昼寝するフィガロ先生の話『10時』
死ぬなら、こんな天気の良い日がいいと思った。
昼まで眠るつもりでいたのだが、予定より些か早い起床はいつも通りミチルの所業だ。授業は午後からだと前日に伝えているのにどうして起こしたのか訊いたところ、「一緒に朝ご飯を食べましょう。今朝はフィガロ先生の好きな焼き鮭なんですよ」と返答された。それはフィガロをその気にさせるには十分な誘い文句で、可愛い教え子の願いを叶えてやるのもやぶさかでは無い気持ちにさせられる。
そうしてルチルやレノックスらと顔を合わせて朝食を摂ったは良いけれど、明け方まで起きていたのがたたっていた。だが、再びベッドに戻るのも違うような気がして、ふらふらと中庭に出て来たら予想外に誰の存在も無かった。いつもだったらシノやカインが自主的に鍛錬に励んでいたり、ミチルやリケがお菓子を摘まみながら語らっていたりするというのに。
まるで夜に訪れる時のように静かな中庭で、夜だったら聴く事の出来ない鳥の声を聴いた。太陽の光を受けてキラキラと弾ける噴水の水滴や、鮮やかな彩色をした花壇の花を眺める。それからどこから吹いてくるのか知らない風を頬に感じて、揺れる木々を見上げた。すると突き抜けるような蒼穹があまりに澄み切っていて目に滲みた。それらはあまりに長閑で、時間の流れがゆっくりしている。
予定はその瞬間に決まった。日差しを遮ってくれる木陰に移動し、幹に凭れかかるように座り込んだ。手をついた芝生の感触は土が軟らかくて草が少し硬い。この感覚は南の国と少し似ていると思う。昼寝と呼ぶには早すぎる時間帯だが、本格的に活動を始める前の休憩だと言い訳をして瞼を下ろした。
外で眠る事に慣れたのは南の国に来て百年程経った頃だっただろうか。北の魔法使いは外で昼寝が出来ない。北の国の寒さが原因の一因だが、何より他人に無防備な姿を晒す事は死に直結するからだ。どうしても眠りたいのなら幾重にも結界や罠を張り巡らす必要がある。だが、その必要が無い事を知ってしまった。当然無意識下であっても危機意識はあるし、罠など張らずとも近くに他人が近寄れば目が覚めるのだが。
眠りに落ちるのに、そんなに時間はかからなかっただろう。起こされた瞬間から続いていた眠気は倦怠感と混ざり合って、フィガロを夢の中に連れ去った。昼食の時間になればミチルかルチルが起こしに来るだろう。だからそれまでは。
再びフィガロの目を開かせたのは、ルチルとミチルでもレノックスでも、北の魔法使い達の喧嘩などでも無かった。
誰からも声をかけられる事なく、ただ時間の経過によって目を覚ましたフィガロは「んん……」と首を動かしながら喉を鳴らす。そうして右側を向いた時、予想もしなかった状況に一気に覚醒した。
「ファウスト……いつの間にいたの? 起こしてくれても良かったのに……」
「気持ちよさそうに寝てたから。それに今朝もミチルに起こされたんだろう?」
眠っている間に他人が傍に近寄って気付かないなんてフィガロにとっては未曾有の出来事だったのだが、意識して顔に出さないようにした。青天の霹靂に違い無かったが、それに他の面々ならともかく相手はファウストなのだ。眠りから覚めて一番に顔を見た回数は少なく無い。いつの間にかファウストの魔力に慣れ過ぎてしまったのかもしれない。このひとは安心出来るのだと体が認識してしまっている。
ファウストは膝に図書館から持ち出したらしい魔法生物の図鑑を広げていた。普段は図書館で調べ物をしているのに日中の中庭に出るのは珍しい。
「君もまだ眠いんじゃない? ほら、隈を作ってる」
「この程度、サングラスで分からないよ。あなたくらい近くに来なければ」
ブラウンの色がかかったレンズ越しに見つめ合い、目の下に指を這わせるがファウストは抵抗しなかった。どことなくいつもより雰囲気が柔らかいのは、やはり眠いからだろう。それなのに眠気を我慢して勉強とは彼らしい。
まるで情事の後のような、蜂蜜のような甘ったるさを感じ取って慌てて手を引いた。引き摺っているのかもしれない。昨夜は長く抱き合い過ぎた自覚が大いに有るから。ここは誰が通りかかるか分からない中庭で、時間帯は昼前。時と場所が適切であれば、このままベッドに連れ帰ったのにと考えてしまう。
「ファウストがそんなんじゃバレバレだよ。関係隠したいんじゃなかった?」
未成年者に変な影響が出るといけないとか、共同生活がし辛いとか、色々と理由はあったと思う。フィガロは正直どちらでも構わなかったが、ファウストが本当に嫌がる事はしたくない。だが、言い出したファウストの方が垂れ流している状態に苦笑いした。今のふわふわした様子も可愛く思えて、指摘するのが残念なくらいだけれども。
「……別にいいよ」
「あれ、気持ちの変化? それともシノやヒースに何か言われた?」
「違う。さっき眠っているおまえを見つけた時に、もういいかと思ったんだ。見なかった振りをして通り過ぎる事も出来たけれど、隣に座りたいと思った気持ちを優先した。近付いても起きないし、珍しく無防備だったから、少しの間見守っていた方が良いと思って」
「そう……」と応えながら、ファウストの顔を見ていられなくて思わず下を向いた。彼の生まれついての眩しさは昔と何も変わってはいない。なんでも直球でぶつけてくるから、いつもは雄弁な舌も回らなくなる。
「もう一眠りする?」
「いや、君とその本を見るよ。俺が知っている事なら本に載って無い事も追加で教えてあげる」
そう申し出るとファウストは嬉しそうに目を輝かせた。あの頃のように大判の図鑑を寄せてきて一緒に覗き込むと、懐かしさとくすぐったさに頬が緩む。昼食が出来上がるまでの短い間だけれど、宝物みたいに大切に思えた。
なんて良い日なのだろう。こんな日に死ねたらきっと穏やかに逝ける。選べるのならこんな日を選びたいと思うのに……真逆の日に死ぬのでも良いから、もう少しだけと願ってしまうのは隣にある体温のせいだ。
ふいにファウストを抱き寄せて、死にたくない、と声には出さずに肩口に顔を押しつけた。