こどものままでシガレット ガチャリと開けたドアの中が暖かくて、惚けたようにはぁと息を吐く。日中はまだ汗ばむのに、夜はさすがに半袖じゃもう寒い。日が落ちるのも随分早くなった。つい最近まで歩けば途端に汗が吹きでるような暑さだったのに、今では吹く風が頬をひんやりと冷やす。
今年もきっと短い、秋。
靴を脱ぎながらはたと気付く。今日は出迎えがなかった。あの人は一日オフだったはず。玄関に靴はあったし、出かけてるわけではなさそうだけれど。
あ、そういえば俺もただいまを言うの忘れてた。まぁ彼は仕事部屋で何かしているか、俺を驚かせようとして隠れているかだろうな。後で言えばいっか。なんてぼんやり考えながらまっすぐ寝室に向かって部屋着に着替える。前にRa*bitsでコラボしたブランドのルームウェア。ふわふわで柔らかい生地が気に入って買い取ったら彼も欲しいと言うので結局お揃いにしたものだ。
パーカーのジッパーを上げながらリビングに向かう。フードのうさ耳が背中でゆらゆら揺れる。ぺたぺたと床を歩く音がする。あーあ、裸足じゃもう寒いや。
今日は、というかここ最近はいつもより忙しくて同じ家に住んでいるのになかなか顔を合わせられてなかった。お互いドラマだったりライブだったりと仕事が詰まっていて、とにかくすれ違う日々を送っていたのだ。
でも明日は2人とも午後からのはずだから、今夜はいつもよりちょっと夜更かしをして、たくさん話をしたい。それから、彼にぎゅっとして欲しい。ふわふわのお揃いの部屋着で抱きしめあったら、肌寒さもさみしさもきっと飛んでいってしまうだろうから。
ぽやぽやと浮かれた頭のままリビングへ続く扉を開けた。
「……あれ?」
居ると思っていた人がいない。仕事部屋の電気は着いてなかったからリビングに居るはずなのに。
彼を探してぐるりと部屋を見渡す俺の頬を冷えた風が優しく撫でた。揺れる前髪を抑えながら思わず頬が緩む。あぁ、見つけた。
ほんの少し開いた窓の外で銀髪が揺れている。髪の隙間から俺とおんなじうさ耳が見え隠れする。その可愛らしい服が彼とは少しちぐはぐな気がして、なんだか面白かった。
そぅっと、彼のいるバルコニーへ向かう。ぺたぺた鳴る足音が響かないように、こっそり。後ろから名前を呼んで、彼が振り返ったら抱き付こう。素直に甘えるのはまだあんまり慣れてないけれど、今日はそのくらい甘えたいと思った。
ふわり、風に乗って初めて嗅ぐ匂いがする。なんだろう。俺の知らない匂い。よくよく見たら細い煙が彼の周りで揺れている。
彼を驚かせるつもりの計画は頭の中ですっかり溶けてしまったようで、代わりに間抜けな声が口から溶けて落ちた。
「……渉?」
ゆるりと振り向いた彼のからだにまとわりつくように紫煙が揺らめいた。まんまるい月の光のせいで顔はよく見えなかった。
バルコニーに一歩足を踏み入れて彼の隣に並ぶ。頬を撫でる風はやっぱりひんやりとしていて、確かな秋の訪れを示した。
「たばこ」
思わずこぼれた声が彼に届いたかはわからない。風に吹かれて飛んでいきそうな、か細い声だった。
「おかえりなさい、友也くん」
なんでもないみたいに、まるっきりいつも通りに彼は言った。おそろいの部屋着、相変わらず綺麗な髪、ふんわりと緩んだ目元、俺のための甘やかな声。いつもと違うのは彼の長い指に挟まれたものだけ。俺はただいまも言えないまま、ぼうっとその姿を見ていた。
咎めたい訳じゃない。だってもう大人だ。俺も渉も。誰に怒られる訳でもない。
でも、見たことがなかった。もう何年も一緒にいるのに、一度も。紫煙を纏って微笑む彼はいやに妖艶で、まるで俺の知らない誰かみたい。
ぷかぷかと浮かぶ煙に心の奥がムズムズする。俺にはよくわからない甘い匂いが鼻先をくすぐった。距離は近いのになんとなく遠くて、それが寂しかった。
もし風が強く吹いたら、涙が出そうだと思った。なんでだか、わからないけど。
ハッと気づいた時には俺の手は彼の腕に伸びていて、慌てて服の裾へ向けて軌道を修正した。ぎゅっと彼の服の裾を握って、ちらりと盗み見るように彼の横顔を覗く。俺の視線に気づいた彼がこちらを見て柔らかく微笑む。ドキリと心臓が跳ねた。彼がそれを口に含んで吸い込んで、すぅ と吐く。
煙たい。甘い。わかんない。
ゆらりゆらり、煙が揺れる。ふわりふわり、髪がなびく。今夜はなんだかやわらかい夜で、いつかの春の夜にちょっと似てる。でも、あの夜よりほんの少しだけ他人行儀だ。
「……おいしい?」
