オキーフと嫁が出会った時の話 ヒトはなぜ、戦うのか。
なんて疑問は、当の昔にどうでもよくなった。
だが、戦場に渦巻く欺瞞・怨讐・欲望――あらゆる感情に、自らが雇われの諜報役としてその一端を担いながらも、オキーフは嫌気がさしていた。
何もかも――自分の生死さえどうでもよくなるほどに嫌気がさし、気分はひどく落ち込んで、だからある雨の日、彼は寂れたスラムの片隅、ゴミと死体の匂いにまみれた路地、汚れた水溜りの上に腰を下ろし、そのまま目を閉じた。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
「あ、起きた」
頭がぼんやりとしている。
オキーフは未だぼやけた視界を明瞭にしようと何度もまばたきをしながら、自分を覗き込んでいるらしい誰かを見上げた。
独り言のような声を漏らしたのも、今自分を覗き込んでいる彼女だろう。
クリーム色の天井が見える。病院のようだ、とオキーフは推測し、病人だと勘違いされて運び込まれたのだろうと憶測を付けた。
だがその瞬間、違和感を覚える。
病院にしては、女の服装は白衣や看護師の類のものではないし、独特な消毒液やリネンの匂いもしない。
「ここは、」
発した声は枯れていた。抑揚がないのはいつものことだ。第二世代の強化人間手術を受けて以降、オキーフはいくつかの感覚と共に感情とそれを表現する術を失っている。
「わたしんち」
「……病院では、ないのか?」
「そう。貴方、第二世代の強化人間でしょう?」
「何故わかった」
病院でなければ、モグリの技師の住処だろうか。
オキーフは身と、抑揚のない声を硬くした。
空気がわずかにピリつくが、女は気にしない風で言葉を続ける。
まだ若い。自分より、十歳以上は年下だろう。明瞭になってきた視界で観察する。
頭痛、耳鳴りは――雨に打たれたせいではなく、いつものことだ。いつもの、煩わしい副作用。
だが今日は幾分かマシに感じられる。
女の声が、聞き取りにくいと思うこともなければ、唇を読んで話を追わなければならないこともない。
「コネクタを見ればすぐだよ。でも運が良かったね。都会じゃあコーラルを使わない強化人間手術の方法が生み出されつつあるんでしょう? 第二世代なんて絶滅ってほどじゃないけど、今じゃ珍しい部類だし……。あ、私の師匠、この家の前の持ち主が、第二世代の強化人間だったんだ。だからここには処置できるものが色々残ってて、手伝いをしてた私もちょっとだけ覚えがある。耳鳴りはどう? もう少し抑えたほうがいい?」
加減がわからないから、とりあえず少なめに入れておいたんだけど。
そう続けた女に、オキーフは良くしゃべる女だ、と思った。
だが技師としての腕は悪くなさそうだ。
「このくらいでいい。欲しければ言う」オキーフは言ってからハッとした。
第二世代の強化人間の肉体情報など、今ではもう欲しがる人間もいない。
だがそれはそれとして、意識喪失の間に自身の体をいじられ、薬剤を流し込まれて調整されるなど、ゾッとする出来事だ。
だが今、オキーフの気持ちは安定していた。
目の前の女技師の言葉を素直に信じ、その腕の良さに感心し、なんなら久しく味わっていなかった快適な肉体環境にわずかな感謝さえ抱いている。
精神安定系の薬も入れられたのだろう。だが、不思議なほどに不快感はなかった。薬剤で得た安定のわりに思考は良く回るし、よほど調整の腕がいいか、戦場で摩耗している間にいい薬が開発されたのだろう。
「落ちている強化人間を拾うのは、もうやめておいた方がいい。技師として、興味関心があるのだろうが、いつも俺のように安定しているわけではない。目が覚めた途端、殴りかかられたり、殺されることもあるぞ」
相手に感謝し、自然と気遣うことさえできる。
ああ、久しぶりに人間をやっているな、とオキーフは思った。忠告は、心からのものだった。
だが女は口元を抑えてふっと笑う。
「ちがうちがう。私、技師じゃないの。師匠の世話をしてたから、第二世代強化人間のことがちょっとわかるだけ。師匠も私も、本業はこれだよ」
女が腰に巻いていた作業ポーチを見せる。中にはいくつものハサミや櫛が収まっていた。
「お兄さん、あんなところに倒れてたのもびっくりしたけど、身なり良さそうなわりに髪も髭もめちゃくちゃなんだもん。色んな意味でほっとけなかったよ。第二世代だって気づいたのは、うちに連れてきたらだけど。でもまずは、ご飯だね。それから、お風呂に入ってほしいな」
あ、髪は洗うよ~。大丈夫、入院して一か月お風呂に入れなかった人とかも相手してるし。
女は朗らかに続けて、穏やかに笑った。
オキーフは伸びっぱなしの顎髭に触れ、口の周りの伸び具合に顔をしかめる。今は横たわっているから視界に入ってこないが、AC操縦中、垂れてくる前髪もうっとおしいと思っていた。
だがそれらをどうにかしようと思う暇もないほど、消耗していた。
「あ、悪いけどコーラルは最低限だけ入れてるよ。コーラルだけはどうやっても手に入らなくて、師匠が残して行った分しかないから。大丈夫? 立てる? ごはんは食べられそう? ダメなら点滴でもいいけど、口から入れたほうがいいと思うなあ。スープだったらいける?」
戦場で聞こえてくるのは怨嗟、悲鳴、脅しめいた命令。そんなものばかりだった。
ぽんぽんとテンポよく紡がれる女の声も、言葉も心地いい。
もう少し聞いていたいが、相手は返事を待っている。
オキーフは一度深呼吸をして口を開いた。
「もう少しだけ、眠らせてくれ」
「ああ、眠いんだ。ごめんね。じゃあ、夕飯の時間になったら起こすよ」
「その時は、軽いものにしてくれ。しばらくレーション以外口にしていない」
オキーフの言葉に女は「げぇっ」と声を漏らした。オキーフは思わず笑う。
女は「あんなもので良く生き延びられたね」と続けた。
レーションは最低限の摂取で生きられるよう計算されている。味を知っているならその性能も知っているだろうに、何故そんなことを言うのだろう。
そう思いながらも、目を閉じる。
この部屋は心地よく、柔らかな寝具は温かい。
こんな風に惰眠を貪りたいと思うのは、何年ぶりだろうか。
「おやすみ」
すぅっと意識が引いていく。言葉に誘われ、夕暮れの日が沈んで夜が訪れるように、自然に眠気がオキーフの意識を覆って、ゆっくりと眠りに落ちていく。
電源を消すような、強制的な、機械的な眠りではない。
あまりの心地よさに、オキーフは思った。
ああ、俺はこのまま、死ぬのかもしれない。