「顎を上げさせる」「王子様!」
自分の遥か下、地面に近い足元からそう声をかけられ、アキレウスは視線を下げた。見下ろした先にはナーサリー・ライムとジャックがにこにこと満面の笑みを浮かべ、アキレウスを見上げていた。
「王子様って……もしかして、俺のことか?」
「そうよ、王子様!今この場には、私たちとあなたしかいないもの、私たちが王子様でなければ必然的に貴方が王子様だわ!」
何が楽しいのか、二人できゃっきゃっと声をあげる姿は、おおよそ戦場など知らない可憐な少女そのものだった。
生前の身分は呼ばれた通り王子といわれればそうであったが、戦争中は王子だとかそうではないとか、それどころの話ではなかった。ついぞ呼ばれることがなかった"王子様"という呼応にいくらか気分がよくなったアキレウスは、その少女たちと視線を合わせるようその場へとしゃがみこんだ。
「んで?お嬢さんたちは王子様に何かご用でも?」
「えぇ、もちろん!私たち王子様にお願いを叶えて貰いにきたの!」
屈託のない笑みを浮かべそう答える二人に、アキレウスは口の片隅をあげ、ぎこちない笑みを浮かべた。
この二人の中ではすでに王子様が願いを叶えることになっている。突きつけられたそら恐ろしい事実に、王子と呼ばれ浮わついた気分がすっかりと冷めていくのをアキレウスは感じていた。今更ながら"王子様"の問いかけに反応してしまった自分を後悔したが、全ては後の祭りのように思えた。
そこはかとなく厄介事を負わされそうな雰囲気に、アキレウスはそれ以上のことを促さず口を閉ざした。そのことに痺れを切らせたのか、ナーサリーが矢継ぎ早に"お願い"を口に出した。
「私たち、王子様がキスするところを見たいの!」
止める間もなく発せられた予想通りの厄介事に、アキレウスは返事もせずがっくりと肩を落とし項垂れた。願いを聞いてしまった以上、再びきゃあきゃあとはしゃぎ出した二人を前にして、やっぱりなしで、とはさすがのアキレウスも言い出すことが出来なかった。
キスは、決して一人ではできない。必ず相手が必要になる。ということは、もう一人この厄介事に巻き込まねばならないということになる。彼女たちの前で行うということですらハードルが高いというのに、この厄介を引き受けてくれる心の広い、自分とキスをしてくれる相手を探さなければならない事実にアキレウスはついと意識を遠方に飛ばした。
――そんなやつ、いるか……?
思い当たる女性は、皆が皆英霊というだけあってアキレウスがキスをさせてくれと頼んだところで簡単には許可を出すようには思えなかった。項垂れたままうんうんと唸りだしたアキレウスにナーサリーとジャックは心配そうに声をかけた。
「やっぱり、だめなのかしら……」
「王子様なのにキスする相手いないんだねー」
「だめよジャック、そんなことをいっては。お姫様が恥ずかしがっているだけなのよきっと」
真上で繰り広げられる自分を煽るような会話に、アキレウスも意地になって相手を探し出そうと頭を捻っていると、少女たちの声とは違う、よく聞き及んだ野太い男の声が響いた。
「おや、アキレウス君が子供いじめてる」
その声に顔をあげると、悪戯っぽくにやけているヘクトールの顔が見下すようにこちらを見ていた。
「いじめてねぇよむしろ俺がいじめられ……」
そこまでいって、アキレウスは何かに気づいたようにはたと言葉を止めた。しゃがみこんだ体勢のまままじまじとヘクトールの顔を見上げ、そのあと視線を少女たちへと戻した。
「な、お前ら、相手はだれでもいいのか」
「なるべくであればお姫様がいいのだけれど……」
「んー……、ま、姫みたいなもんだろ。王族だし」
「え、なんの話?」
とぼけた顔のまま立ち尽くすヘクトールを後目に、アキレウスは立ち上がると素早くその腰に片手を回した。
「見てろよ。お望みのキスだ」
「きっ……はぁっ!? こら、やめろっ!」
腕の中で暴れるヘクトールを押さえつけ、空いている片手を山羊髭の生える顎に添えると軽く持ち上げる。
ひび割れもささくれもなく、つるりとしたヘクトールの唇めがけ、アキレウスは自分の唇を寄せた。
「ーーーー!」
必死に頭をふり逃れようとするヘクトールの顎を手で挟むように掴み直すと、これ以上暴れぬよう力を入れる。走った痛みに臆したのか、ヘクトールの抵抗はそれ以降凪が来たようにぴたりと止んだ。アキレウスはそのまま差し入れようと口を開きかけ、その動きを止めた。普段の癖で貪ってしまえば、花が綻んだように乱れるヘクトールが子供たちの前に晒されてしまう。年齢指定も斯くやといったその姿を子供たちに見せるわけにはいかなかった。
「まぁっ、なんて情熱的なの! こんなキスどの絵本でも見たことないわ!」
「ナーサリー、槍のおじさんのお顔がどんどん青くなっていくよ! キスって大変なんだね!」 嬉しそうに騒ぐ観客が満足したのを見計らい、アキレウスは触れていた唇を離した。接吻の間中息を止めていたのか、ジャックが言うように酸欠で青ざめた顔をしているヘクトールを支えるようにきつく抱き締め直し、子供たちに視線を向ける。
「ほれ、これで満足だろ」
「えぇ、えぇ! ありがとう王子様! とても素敵だったわ! 機会があればまた拝見させていただいてもいいかしら?」
「おじさんの青い顔、珍しいからもっとみたーい!」
「あー……また今度な?」
アキレウスがいたずらっぽくウインクまでして見せると、子供たちはまるで共通の秘密が出来たかのようにはしゃぎ、今度ね、約束よ、と言いながらその場を去っていった。
「オジサン許可してないんだけど」
腕の中で息も絶え絶えになっていたはずのヘクトールはすでに回復したらしく、恨みがましくアキレウスを睨み付けていた。
「まぁいいだろ、減るもんじゃなし」
「減る! オジサンの何かが確実に減っていってる!」
ヘクトールはいまだにアキレウスの腕の中に収まっていた。逃げ出す素振りすら見せないのは、腰に巻き付いている腕がそれを許さないほど力が込められているからだろう。せめてもの仕返しとばかりに握った拳でアキレウスの胸をぽこぽこと叩くことしかできないようだった。
「何が減るんだよ」
「うーん……オジサンの神経?」
「ちょっとくらい減った方がいいんじゃねぇのか?アンタは物事難しく考えすぎなんだって」
そういいながらアキレウスはヘクトールの腰に両腕を回し、力を入れるとその屈強なる戦士としての肉体を軽々持ち上げた。突然の浮遊感に思わずアキレウスの首へと腕を回ししがみついたヘクトールは、そのまま歩き出したアキレウスへ疑義を投げるため口を開いた。
「……あの、アキレウスさん? どちらにいかれるおつもりで?」
「ん? 俺の部屋」
「……すいませーん、ここに誘拐犯がいまーす」
「いいオッサンが誘拐も何もないと思いまーす」
「クソっ、離せクソガキっ、俺は部屋に帰る!」
「誰が離すか、折角王子様が接吻までしたんだ、お城に持って帰るのが筋書きだろ」
「そらお姫様の話だろ!俺はオジサンだ!」
「俺にとっちゃオッサンも姫も変わんねぇって」
カルデア内の廊下には、はなせー、という野太い声が響いていたが、残念ながらその声に気付くものは誰もいなかった。