。奥底に沈めた感情のことなんか、どっかへ飛んでいってしまった。
「楽しみにしてる」
「ありがと。がんばるよ」
一騎がふわりと笑う。その笑みが眩しいと感じるのは、夕陽に照らされているからというだけではない。
こんな風に笑う一騎を見るのは、ひどく久しぶりだった。
***
それから季節が二巡りした。とは言っても、通う校舎が変わったくらいで、特に代り映えのない毎日が続いている。習慣みたいなものは増えたけど。
最後の女子に断りを入れて玄関で靴を履き替えたところで、校門の近くの壁に寄りかかってる一騎を見つけた。何してるんだ、あんなところで。
「一騎!」
駆け寄りながら名前を呼ぶと空を見上げていた一騎がこっちを向く。いつも通り反応が薄いけど、俺を見つけたとき少しほっとしたように見えた。自惚れ過ぎかな。
「どうしたんだ?」
「お前のこと待ってた」
「え?」
なんで、と聞く前に一騎は俺の手を引いて歩きだした。ついて来い、ってことでいいのかな。
「どこ行くんだ?」
「うち」
隣に向かって投げかけた質問に対する簡潔な答えにどきっとした。二年前の約束が脳裏を過ぎる。
あれから一騎がうちに来る頻度は更に下がった。自然と顔を合わせる機会は減ったけど、その分学校の行き帰りは出来る限り一緒にしていた。一騎の、提案で。どうしてか他人を避けるようになった一騎が、俺にはそれなりに心を許してくれている気がして嬉しかった。
……期待、していいのかな。一騎もあの約束を覚えてるって。うちに来なくなったのは、練習してたからだって。
「今日の授業でわからないところでもあったか?」
声が上擦らないように気を付けながらわざと見当違いなことを言うと、相変わらず俺の手を離さない一騎がこっちを向いた。うわ、呆れた顔してる。一騎のこんな顔はなかなか珍しい。
「……約束、しただろ。飯食わせるって」
ぎゅ、っと掴む手に力が込められた。手首掴むのはやめてほしいな。俺だって一騎の手を握りたい。
「覚えてたんだ」
「俺が言ったことだから。そのために、ずっと頑張ってたし」
こいつはどうして、そういうことをさらっと言えるんだ。
「……ありがとな、一騎」
「? まだ食べてないだろ」
「ははっ。うん、そうだな」
約束のために頑張ってくれてたことが嬉しいんだって言いたかったけど、俺は一騎ほど真っ直ぐは伝えられないから。精一杯の言葉を返して、身を委ねることにした。
さすがにただ待っているのは申し訳なくて手伝おうかと言ったけど、あっさり断られてしまった。
一騎の家についてからもうすぐ二十分。その間ずっと、居間に座ってじっと台所から聞こえてくる音に耳を傾けていた。野菜を切ってるんだな、とか、肉を炒めてるんだな、とか、何となくわかる。いいな、これ。腹の虫を突く匂いも合わせて何が作られているのか考えるのって、こんなにわくわくするのか。知らなかった。家で食べるのは基本店の余り物だから、作ってるとこに居合わせることがないんだよな。
「お待たせ」
沈みそうになった思考が穏やかな声に掬い上げられる。いつの間にか俯いていた顔をあげるのと、俺の前に皿が置かれるのはほぼ同時だった。目で確認するより前に美味そうな匂いが鼻をくすぐる。
個性的な皿の上で湯気を立ち昇らせるのは、デミグラスのハンバーグだった。俺が何かを言う前に腹の虫がぐぅと主張する。昼飯、ちゃんと食べたんだけどな。
「熱いから、気をつけろよ」
「うん」
見た目の感想もろくに言えないまま、腹の虫に急かされて手にした箸でハンバーグを真ん中から割る。途端に湯気と肉汁が溢れてきて言葉を失った。作り立ての料理ってすごいな。
感動してるともうひとつ皿が置かれた。今度の中身は白米だ。好待遇にもほどがあるだろ。
「……あ。こんな食ったら、夕飯入らなくなるか」
一騎の表情が翳る。残念そうな顔を見るに、少なからず一騎も俺に食べさせるのを楽しみにしてくれてたんだなって嬉しくなった。
「もらうよ。夕飯食べなきゃいいんだし」
「え、でも……」
「いいんだって。それにしても、なんでここまでしてくれるんだ?」
まだ眉根を寄せてる一騎の気をそらすために話題を変える。実際、気になってたことだし。
他人と一定の距離を取るようになった一騎が自分から近づいてきてくれる。そこに理由があるなら知りたい。
俺の疑問を受け取った一騎は、きょとんとした顔でぱちぱちと瞬きをした。こんなこと聞かれるなんて思ってなかったんだろうな。俺もきこう
「……お返し、かな。お前に出してもらう飯、好きだから」
「あれは俺が作ってるわけじゃないよ」
「でも、持ってきてくれるのはいつも甲洋だ。召し上がれって言ってくれるのも」
それは、一騎が嬉しそうに「いただきます」って言ってくれるからだ。その笑顔を見るのが好きで、一騎たちが頼んだ料理ができあがるのをそわそわしながら待ってた。
俺が自分のためにやってたことだ。それを好きだと言ってもらえるなんて、都合のいい夢でも見てるんじゃないかと思えてくる。
「だから、俺も言いたかったんだ」
ふわりと一騎が笑う。約束を交わしたあの日と同じ、眩しい笑顔で。
「召し上がれ」
胸の奥がじんわりとあたたかくなる。いつも何気なく使ってるけど、一度も向けられたことのなかった言葉。それを他でもない一騎からもらえたことが嬉しかった。―――泣きたくなるくらいに。
「……いただきます」
俺も料理をやってみようかな。いっそ一騎に教えてもらうのも悪くないかもしれない。あとで頼んでみよう。そんなことを考えながら、俺だけのために作られたハンバーグをそっと口に入れた。