【再掲】 「おかえり」が待ってる夏のインハイから暫く経ち、夏休みも終盤を迎えた頃。
桜木の見舞いへ行った帰りに原付を押す水戸と二人で海沿いを歩きながら駅に向かっていると突然水戸は歩みを止め、夕日が沈む海を寂しそうに見つめながらヒグラシの鳴き声に搔き消されそうなほど弱々しい声で
「オレにもいつかは夢中になれるもんがあると良いな」
と言ったのでオレはてっきり渾身のギャグかと思った。
何故なら水戸は大のバイク好きで、毎月必ず決まったバイク雑誌を買うし、部屋には憧れのバイクのポスターが何枚も貼られているし、棚には同じバイクの模型が飾られているし、歳を詐称してまでバイトに明け暮れるのも教習所へ通う金とずっと憧れていたバイクを買う為だ、と以前から本人が熱く語っていたほどだ。
更に水戸は音だけでどこのメーカーなのか分かるらしく、背後からエンジン音が聞こえようものなら音に集中しようと目を閉じ、耳を澄ませ、得意気にある一社の名を口にし、正解を確認するとオレにウィンクした。
ここだけの話、オレには正解も不正解も判断出来るほどバイクの知識が無かったので水戸がウィンクをするか、悔しそうに眉を顰めるかで見分けるしかなかった。
しかも、水戸はよくエンジン音を口で物真似をしては同じバイク好きの野間と二人でゲラゲラと笑っていた。
ある時なんてメーカー名をエンジン音っぽく言っただけなのに野間はひいひいと笑い転げ、涙を流していた。
それほど常日頃からバイク漬けな奴がバスケに夢中なオレや桜木に比べると自分には何も無い、と言うように物悲しい演出をされれば誰だってギャグと思うはず。
その前日もたまたま前を通ったコンビニに停められていたバイクが水戸の憧れているものだったので水戸は気付くなりかっけえと連呼し、右から眺め、左から眺め、後ろから眺め、正面から眺め、を繰り返していた。
そうしていると買い物を終えた持ち主の男性が現れ、水戸がバイク好きだと察すると気前良く「乗ってみるか」と提案してくれたものだから水戸は狂喜乱舞した。
普段は無免許な上にヘアスタイルが崩れるから嫌だ、と頑なにヘルメットを被らないあの水戸がただバイクに跨るだけなのにいとも容易くヘルメットを被る姿にオレは笑うしかなかったし、笑ってばかりいるオレに記念撮影がしたいからコンビニで使い捨てカメラを買って来てくれと真剣に頼む姿にもまた大いに笑った。
といったバイク好きならではのエピソードを豊富に持つ水戸が何を思ってあんなことを言ったのかは不明だが、オレは確かにあいつのバイク好きを理解していた。
だからその水戸がようやくバイクの免許を取得出来るようになった頃、しっかりと事前にオレへ教習所へ通うという報告をしてくれたことを驚く理由はなかった。
だがしかし、それを快く承諾するかどうかは別となる。
正直な話、水戸から報告された時はついにきたか…と思い、オレも覚悟を決めるまでに相当な勇気が要った。
恋人がバイクの免許を取ります、移動手段がバイクになります、となれば事故のリスクを考えるのは当然だ。
ただそれだけならまだしも、オレにはもう一つ水戸がバイクを生活の一部とすることに対して心配があった。
ずばり、それはあいつの魅力が増大してしまうことだ。
突っ立ってるだけでもカッコイイのに、バイクになんて乗ってしまったら更にカッコよくなるに決まってる。
所謂ゲレンデマジックというやつか、オレなんてエンジンもかかってない他人のバイクに跨ってはしゃいでいる水戸の姿に大笑いしながらもときめいたくらいだ。
とは言えモテてしまうから嫌だ、と水戸の夢中になれるものを奪うような真似なんて絶対にしたくなかった。
事故のリスクだって免許を取る報告をすると同時にバイクへ乗れるようになったとしてもこの先一生オレを後ろに乗せることはない、と宣言したあいつが一番理解しているだろうからオレに出来たのは断腸の思いで
「気を付けろよ」
と言うのがやっとだったが、たったその一言に喜ぶ水戸の姿を見てオレの選択は正しいと信じることにした。
