いい夫婦の日なので。 ふ、と基地内購買に、平時には見ない彩りを見つけて、スネイルは足を止めた。
水が溜まった縦長の容器に突っ込まれ、レース柄がプリントされたセロファン紙に包まれたそれは、小さいが確かに花束だった。
基地内にある食糧生産用の畑では、その隅、廃材などを利用して誰かが趣味で育てている花畑があるらしく、必要に応じて注文すればそれなりの花束を用意してもらえることは知っていたが、こうして既製品として売られているのは珍しい。
誰かの注文がキャンセルされたのだろうか。
立ち止まって考えるスネイルを見かけた購買の店員が、にこりと微笑んだ。
「今日は11月22日、ゴロ合わせで”いい夫婦の日”なんですよ。この基地にはご夫婦でいらっしゃっている方も少なくないですし、ちょっと用意してみたんです」
◇◇◆◇◇◆◇◇
「おかえりなさい。あら、それ――」
帰宅したスネイルが持つ小さな花束に目を向けると、ナマエはぱちりと瞬きをした。
なんとなく居心地の悪さを覚えて、店員に乗せられたわけでもなければ、くだらないゴロ合わせに付き合ったわけでもない、とスネイルは内心言い訳をする。
ナマエはアーキバス上級役員を祖父に持つ令嬢だ。
花束なら山ほど見てきただろうし、何本かをより合わせただけの今日の手持ちはさぞ貧相に見えるだろう。
でも彼女は興味深そうにスネイルが持つ花束に目をやって「可愛い花束ね」と微笑んだ。スネイルの頬が、ほんの少し、熱を持つ。
「どなたからもらったの? 今日、何かあったかしら? 誰かが退職した?」
君はね、正直になったらいいんだよ。ナマエは君を嗤ったりはしないから。
いつか聞いたホーキンスの小言が過る。
「ご飯、もう少しでできるから着替えていらっしゃいな」――そう言って背を向けようとするナマエに、スネイルは慌てて口を開いた。
「きょっ、」
「え?」
「今日は、ゴロ合わせで、いい夫婦の日だそうで」
「そうなの?」
「ええ、それで、基地の購買に売っていたのですが――」
売れ残っていたので引き取ったとかそう続けようとして、しかし、スネイルは言葉を失った。
ナマエが、驚いている。
頬をほんのりと赤く染めて、その瞳を期待でキラキラ輝かせながら。そうしてスネイルを見上げ「貴方が、買ってきてくれたの?」と問いかけるのだ。
「え、ええ。まあ……たまにはそういうのに乗ってやるのも、悪くはないでしょう」
「ええ、そうね。私たちがいい夫婦かは置いといて、そういうイベントごとに乗れるぐらい基地の雰囲気がいいのは、良いことだと思うわ」
「うっ」
「スネイル?」
「いえ……」
ナマエの言い分ももっともだ。
素直になれない夫に、読めない妻。仮面夫婦とまではいかずとも、本音を見せ合うことがないままの自分たち。
けれどナマエが意識してそう振舞っているわけではないことを、スネイルは知っている。上級役員の家柄という生まれはまだしも、育ちは少々特殊だ。
だから彼女と本音で話し合いたいなら、まず自分がさらけ出さねばならないのだと、わかってはいる。いるのだけれど。
「貴方の顔が、浮かんだんです。その花束を見た時に」
「地味で目立たない感じかしら?」
「どうしてそんなことを言うのです。愛らしくて清楚で、それでいて可憐で、貴方は――っ!」
自分が何を口走ったのかハッと気づいて、スネイルは口を噤む。
慌ててナマエを見ると、彼女は心底驚いたとでも言いたげな顔で「貴方でも、そんなこと言うのね」なんて続ける。
「ま、まあ、せっかく乗ったのですから、たまには本音で話すのもいいでしょう」
「私のこと、愛らしくて清楚で可憐だって、思ってくれているの?」
「箱入りらしく繊細で手折るに容易いと思いきや、意外に芯が強く面倒だとも思ってますが」
「そう、ふふ」
「何が面白いのです?」
ナマエの頬の赤みが、先ほどよりも強い。
けれど嬉しそうに笑うその顔を見ていると、スネイルの頬も先ほどより熱くなってくる。
何をしているんだか、と内心ぼやき、スネイルは小さな花束をナマエに押しつけて、玄関から奥へと進んだ。
「私は貴方のそういう所、可愛いって思っているわ。今まで出会った男の人の中で、きっと一番好きよ」
「!」
「それよりも、スネイル、どうしましょう。今日はいい夫婦の日なんでしょう? なら私からも貴方にプレゼントがなければいけないのに、何も用意していないわ」
スネイルはぴたりと足を止めて、振り返る。
小さな花束を胸のあたりに持つナマエは、なんだかいつもよりもずっと可愛く見えて「ならば今晩、貴方をいただきましょう」なんて下卑た言葉が過った。
けれどさすがにそれを口にするのはためらわれて、スネイルは眼鏡の奥で目を細める。
「口づけを、」
「なあに?」
「貴方から、口づけをしてください」
「……それでいいの?」
「望めばそれ以上もしてくれるのですか?」
「えと、それは――」
「口づけだけで構いません。早く」
「急かさないでちょうだい、もう」
軽く腰を折って、ナマエの目線に合わせる。
片手で大事そうに花束を掴んだまま、ナマエはもう片方の手でスネイルの頬に触れるときゅっと目をつむってから身を寄せた。
柔らかなそれが自分の唇と重なってふにっとつぶれた瞬間、たまらずスネイルは彼女の腰に手をまわして抱き寄せ、驚きに離れた彼女の唇を追いかけるように口づける。
「スネイルっ、」
「夕食は、後にしませんか」
「え?」
会話の合間さえ惜しい。離れたくないと言わんばかりに何度も何度も、啄むように唇を重ね合わせ、まだその気でないらしいナマエの気を引くべく、舌を差し入れて絡め合う。
乱れる息の合間、抱き寄せた腰から下、臀部へと続くまろやかな曲線を撫でると、ナマエの体が小さく震えた。
「待って、いったん火を、止めてくるから……お花も花瓶に入れたいし……」
「では私は軽くシャワーを浴びてきます。先に寝室で待っているように」
「……わかったわ」
口づけに炙り出された情欲で、ナマエの目は潤んでいる。そんな目で恨みがましそうに見上げられても、スネイルの劣情を刺激するだけだ。
スネイルは一時でも離れなければならない名残惜しさと、この後の期待を含ませた口づけを、真っ赤になったナマエの頬に落とした。
そうして腕から離れるナマエがキッチンに向かうのを見届けながら、明日の予定に思考を巡らせる。
朝一番で片付けなければならない案件はない。多少、出勤時間が遅くなっても構わないだろう。まあ、多少盛り上がったところでスネイルは強化人間だし、そうでなくても体力には多少の自信がある。
ナマエにあまり無理をさせて、後からホーキンスあたりに小言を言われないよう注意しなければ、なんて思いながら、足早に浴室へと向かった。