バレンタインなので「バレンタインデー?」
もうすぐ日付も変わろうとする時間。
残業を終えて帰宅したスネイルは、いつもなら先に寝ている妻が珍しくダイニングで待っていることに、まず驚いた。
何か言いたいことでもあるのだろうか、と内心身構えていると、彼女はテーブルの上に置いた皿を指差して「今日はバレンタインだから」と答える。
白磁の皿に同じ白のレース紙が敷かれたそこには、丸い茶色の塊が置いてあった。
「恋人や夫に、チョコレートをプレゼントする日なのよ」
スネイルのことは見ず、妻は茶色の塊――チョコケーキだろう――を見つめている。
形式的に用意した、と言わんばかりのその仕草に、スネイルは舌打ちをひとつ。
「こういったくだらない行事を行うつもりはないと、最初に言ったはずですが」
「そうなのだけれど、今日はなんだかケーキを焼きたい気分だったの」
「では私が食べる義理もありませんね」
「……そうね」
食事は仕事中、エネルギーバーで済ませた。
明日も早い。シャワーを浴びてさっさと寝ようと思いながら帰宅したところだ。
チョコレートケーキなど、食べる気にもならない。
スネイルはケーキを見つめ続ける妻を置き去りにして、浴室へ向かった。
シャワーを浴び、髪を乾かして寝室に向かったが、そこにいるはずの妻の姿がない。
まさかまだ、自分を待っているのだろうか。
一緒にイベント事など、今まで一度もやったことがないのに、なんと愚かで時間の無駄だろう。
「……」
そんな馬鹿な女を妻にした覚えはない。
スネイルは苛立ってダイニングへ向かった。一言を言わねば眠れそうにない。
妻はやはりまだダイニングにいた。
ケーキを前に、俯いて、目元を拭っている。スネイルには気づいていない。
泣いたから、なんだ。そちらの押し付けに付き合うつもりはない。
だが、日付が変わって終わったバレンタインデーを行えず、ダイニングで一人泣く姿に溜飲が下がる。
スネイルは口元を歪め、密かに笑った。いい気味だ。これで二度と愚かなことをしようなどとは思わなくなるだろう。
「……」
慰めなどしない。勝手に浮かれて勝手にケーキを焼き、勝手に期待したのはあちらのほうだ。
スネイルはただ黙って踵を返し、寝室へ向かった。
妻が、鼻を啜る音が聞こえる。号泣しているのだろうか。大げさな。これだから世間知らずの令嬢は。
スネイルはため息をついた。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
それから何年かの月日が流れた、辺境惑星ルビコン。
閉鎖環境に置かれた社員たちのリフレッシュも兼ねて、アーキバス基地ではイベント事が比較的盛大に行われる。
バレンタインデーもそのひとつだ。
この日のためにわざわざ星外から取り寄せられた花や菓子、プレゼントに相応しそうな様々な品が、小さな購買に並ぶ。
珍しいものを求めて、わざわざルビコニアンたちの闇市やグリッドの商業区に足を運ぶ者もいるらしい。
くだらない行事だが、それで社員たちの士気が上がるのであれば安いものだ。
「スネイルも、今日は早く帰って彼女と過ごしなよ」
「いえ、私は仕事を――」
「君が帰らないと帰れない人間がいるんだよ。ほら、たまには、ね?」
「……わかりました。今日は貴方に従いましょう、V.Ⅴ」
「素直じゃないねぇ」
「素直も何も、私たちはこういうくだらない行事はしないと最初から取り決めてありますので」
「でも、貰ったら嬉しいんだろう?」
「好みではありません」
「じゃあ君が贈ってみたらどうだい?」
「……」
この日のために取り寄せられたチョコレートの中には、普段口にできないような貴重な物も多くあった。製菓企業やショコラティエたちも、稼ぎ時だと便乗するのだろう。
だがアーキバス上級役員のご令嬢として生きていた妻からしてみれば、おそらくチョコレートは定番の手土産であり、高級かつ貴重なそれらも食べ慣れているだろう。