オレの選択は正しかった、と確信したのは水戸が無事に教習所を卒業し、ようやく手に入れた自分の愛車に乗って初めてツーリングへ出かけてから数日後のこと。
よほど嬉しかったらしい水戸は普段じゃ絶対そんなことしないのに使い捨てカメラで途中のSAや目的地の海を背景に下手くそな自撮り写真を大量に撮っていた。
現像されたそれらの殆どがブレていたり、被写体からレンズがズレていたり、水戸の目が半開きだったりと面白いものばかりだったが、一枚一枚テーブルに並べては嬉しそうに笑う水戸の姿にオレの心も満たされた。
特に現地で自撮りに苦戦していた水戸を見かねた他のライダーによってバイクと共に撮影された数枚は思わずオレの胸元に仕舞ってしまうほどの出来栄えだった。
だから十八歳を目前にした水戸がついに最終目標の大型免許を取ると報告した時、オレは以前と同じように
「気を付けろよ」
の一言だけで済まし、自分の抱える心配は隠し通した。
「オレにもいつかは夢中になれるもんがあると良いな」
というトンデモ発言から十年が経過した今、水戸は「趣味は」と聞かれると「バイク」と即答するようになった。
すっかり大型バイクがサマになり、休日にマンションの駐車場で手入れをする姿ですらオレは惚れ惚れする。
幸いにも未だ事故を起こすことも事故に巻き込まれることもなく、休日にツーリングへ出かけては必ず朝と変わりない元気な姿でただいま、と帰ってきてくれる。
そんな平穏な日々を十年も過ごしていたのに、ついにオレの心配が現実のものとなる事件が起きてしまった。
なんと、ツーリング先で水戸が女性にモテてしまった。
ある日のツーリング帰り、普段と違ってくたびれた様子でただいまを言った水戸はオレの胸に顔を埋め、休憩で寄ったSAで女性ライダーから声をかけられ「良ければ一緒に」と執拗に迫られたという愚痴を零した。
聞けばそれが初めてではなかったようで「断るのが面倒なんだよな」とも愚痴る水戸にオレは密かにキレた。
オレは水戸の無事を心配して帰宅を待っていたのに、オレの知らない場所でモテる奴にはお仕置きが必要だ。
そう決めて以来、オレは水戸がツーリングの予定を立てる度に出発前日の晩に熱烈なお誘いをすることにした。
この効果は絶大で、オレが「今夜は好きにして良いぞ」と言うだけで水戸は面白いほど罠にかかり、翌日に必要となる体力のことなんて忘れて一晩中夢中になった。
当然その相手をするオレの体力も気力もあれやそれらも全て奪い取られるのだが、出発の予定時刻が迫ってもオレから離れず「やっぱり今日はやめた」と大好きなバイクよりもオレを選ぶ醍醐味は何物にも代え難い。
勝敗は十戦十勝。百戦錬磨を名乗るのもそう遠くない。
なんて考えていたのに記念すべき十勝目の今日、普段よりも遅く目覚めたオレはいつもならまだ眠っているはずの水戸が隣で頬杖をつき、オレの寝顔を眺めていたであろう穏やかな表情に愛情よりも違和感を覚えた。
時計はとっくに昼過ぎを示し、オレも水戸も裸のまま。
「ええっと…今日のツーリングは中止にしたのか」
こんな時間に家に居るのだから聞くまでもないと分かっていても聞かずにはいられず、気味が悪いくらい穏やかな表情でオレを見つめる水戸にそう尋ねてみた。
昨晩の水戸は明日は快晴だ、と久しぶりのツーリングに向けてはしゃいでいたのにどういう心の変化だろう。
そのはしゃぎようにムキになって今回も絶対に阻止してやると捨て身で挑んだのは誰でもなくオレ自身なのに、どうにも釈然としないこの違和感の正体は何だ
「中止も何も、こんな天気で出かけるわけないじゃん」
「はえいやいやだってお前、昨日は快晴って…」
水戸の言葉で初めて窓の向こうから響く酷い雨風の音に気付き、それと同時に騙されたことも気付かされた。
「最近誰かさんがはりきってオレのツーリングを阻止してくれるからさ、オレも期待に応えてあげたくてね」
それともう一つ、悪巧みなんてするもんじゃないという大事なことを水戸はとことん体に教え込んでくれた。