ママの「目が覚めた」のはぼくが十二歳の時だったと思う。時期が曖昧なのは、ぼくがママの異変になかなか気が付けなかったからだ。本当はもっと早くだったのかもしれない。
「ママが間違ってた。これまでごめんね」
よく聞くセリフだったからぼくはママそんなことないよ、と普通に返事をした。ママは辛そうな顔をした。ぼくは目の前のグラタンが冷める前に食べたかったけど、今スプーンでふうふうして食べたりしたら止められるだろうとも思ったから、迷っていた。
グラタンのチーズが固まっていく変化には気づいていたけど、ママが違う人みたいに変わっていることはわかっていなかった。
その日は気まずい空気のままぬるいグラタンを食べた。
「ママ、予定表の来週、埋めて」
グラタンの日から数日経っていつものようにぼくがノートを持っていくと、ママは首を振った。珍しくお化粧をしていた手を止めて、真剣な顔でぼくを見る。
「予定表はもう作らないよ。拓未が自分で書いていい。本当にしちゃいけないことだけママが止めるから、自分でやりたいことをやっていいの」
ぼくがやりたいことは、ママに予定表を埋めてもらうことだった。僕は惑う。今週分は予定が書いてあるけれど、もう今日は金曜日だ。しばらくは今週と同じことをしてしのげるかもしれないけれど、これから季節が変わったら、学年が変わったら、得意科目が変わったら、受験になったら、いったいどうすればいいんだろう?
「予定表、捨てちゃってもいいよ」
ママはそんなことまで口にした。どうして? 予定表を捨てたら大変だ。何をすればいいのか全て忘れてしまう。細かい事は決まっていないけれど、概ねはもう決まっているのだ。せめて通う高校と大学、就職先候補も十社くらいは残しておかないと。
「言ったでしょ。ママ、間違ってたの。友達と遊んだりしていいし、ママに内緒をしていいし、……その予定も。進路を自分で決めていいんだよ」
そんな仕組みは知らない。実はこの世って人間を殺したりしてもいいんだろうか? どういうことだ? ぼくはママの言う通りにしておけば上手くいくはずだったのに。
ぼくが困っている間にママはお勉強会へ出かけてしまった。
兄の部屋に行くと干からびたみたいに力なく床に落ちている兄がいた。
「兄、何してんの」
「絶望」
絶望していた。
何をすればいいのか困ったから見に来たのに、絶望しかしてないとなると困ってしまう。参考にならない。
「これから何かする?」
「するかもしんないけど、どうしていいのかわかんねーよ」
乱暴な口調で兄はぼやく。兄も困ったからとりあえず絶望していたんだろうか。お互い大変だな、と思った。
「今更、」
兄から搾り出された声はぎざぎざしていて、泣きそうだった。ドラマや演劇みたいな感情の詰まった声が家族から出てきたことに、ぼくはどきどきした。怖いような、辛いような、よく分からないどきどき。
「今更……間違ってたなんて言われても……なんで、なんで今更……」
かわいそうに、と思った。別にママが自分を間違ってたと言ったところで兄が間違ってたことにはならないと思うのに。今にも泣きそうな、かわいそうな兄。
「もう俺は、自分で自分をどうしていいかなんてわかんねーよ。お前だってそうだろ」
「たしかに、そうだね」
だからこそ兄を見にきたのだ。けれどそうか。ぼくも兄も同じ環境で育ったのだから、同じように、どうしていいのかわからない状態になっているのだ。なるほど。
「習ってねえよ、自分の人生の決め方なんか……」
兄はかわいそうな声で泣きそうになりながら床に落ちていた。ぼくは別に泣きそうではなかった、絶望もしていなかった。ただ困っていた。
でも困っている理由が分かったから、絶望は今後もしないと思う。
そう、ぼくは予定表の作り方を教わっていないのだ。
「ママ、予定表」
「だめ、作らないよ」
「違う。作り方教えて」
ママはよくわからない顔をした。
予定の作り方を覚えて、絶望している兄の分もある程度作ってやろう。ぼくはやる気に燃えていた。
高校に受かって制服を買うことになったので、採寸に向かう。同じような中学生がぞろぞろ集まって採寸して、その場で注文まで済ませるという素敵な催しだ。
「制服、二つ選べるんだね」
大人数での採寸は待ち時間が長かった。座って待っていると、ママがカタログを見ながらそう言う。選べるってなんだろうと見てみると、学ランとセーラー服の写真があった。この二つが選べるらしい。
「へえ、学ランとセーラーなんだ」
ぼくが言うとママが苦笑した。
「知らなかったんだ?」
うん、と頷く。制服に興味ないんだね、と笑うママは学ランとセーラー服のどちらを選べばいいのかもうぼくに教えてはくれない。
「男子でもどっちも選べるんだって。時代だね」
時代らしい。むしろ学ランとセーラー服なんて古い時代のデザインな気がした。あとで制服の歴史を調べておこう。
「男子の制服は学ランだと思ってた。セーラー服にする理由って、あるの」
選定基準くらいは尋ねたら答えてくれるだろう。けれどママは難しい顔をした。
「身体が男の子でも、心は女の子の人はいるから。そのためかな」
「スカートを履いたら女の子なの?」
「うーん……いや……そういうわけでもないね。見た目が好きとか、ズボンの履き心地が好きじゃないとか、そういう理由で選んでもいいんじゃないかな。多分、男の子はほとんど学ランだろうけど」
ふうん、と頷いてみせる。ぼくは別にスカートが好きではない。履いたこともない。かと言って毎日履いてるズボンが好きかと言われたらそうでもない。じゃあスカートでもいいかな、と思った。
「俺、セーラー服にしようかな」
「セーラー服、着たいの?」
「まあ」
曖昧に頷いたけど、別に着たい訳ではない。でも学ランだって着たい訳じゃないのだ。そう言う気持ちを説明するのが面倒くさくて適当に頷いておいた。ママにぼくの全部を説明したり、報告する必要がないからだ。
「でもスカート履いたことないから心配だし、どっちも買いたい。俺お金持ってきたから、両方買っていい?」
「いいよ。じゃあ、セーラー服ぶんのお金だけ出してね」
お年玉貯金を削って、ぼくはセーラー服を手に入れた。スカートは別に不便じゃなかったので、セーラー服でも過ごせるな、と思う。