花も同様だ。
宝飾品や化粧品は、彼女の好みがあるし、必要であれば経費として随時支出している。形式だけの夫から欲しいものなどないだろう。
「今更、と思わないで、試しに渡してみたらどうだい? 私のお勧めはね、水星の――」
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
結局ホーキンスが勧めたチョコレートは売り切れていた。
というか、バレンタイン関連の商品はすべて売り切れていた。
本番である今日までに売らなければ役立たずの品になるのだから、売り切るのは当たり前だろう。
むしろ無駄を残さずうまく捌いた購買部の手腕には、賛辞を与えなければならないところだ。
別に、妻は自分からのプレゼントなど欲していない。
そういうわけでスネイルは定時に仕事を終え、手ぶらのまま帰宅した。
元いた星では家政婦が家事を行っていて、定時で帰ると彼女が夕飯の支度をしていたものだが、ルビコンでは違う。
帰宅し、ドアを開けると、夕飯の匂いが鼻をくすぐる。
だがダイニングの奥、キッチンに人影がない。
電気はついているが――と覗き込むと、しゃがみ込んでオーブンを覗く妻がいた。
「おかえりなさい、夕食にする? 先にシャワーを浴びてきてもいいわよ」
「まだできていないのですか?」
「夕飯は出来てるわ。今焼いてるのは、ガトーショコラよ」
「……」
しゃがんで揃えた膝の上、ちょこんと手を置いてオーブンの中を見つめたまま、ナマエが言う。
ガトーショコラが何なのかスネイルにはわからなかったが、数年前のダイニングで見たチョコケーキが頭をよぎった。
「私が焼きたくて焼いてるのよ。貴方にあげるためじゃないの。だから安心してちょうだい」
そう言いながら、妻はスネイルを見てふと微笑む。
だがすぐにオーブンへと視線を戻し「いい具合ね」と呟いた。
別に、それでいい。それが正しいとスネイルは思う。
思うが、なんだか腹が立った。理由はわからない。だが腹が立ったので、口を開く。
「そう言って、いつかの日は泣いていたじゃありませんか。うっとおしくて仕方ありませんでしたよ」
「見ていたの?」
「愚かな期待を抱いて、私を待っていたなどと言われては堪りませんからね」
「そうね。でも戻ってこなくてもよかったのに。別にあの日は、貴方を待っていたわけじゃないのよ。貴方を思って泣いたわけでもないの。今日もそうだけれど」
膝に乗せた手、そこに背を丸めて顎を乗せる。
小さくて、子供のようなしぐさだ、とスネイルは思った。
「ふと思い出したのよ。バレンタインの日に、母と一緒にガトーショコラを作ったの。父が帰ってきたら、三人で食べましょうって。あれが、母と一緒に料理をした、最初で最後の思い出だったなあって」
ふ、と妻が口元をほころばせる。だがその目元は笑っていない。
寂しそうだ、などと一瞬思って、スネイルは顔をしかめた。
彼女の思い出話など、どうでもいい。
「父がクルミ入りのが好きだから、たくさん入れて。うまく焼けたわ。私は本当に少し手伝っただけだから。なのに私ったら、私が全部作ったみたいに父に言ったのよ。彼はきっとわかってたでしょうけど、とても喜んでくれて、三人で食べたわ。幸せだった。来年もまた作ってほしいって言われたの。次の年、二人がもういないだなんて、思いもしていなかった」
妻の両親がすでに死んでいることは、入籍前に聞かされている。
それで彼女はアーキバス上級役員の祖父に引き取られたが、詳しいことは聞いていない。妻も話さない。
彼女の口から両親のことを聞いたのは、これが初めてではないだろうか。
「あの日は、思い出して切なくなっちゃったの。それだけよ。でも私、料理はそこそこ上手でしょう? あの後食べたら美味しかったの。一人で食べるのは大変だったけど、ここなら明日、基地に持っていけばいいかと思って」
だから貴方のために焼いたわけではないのよ、安心した?