無意識に服の裾を掴む手の力が強くなっていた。柔らかな素材のパーカーがくちゃりと歪んでしまっている。あーあ、しわしわだ。なんて、頭の片隅でどこか他人事みたいに思っていた。
「……試してみます?」
風が吹いた。やわらかくて冷たい風。目の前の彼のいたずらっ子のような顔を見ながら、目の端で煙の行方を見ていた。夜の中でゆらゆらと揺れて、ゆるりと揺蕩って消えた。
はい、あーん と言いながら間抜けに開いた俺の口にタバコを咥えさせる。俺の心臓はどんどん駆け足になって、顔が熱くなる。夏はもう過ぎたのに、俺だけに夏が戻ってきたみたい。
彼が慣れた手つきですっかり短くなったタバコを消して、新しいものを口に咥えた。流れるように火をつけたそれを唇で挟んたまま、彼の顔が近づく。その一連の流れがあんまりにもスムーズで、俺はただタバコを口にくわえたままぼんやりとしていることしか出来ない。
彼のタバコの先と、俺のタバコの先がピタリとくっつく。あぁ、これがシガーキスってやつか。まるで映画みたいだ。またぼんやりと頭の隅で思った俺はぎゅうっと瞼を閉じて、それから──。
「……っ!?」
ガリっと音がしてぼとりと落ちた。くわえていたはずのタバコが。慌てて口の中に少し残ったそれを吐き出そうと思ったけれど、何かがおかしい。甘いのだ。タバコだと思っていたそれが、甘い。ココアなのにココアじゃない、不思議な味。小さかった時に妹と大人ぶって食べて遊んだ、あの味。
ばっと顔を上げて見た彼は吹き出す寸前みたいな顔をしている。俺の顔はみるみる熱くなる。きっと真っ赤になっているだろう。なんとも言い難い感情に耐えられなくて手をグーに握りしめて彼を殴った。
「ホワッ!痛いですよう!友也くん!」
「ッ──!こんのバカ!!」
口から出た暴言はまるで子どもみたいに陳腐だ。
「フフフ、すみません。でも、美味しかったでしょう?」
「──ッ美味しかったよ!!ココアシガレットだもんな!!!」
至極楽しそうに彼が笑う。その顔はいつもとなんにも変わらない。おそろいの部屋着、相変わらず綺麗な髪、ふんわりと緩んだ目元、俺のための、甘やかな声。いつもと違うのは口にくわえたココアシガレット。
「そもそも!なんでココアシガレットから煙が出るんですか!!」
「Amazing☆この私にできないことなどありませんよぉ!」
彼が耐えきれなくなったように吹き出して、大きな声で笑う。そうなったらもう怒るのも馬鹿らしくて俺も釣られて笑った。2人分の響き渡る笑い声も秋の夜風に乗ってふわふわと馴染んで消えていく。
ひとしきり笑って、ぴったりと肩を触れ合わせながら秋風に髪を遊ばせる。ぽりぽり ぽりぽり、2人してなんとも言えない味のココアシガレットをかじる。
「そういえば、なんでタバコ吸う真似なんてしてたんですか?」
口の周りについた粉をぺろりと舐めて尋ねる。ぱきりと音を立てながらココアシガレットを噛んだ彼がふっと笑った。
「あぁ、今度喫煙者の役を演じるんですよ。あんまり慣れてないと格好がつかないでしょう?」
かっこよかったですか?と俺に問いながら、すっと伸びた指が俺の唇を拭った。そのまま舐め取られた彼の指の先を見ながら、俺は右に左に瞳を揺らす。
「……かっこよかった、です」
ほんのひとさじの素直さと、たっぷりの照れくささを混ぜてそう呟いた。彼はぱちくりと二度瞬きをしてからにっこりと微笑んで、そっと俺の肩を抱き寄せた。
時折頬に触れる彼の髪も服も、どちらもふわふわで柔らかくて心地好い。呼吸する度に嗅ぎ慣れた彼の香りで満ちる。段々と俺の頭もふわふわして、口の中に残る甘さと一緒に溶けてしまいそうな気がした。
「友也くん」
「んー……?」
「そろそろ中に戻りましょうか。やわらかな風ですけど、やっぱり少し冷たいですから」
あの日とは違いますね。そう言う彼が笑いながらカラカラと音の鳴る網戸を開けて部屋へと戻っていく。
ぼんやりと彼の背中を眺めたままの俺に早く中に戻れとでも言うように、ぴゅうと風が吹いた。ふるりと肩を震わせて、ふわふわの服を纏った腕を擦り合わせる。
やっぱり、今夜はあの日みたくやわらかい。でもどことなく他人行儀だ。ひとりでぼんやりするには少し肌寒い。
その分、ふたりで隙間もないくらいくっついたらちょうど良くなりそうな気がした。
だから、そうだな。たとえば、空になったお菓子の箱を手に持つ彼の背中に抱きついてみようか。駄菓子を買ってもらって喜んだ、幼かった日の俺が甘えるみたいに。
俺も彼もすっかり大人になったけれど、たまにはそんな風に甘えてもいいと思った。
ココアシガレットを吸って遊ぶ彼なら、きっと笑ってくれるだろうから。