『甘えん坊』グラウンドに響く福富くんの声は、いつも低く、力強い。「無駄な力入れるな。ペダルに集中しろ」 箱根学園自転車競技部の部長として、部員たちを鋭い目で見渡す彼の姿は、まさに獅子そのもの。私はマネージャーとして、いつもその背中を見つめている。福富くんは普段、必要以上の言葉を口にしない。私に対しても、部活の連絡や軽い確認程度。冗談や雑談はほとんどなく、どこか距離を感じる。でも、それが福富寿一という男である。
けど今日だけは、ちょっと違う。
「…うち、来てくれ」
部活の後、ロッカールームの前。福富くんがいつもの無口な口調で、ポツリと言った。視線は私に固定されているけど、すぐに逸らされる。いつものクールな彼とは少し違う、ほんの少しだけ柔らかい雰囲気に、私の心臓は静かに高鳴る。お家デート――福富くんの家に初めて行く約束。私は小さく頷き、「うん、行く」と答えた。福富くんは「…ん」とだけ返して、さっさと歩き出した。その背中を追いながら、私はなんだかドキドキしていた。
福富くんの家は、駅から少し離れた静かな住宅街にある。玄関をくぐると、シンプルで整った部屋が目に入る。自転車レースのポスターが壁に貼られ、棚にはメダルやトロフィーが並んでいる。ストイックな福富くんらしい空間だ。でも、ソファのクッションやテーブルの上に置かれたスポーツドリンクのボトルが、どこか生活感を添えている。
「…座ってくれ」
福富くんがキッチンからグラスを持って戻ってくると、短くそう言った。テーブルにリンゴジュースの入ったグラスを置く。その動きは無駄がなく、でもどこか落ち着いている。私が「ありがとう」と言うと、彼は軽く頷いて、ソファの反対側にどっかりと腰を下ろした。
しばらくは、静かな時間。テレビではスポーツニュースが流れているけど、音は小さくて、部屋には私の呼吸と、福富くんの存在感だけが響く。普段の彼は、部活で仲間を引っ張るリーダーだ。言葉は少なくても、その一言一言に重みがある。でも、今はそんな威圧感はない。ただ、ソファに座る福富の横顔が、いつもより少しだけ穏やかに見える。
「…なあ」
突然、福富くんが口を開いた。声は低く、どこかためらいがち。私が「ん?」と顔を上げると、彼は一瞬目を逸らし、指でソファの端を軽く叩いた。
「…ちょっと、横になっていいか」
その言葉に、私は一瞬、頭が真っ白になる。福富くんが、横に? いつもクールで、部員を引っ張るあの福富くんが? でも、彼の頬がほんの少し赤いのに気づいて、私はドキリとした。「う、うん、いいよ」と答えると、福富くんは一瞬だけ私を見た。まるで、許可を確かめるように。
彼はゆっくりとソファに体を預け、ためらいがちに――私の膝に、そっと頭を乗せた。獅子のような鋭い顔立ちが、こんな近くで見ると、どこか無防備で新鮮だ。福富くんは目を閉じ、静かに息をつく。部屋の空気が、なんだか少し温かくなった気がした。
「…いいか?」
福富くんの声は、ぶっきらぼうで短い。でも、その一言には、どこか信頼が込められている。私は小さく頷き、「うん、大丈夫だよ」と答えた。そっと、彼の髪に触れてみる。硬めで、少し汗の匂いが残る髪。福富くんはピクリと反応したが、すぐにリラックスしたように体から力が抜けた。
「…外じゃ、こうできないから」
ポツリと呟いた彼の言葉は、まるで自分に言い聞かせるようだった。私は彼の髪をゆっくり撫でながら、ドキドキする胸を抑えた。いつもは部活で仲間を鼓舞し、どんな時も冷静な福富くんが、今は私の膝の上で、こんな風に無防備にいるなんて。
「…疲れてるのかもな」
福富くんがまたポツリと呟く。声は小さくて、どこか不器用だ。「いつも、みんなを見てなければいけない。…○○の前だと、ちょっと、休める」
その言葉に、私の心は温かくなる。福富くんが、こんな風に自分をさらけ出すなんて。いつもは無口で、口下手で、でもその一言一言が、こんなにも重い。
私はそっと笑って、彼の髪をもう一度撫でた。「…じゃあ、いつでも休みに来ていいよ、寿一くん」 その言葉に、福富くんは一瞬目を開けた。私をじっと見つめるその目は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「…ん。なら、ここは、俺の場所だ」
福富くんはそう呟いて、目を閉じた。口数は少ない。言葉は不器用。でも、その一言が、私の心に深く響いた。テレビの音が遠く聞こえる中、福富くんの静かな寝息が部屋に満ちる。私は彼の髪を撫でながら、この時間がずっと続けばいい、と思った。