続けてそう問われ、スネイルは眉間の皺をいっそう深くした。
胸に重たく不快なものが沸き上がる。腹が立つが、何に対して腹が立っているのかわからず、それにまた腹を立てる。
スネイルは無言のままその場を去り、浴室へ向かった。
冷水を浴び、無為に怒りを覚えている自分を冷静にさせる。
いくらか落ち着きを取り戻してダイニングに戻ると、テーブルには夕食が並べられていた。
キッチンでは、焼きあがったらしいガトーショコラが――やはり以前と同じものだ――型に入ったまま置かれている。
「でも思ったのだけれど、みんな今日はたくさんチョコレートを食べるわよね? なのに明日ガトーショコラを持っていったら、きっと迷惑ね」
「……」
そうして無言のまま、夫婦の食事は進み、スネイルが食後のワインを出したところで、妻が片付けに入る。
食洗器に食器を入れて、彼女はガトーショコラに手を掛けた。
「型からすぐ外さないのは何故です?」
「熱いうちに触ると柔らかいから崩れてしまうの」
「……食べないのですか?」
「一晩寝かせてから食べると美味しいのよ」
一晩寝かせて美味しくなったガトーショコラを基地に持っていく妻の姿が目に浮かぶ。彼女に懐いているメーテルリンクは素直に喜ぶだろう。
ペイターは「チョコは昨日で食べ飽きました」なんて言いつつも、受け取るに違いない。
ホーキンスは「うまく作れたねぇ」「美味しいよ」と褒めるだろうか。
フロイトもああ見えて甘い物は好きだから、渡されれば食べるだろう。オキーフやラスティはどうだろうか。スウィンバーンが恐縮して固辞するのはわかるが。
「……」
型からうまく外れたそれを皿にのせて、妻はそのままラップをかける。
スネイルはグラスに残ったワインを見つめた。
今日はなんとなく赤を選んだが、赤ワインにはチョコレートが合う、と聞いたことがある。
「家族で食べた時は、その晩に食べたのでしょう?」
「そうね。もう粗熱は取れたから、食べても問題ないと思うけれど……。スネイル、貴方、食べてみる?」
「ワインに合うと聞いたのを、思い出しました」
「じゃあひとつ切るわね」
円形のケーキに、切れ目を入れる。
よく見る三角形が、ひとつ、小皿に乗せられた。
スネイルはワイングラスをもうひとつ用意する。
別に、贈り物をしあうというわけではない。
貰ってそのままでは、気分が悪いというだけだ。
「これは貴方の分です」
「私、赤はあまり得意じゃないのだけれど」
「いいから飲みなさい」
「……そうね。チョコレートと合うか、確かめてみなきゃいけないものね」
赤ワインのグラスとガトーショコラが乗った小皿。
夕食の代わりに、それらがテーブルの上に並ぶ。
一口食べたスネイルは顔をしかめた。甘い。ワインに合うわけがない。
噛んだクルミごと押し流してしまおうとグラスを取るが、飲んでみれば案外合う。
「意外と美味しいわね」
「ええ」
「てっきりビターなチョコレートと合わせるものだと思っていたけれど、悪くないわ」
この組み合わせなら、甘いケーキも悪くはない。
食べ進めながらスネイルはふと思った。
「チョコレートケーキとこのガトーショコラとでは、何が違うんです?」
「ガトーショコラもチョコケーキの一部だと思うわよ。でも私としては、チョコレートを混ぜて焼き上げた濃厚なこれがガトーショコラで、チョコレート風味のスポンジ生地の表面や間にチョコクリームを使ったものがチョコケーキ、かしら?」
「……よくわかりませんね」
「来年はチョコケーキにしようかしら」
「私は別に、食べるとは言っていません。今日は赤ワインに合いそうだと思っただけで――」
「そうね」
夕食時と同様、その後は無言だった。
一口ごとに襲う甘さをワインでかき消しながら食べ進めるスネイルよりも早く食べ終わったナマエは「ごちそうさま」と言って早々に立ち上がる。
食器を下げた彼女はそのままシャワーを浴び、寝室へ。
ダイニングにスネイルが一人残るのはいつものことだ。ちびちび酒をやりながら、ニュースに目を通したり読書をしたりする。
だが今日は随分と、寒い。
さっさと切り上げて寝よう、とスネイルは思う。
思うのだが、ガトーショコラはなかなか減らなかった。