蛇足…不快な場所だ。といつも思う。狭く陽の光が入らない通路、何重にも重なり絡まり垂れ下がっている、秩序を失った送電ケーブル。常にどこからか水音がしていて、据えた匂いが鼻を刺激する。
だが、何より不快なのはそこら中から感じるじっとりとした視線だ。1人や2人ではない。締め切られた扉、割られた窓の隙間、至る所から。それも、殺気を孕んだものが俺の頭から脚の先までを常に這い回っている。その原因は俺にあるのは確かだが。仕立てのいいスーツやコート、一目で金を持ってると判る身なりで歩いているのだ。そんな格好の標的がただ「見られる」だけで済んでいるのは「奴」の客人であるからに他らならない。
ここはその牙城の中心部なのだから。
「お待ちしておりました。ブラッドビームス様。」
湿った不潔な通路の最奥。傾いた扉の前にはこの場所全てに不釣り合いなほど清潔に着飾った男が深々と頭を下げる。開かれた入り口を通れば、その外側からは想像を出来ないほど広く、豪奢な朱の細工に飾り上げられた大広間が姿を現した。曇り一つないほどに磨き上げられた円卓がいくつも据えられているがその席には誰も座っていない。ただ一つ、広間の中心に据えられた円卓に脚を乗せてニヤついている無作法者を除いては。
「よぉ。」
「…テーブルに脚を乗せるな、無作法にも程がある。」
手に持っていた重厚なジェラルミンケースをガン!と音を立てて円卓に乗せ、力任せに卓を回すと載せていた脚を掬われたソイツはバランスを崩して悲鳴を上げた。
「おぁっ?!…ったく…危ねぇなぁ…人がテーブルに脚を乗せてる時は勝手に回すなって習わなかったのかよ。」
ニヤニヤと不愉快な笑みを唇の端に浮かべた顔は、相変わらず真意が読めない。人を揶揄うような口調に、色の濃いサングラスと癖毛が上手く覆い隠している。
キース・マックス。先程の無数の不快な視線の送り主達が畏怖する、この区域の頭領がこの男だ。
キースは手元に回ってきたケースを愛おしそうに撫でたあと、少しだけ中を覗いて「うへぇ…。」と声を漏らした。
「…アンタもモノ好きだよなぁ。あんなモンにこんなに金払えるもんかね…。」
「貴様がしている商売だろう。…それに」
「ぁあ。まぁ、分かってるって。…停戦交渉、ねぇ…」
アイツら面倒くせぇんだよなぁ、と言いながら手にした煙草に火をつける。ゆっくりと煙を吐き出す仕草は何処か甘く映り、俺の目を引きつけた。
「…この周辺一帯の連中でまともに話が出来るのはお前だけだ。力で潰し合った所で互いに利は残らない上、効率が悪い。」
「何度も聞いたけどなー…気が乗らねぇっつーか。」
「…協力するなら、お前の条件は全て受け入れる。」
「………へぇ。」
俺の申し出にキースの目が値踏みをするように細められたのが分かった。これは交渉ではなく「売り込み」だ。
少しの沈黙の後「よし。」と短く呟いてから、キースは先程扉の前で俺を迎えた部下に手の動きだけで指示を出し、俺の方へ向き直った。
「…なんだ。」
「…賭けをしようぜ?アンタが勝ったら、オレは首を縦に振る。」
「負けたら?」
そう聞き返すと、キースは首をすくめて扉の方を掌で指し示し「お帰りを。」と仕草で答えた。
「…方法は?」
俺がそう問うと同時に、カチャカチャと音を立て円卓に茶器が運ばれて来た。俺とキースだけが座る円卓に8つ。揃いの陶器の茶碗が並べられていく。そして、白く美しい茶碗に美しい琥珀色が注がれ、甘く柔らかな蘭の香りが広がった。
「…大紅袍。」
流石だな、分かるのか。と愉快そうに笑うキースの手の中には二つ、薬包があった。それは適当に回された円卓に乗せられた8つの茶碗のうち2つに入れられる。そして再び回された円卓によって、その位置は不確かになった。
「…今、オレはこの中に「2つ」入れた。あとは当たりか、はずれか。シンプルだろ?」
そう言ってまた口の端を上げて見せるキースは、纏う龍よりも蛇に見えた。狡猾さと、底の見えない余裕の片鱗をチロチロと舌のように器用に出し入れしている、そんな男だ。
……だから、手に入れたい。
「理解した、ならば俺から取ろう。」
俺は自分の目の前にある白い茶碗を一つ手に取った。
「……ほんと、その度胸には平伏しちまうよ。」
あまりに早い俺の選択に一瞬目を瞬かせた後、キースも茶碗を一つ手に取って掲げた。
「「干杯」」
同時に茶碗の中身を飲み干した。甘い香りが鼻をくすぐる。
「……美味い。」
「まぁ、そりゃあ最高級のモンだしな。」
互いに顔色は変わる事なく、静かに茶碗を置いた。手をつけられていない残り6つの茶碗が下げられていき、視線でその行方を追っていたキースの目が愉快そうに細められた。
「引き分け、か。」
「…当たり同士を引いたのだからな。」
俺がそう言葉を続けた刹那、茶器を下げていった方からは何かが割れる音や倒れる音がけたたましく響き、それに数人の嗚咽と呻き声が混ざり合っていった。
「……育ちが悪い奴は、意地汚ぇな。」
「あれだけの良い茶を、こんな風に無駄にするのは非常に不愉快だが。」
「当たりなんだから文句言うなよな…まぁ、お陰でネズミは一掃できたし。そら、ビームスさんよ。」
「商談」の続きをしようぜ?
そう言って笑う男は、やはり龍ではなく人を呑む蛇だ。
色硝子の奥に光る緑の目に胸の奥の何かが震えたような気がした。